第一章 触れられない硝子の記憶
久保田涼介の時間は、五年前に死んだ母の部屋で止まっていた。部屋の主を失ったグランドピアノは、分厚い布を被せられ、大きな黒い沈黙の塊と化している。その上に、たった一つだけ、ぽつんと置かれたものがあった。てのひらに収まるほどの、涙滴のような形をした硝子細工。内部には、淡い虹色の光が揺らめいている。母が死の間際に遺した、「記憶結晶」だ。
この世界では、人は一生に一度だけ、自らの最も大切な記憶を物理的な形あるものとして遺すことができる。最新の医療技術と量子力学が奇妙に交差して生まれたその奇跡は、遺された者への最後の贈り物とされた。しかし、代償は大きい。結晶化された記憶は、本人の脳から完全に消去されるのだ。だから、ほとんどの人間は、人生の最期にその選択をする。
涼介の母、久保田美咲は、かつて世界を舞台に活躍したピアニストだった。彼女の指から紡ぎ出される音色は、聴く者の魂を揺さぶると評された。そんな母が遺した記憶だ。きっと、満員のコンサートホール、鳴り止まない拍手と喝采、その輝きの頂点を封じ込めたに違いない。涼介はそう信じていた。そして、その輝きを直視することが、怖かった。
ピアニストとしてのキャリアを不慮の事故で絶たれた母は、最後の数年、明らかに光を失っていた。笑うことが減り、窓の外を虚ろに眺める時間が増えた。そんな母が、最後に執着したのが過去の栄光だったとしたら? 今の自分――音楽から逃げ、ただ無為に日々を過ごす息子が、その眩い記憶に触れる資格などないように思えた。だから涼介は、この五年、一度も結晶を再生しようとしなかった。ただ、沈黙したピアノの上で虹色に揺れるそれを、毎日眺めるだけだった。
ある雨の日、涼介は吸い寄せられるように、路地裏に佇む一軒の古物商に足を踏み入れた。埃と古い木の匂いが混じり合った店内で、彼はそれを見つけた。記憶結晶を再生するための、旧式の装置。ぜんまい仕掛けのオルゴールのような、真鍮の温かみを持つ機械だった。
「それに興味がおありかな、若いの」
店の奥から現れた白髪の店主は、時田と名乗った。皺の深い目元に、人の記憶を幾千と覗き込んできたかのような、穏やかで深い光が宿っていた。
「…これは、売物ですか」
「いや。これはワシの商売道具であり、趣味でな。持ち込まれた結晶を、持ち主の許可を得て、時々こうして見させてもらうんじゃよ。見ず知らずの誰かの、人生で最も輝いた一瞬を分けてもらう。贅沢なもんさ」
時田はそう言うと、手元の小さな結晶を装置にセットした。ぜんまいを巻く音が静かに響き、やがて、装置から立体的な光の粒子が立ち上る。目の前に現れたのは、夕焼けに染まる海辺で、老婆の手を引く幼い少女の姿だった。潮風の匂い、寄せては返す波の音、繋いだ手の温かさまでが、ありありと伝わってくる。それは、誰かの、何でもない、しかし、かけがえのない幸福の記憶だった。涼介は、その光景から目が離せなかった。
第二章 他人の幸福、自分の空白
それから涼介は、時田の店に通うようになった。時田は、涼介が誰で、何に悩んでいるのかを深くは詮索しなかった。ただ、訪れる涼介に茶を出し、時折、持ち主から許可を得たという記憶結晶を見せてくれた。
初めてプロポーズされた日の、心臓が飛び出しそうな喜び。我が子が初めて自分の名を呼んだ瞬間の、世界が祝福に満ちたかのような感動。友と夜通し語り明かした、馬鹿げているけれど最高に楽しかった一夜。それらは、歴史に名を残すような大事件ではない。誰の人生にも起こりうる、ささやかな幸福の断片だった。だが、その一つひとつが、持ち主にとっては他の何にも代えがたい宝物なのだということが、痛いほど伝わってきた。
涼介は、見知らぬ人々の記憶に触れるたび、胸の内に温かいものが灯るのを感じた。同時に、自分の心の空白を突きつけられるようでもあった。自分には、こんなふうに「最も大切な記憶」だと胸を張って言えるような瞬間があっただろうか。母が死んでから、自分の時間は止まったままだ。色褪せたモノクロームの世界を、ただ歩いているだけだった。
「お母さんの記憶、見てみんかね」
ある日、時田が静かに言った。涼介は首を横に振る。
「怖いんです。きっと、僕の知らない、輝かしいピアニストとしての母がいる。それを見たら…今の自分が、もっと惨めになる」
母は事故で右手の指の自由を失ってから、ピアノに触れることすらしなくなった。リハビリも早々に諦め、ただ静かに衰弱していった。涼介は、そんな母の絶望を間近で見ていた。だからこそ、彼女が遺したかったのは、その苦しみから逃れるための、過去の栄光に違いないと確信していた。
「母は、僕がピアノを弾く音を聞くのが辛い、と一度だけ言いました。僕がピアノに触れることは、母に過去を思い出させ、苦しめるだけなんだと…そう思って、僕はピアノをやめたんです」
「そうか」
時田はそれ以上何も言わず、窓の外に視線を移した。店内に、古い柱時計の音だけが響いていた。涼介は、ずっと母の期待を裏切ってきたという罪悪感と、母を救えなかった無力感に苛まれていた。母の結晶は、その罪の象徴のように思えた。
だが、時田の店で様々な記憶に触れるうち、涼介の心に小さな疑問が芽生え始めていた。あれほど多くの人が、人生の最後に選び取るのは、名声や成功の記憶ばかりではない。むしろ、愛する誰かと過ごした、何気ない時間の記憶の方がずっと多いのだ。
だとしたら、母は? あの、誰よりも音楽を愛し、そして音楽に絶望した母が、本当に選び取った記憶は、一体何だったのだろうか。
第三章 鳴り響いた真実の音色
秋風が肌寒くなってきた頃、涼介は意を決して、母の記憶結晶を時田の店へ持参した。硝子の涙滴を店主の皺深い手に渡すとき、自分の指が震えているのが分かった。
「お願いします」
声もまた、震えていた。時田は何も言わず、静かに頷くと、結晶を再生装置にゆっくりとセットした。カチリ、と小さな金属音が響く。涼介は固唾を飲んだ。
ぜんまいが巻かれ、光の粒子が舞い上がる。涼介は目を固く閉じた。目の前に広がるのは、きっとウィーンかパリの壮麗なコンサートホールだろう。スタンディングオベーションを送る聴衆の熱狂だろう。しかし、聞こえてきたのは、割れんばかりの拍手ではなかった。
それは、ひどくたどたどしい、子供が弾くピアノの音だった。
「ド、レ、ミ…ファ、ソ…」
一音一音、確かめるような指使い。時折、隣の鍵盤に触れて不協和音を鳴らしてしまう、不器用なメロディ。
涼介は、恐る恐る目を開けた。
そこは、コンサートホールではなかった。見慣れた実家のリビングだった。陽光が差し込む窓辺、埃っぽさを帯びた空気の匂い。そして視点は、ピアノの椅子に座る、母自身のものだった。
目の前には、小さな背中がある。七歳か八歳くらいの、幼い涼介の後ろ姿。懸命に小さな指を動かし、鍵盤を押さえている。
『…違う、そこはソのシャープ』
聞こえてきた母の声は、涼介の記憶にある、晩年の弱々しいものではなかった。少し掠れてはいるが、凛とした響きがあった。しかし、その声で指示された指――母自身の右手が、視界の端で微かに震え、うまく動かないのが分かった。そうだ、これは事故の後だ。
『ここ、こうやって…』
母の左手が、おぼつかない右手を支えるようにして、涼介の小さな指の上にそっと重ねられる。その接触を通じて、圧倒的な感情が涼介の中に流れ込んできた。
それは、喜びだった。
絶望ではない。後悔でもない。純粋で、温かく、胸が張り裂けそうになるほどの、深い喜びと愛情だった。
ピアニストとしての生命を絶たれ、すべてを失ったと思っていた。音のない世界で、ただ沈んでいくだけだと思っていた。そんな彼女の前に、この小さな背中があった。自分の音楽を受け継ごうと、必死に鍵盤に向かう息子の姿。彼が紡ぐ、つたなくて不格好な音色。それが、光のなかった彼女の世界に差し込んだ、唯一の希望の音だった。
『ママ、難しいよ』
幼い涼介が振り返る。その顔は不安げだ。
母の視界の中で、震える右手が持ち上がり、息子の頭を優しく撫でる。
『大丈夫。涼介の音は、ママが一番好きよ。どんな有名なピアニストの演奏より、ずっと、ずっと素敵』
その言葉と共に、涼介の全身を駆け巡ったのは、母の偽らざる本心だった。ピアニスト・久保田美咲としての栄光の記憶など、この瞬間の前では色褪せてしまうほどの、圧倒的な幸福感。息子が与えてくれた、音楽と再び繋がる喜び。生きる希望そのものだったのだ。
母が最も大切にしたかった記憶。それは、失われた栄光ではなく、絶望の淵から自分を救い出してくれた、息子の存在そのものだった。
光の粒子が収まっていく。涼介は、その場に崩れるように膝をつき、声を上げて泣いた。自分が母を苦しめていたのではなかった。自分こそが、母の最後の光だったのだ。五年という長い時間をかけて、ようやく母の本当の想いに触れることができた。それは、どんな名曲よりも美しい、真実のソナタだった。
第四章 これから紡ぐメロディ
家に帰った涼介は、まっすぐに母の部屋へ向かった。そして、まるで聖なる儀式のように、ゆっくりとピアノを覆っていた布を取り払った。艶やかな黒い塗装が現れ、鍵盤が静かに光を反射している。五年ぶりに開かれたその場所は、涼介を待っていたかのように静まり返っていた。
椅子に座り、そっと鍵盤に指を置く。ひんやりとした象牙の感触が、指先から全身に伝わった。息を吸い、そして、一音を鳴らす。ポーン、と響いた音は、少しだけ調子が狂っていたが、信じられないほど優しく、懐かしい音色だった。
もう一音、また一音と、確かめるように音を紡いでいく。かつてのように滑らかには指が動かない。それでも、彼は弾き続けた。母が教えてくれた、あの日のたどたどしいメロディを。それはプロの演奏とはほど遠い、つたない音楽。だが、一音一音に、母への感謝と、ようやく伝えられる愛情が満ちていた。涙が頬を伝い、鍵盤の上に落ちて小さな染みを作った。もう、ピアノの音は苦しみではなかった。それは、母と自分を繋ぐ、愛の記憶そのものだった。
数日後、涼介は再び時田の店を訪れた。その表情は、以前とは比べ物にならないほど晴れやかだった。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる涼介に、時田はいつものように穏やかに微笑んだ。
「礼を言うのはワシの方さ。素晴らしい記憶に触れさせてもらった」
そして、こう付け加えた。
「先日から、この店の裏手まで、良いピアノの音が聞こえてくるよ」
涼介は少し照れたように笑った。彼は母の記憶結晶を、今はペンダントにして首から下げている。胸元で、硝子の涙滴が温かく輝いていた。
これからは、自分の時間を生きていこう。そしていつか、人生の最期に、自分も誰かに遺したいと思えるような、かけがえのない記憶をこの手で紡いでいこう。涼介は、窓の外に広がる柔らかな午後の光を見つめながら、強くそう誓った。
失われた記憶は、決して無に帰すわけではないのかもしれない。それは、受け取った者の心に根差し、新たな意味を持ち、そして、未来へと続く新しいメロディを奏で始めるのだ。涼介の胸の中で、母の記憶は、今も温かく、そして優しい音色を響かせ続けていた。