言ノ葉のプリズム

言ノ葉のプリズム

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第一章 浮遊する言葉と沈黙の結晶

僕たちの通う「言霊(ことだま)の森学園」では、言葉に重さがあった。

それは比喩ではない。物理的な真理として、僕たちの声帯から発せられた音の連なりは、その意味と込められた感情の密度に応じて質量を獲得するのだ。軽薄で中身のない言葉は、シャボン玉のようにふわりと宙に浮かび、教室の天井近くで漂っては、やがて弾けて消える。一方で、強い意志や深い思索に裏打ちされた言葉は、ずしりとした重みを帯びて床に落ち、美しい結晶――「言晶(げんしょう)」となる。

学園の評価は、この言晶をどれだけ生み出せるかで決まった。廊下のショーケースには、歴代の優等生たちが紡いだ言晶が、宝石のように並べられている。生徒会長である桐谷響の「秩序」という一言から生まれた完璧な六角柱の結晶は、美術館の展示品さながらの荘厳さを放っていた。彼らは「重言師(じゅうげんし)」と呼ばれ、畏敬の対象だ。

僕は、そんな学園のシステムに馴染めないでいた。水瀬蒼、十六歳。僕の口から出る言葉は、いつも決まって軽い。わざとそうしているのだ。真剣な議論の場でも、わざと茶化すような冗談を言っては、虹色に光る無意味な泡を飛ばして顰蹙を買う。重い言葉を紡ごうとすれば、喉が締め付けられるような息苦しさを感じる。自分の内面をえぐり出し、他人の評価に晒すような行為が、たまらなく恐ろしかった。

「蒼の言葉、好きだな。きらきらしてて、綿毛みたいで」

そう言って笑うのは、幼馴染の相沢陽菜だ。彼女は、僕のくだらない言葉の泡を、楽しそうに指で追いかけるのが好きだった。彼女自身は、重い言葉も軽い言葉も、ごく自然に使い分けることができる稀有な生徒だった。彼女が時折落とす「ありがとう」という小さな言晶は、不揃いな形をしていたけれど、陽だまりのような温かい光を宿していた。

僕にとって、この学園での唯一の救いは、陽菜と交わす、すぐに消えてしまう他愛ない言葉の時間だけだった。重圧に満ちたこの場所で、唯一、息ができる瞬間。

だから、その日常が唐突に崩れ去った日、僕はどうすればいいのか分からなかった。

秋風が窓を揺らす昼下がり、陽菜が授業中に倒れた。チョークの乾いた音と、生徒たちの悲鳴がやけに遠く聞こえる。保健室に運ばれた彼女は、目を覚まさないまま、ただ静かに呼吸を繰り返していた。原因不明の衰弱。医者の言葉は、まるで中身のない軽い泡のように、僕の頭の上を虚しく漂って消えた。陽菜の頬から、血の気が急速に失われていく。まるで、彼女という存在そのものの「重さ」が、少しずつ世界から失われていくようだった。

僕の足元には、一つの言晶も落ちていない。ただ、意味をなさない軽い言葉の泡だけが、無力に揺れていた。

第二章 重さを求める旅路

陽菜が倒れてから一週間が過ぎた。彼女の容態は変わらず、日に日にその存在が希薄になっていくようだった。僕は無力感に苛まれ、授業にも身が入らない。僕の周りには相変わらず軽い言葉の泡が漂い、それはまるで自分の無能さを嘲笑っているかのようだった。

何か、何か方法はないのか。藁にもすがる思いで、僕は学園の最も古い書物が収められている禁書庫に忍び込んだ。埃っぽい空気の中、古びた革表紙の本を片端からめくっていく。そこで、僕は一つの記述を見つけた。

『至高の言晶、"真言(まこと)"は万象を覆す。失われし命すらも呼び戻す奇跡の言霊なり。然れど、その創造には相応の魂の重さを要す』

真言。その二文字が、暗闇に差し込む一筋の光に見えた。これだ。これさえ作れれば、陽菜を救えるかもしれない。しかし、僕には魂を込めた重い言葉など紡げない。どうすれば……。

答えは一つしかなかった。僕が最も忌み嫌い、同時に最も憧れていた人物に教えを請うしかない。

放課後、僕は生徒会室の重厚な扉を叩いた。中にいたのは、生徒会長の桐谷響、その人だった。彼は僕を一瞥すると、何の感情も浮かばない瞳で「何の用だ、浮遊語(ふゆうご)使い」と静かに言った。彼の周りには、澄み切った氷のような言晶がいくつも転がっている。

僕は震える声で、重い言葉の紡ぎ方を教えてほしいと頭を下げた。陽菜のことを話すと、響の表情が初めて微かに動いた。

「相沢のためか。……いいだろう。だが、覚悟はできているか? 言葉に重さを与えるとは、お前の魂を削り、その欠片を世界に差し出すことだ」

響の指導は、過酷を極めた。彼は僕に、僕自身の過去、弱さ、後悔、その全てと向き合うことを強いた。書斎に閉じこもり、これまで目を背けてきた記憶を文章に綴らせる。幼い頃の失敗。誰かを傷つけた言葉。守れなかった約束。一行書くごとに、胸が張り裂けそうになった。

「言葉は思考の表層ではない。魂の最深部から汲み上げるものだ。お前のその薄っぺらい自己防衛を剥がし、生の感情を露出させろ」

響の言葉は、鋭利な刃物のように僕の心を切り刻んだ。何度も逃げ出したくなった。しかし、目を閉じれば、陽菜の蒼白な顔が浮かぶ。僕は歯を食いしばり、ペンを握り続けた。

数週間後、変化が訪れた。僕が呟いた「ごめん」という一言が、床に落ちたのだ。それは、歪で濁った、ビー玉ほどの小さな結晶だった。しかし、紛れもなく重さを持っていた。僕はそれを拾い上げ、掌に伝わる確かな質量に涙した。初めて、自分の魂の一部に触れた気がした。

そこから、僕は憑かれたように言葉を紡ぎ続けた。陽菜への想い、彼女を失うことへの恐怖、自分の無力さへの怒り。僕の足元には、少しずつ、しかし確実に言晶が増えていった。それらはどれも不格好だったが、僕の魂の色をしていた。

第三章 真言の代償

数ヶ月が経ち、僕は学園でも指折りの「重言師」と見なされるまでになっていた。僕の紡ぐ言葉は、時に繊細なガラス細工のように、時に重厚な黒曜石のように、確かな形をもって床に落ちた。しかし、僕の心は晴れなかった。僕の言晶が重く、美しくなるほどに、見舞いに行くたびに見る陽菜の衰弱は、ますます進んでいるように見えたからだ。まるで、僕が言葉の重さを得る代わりに、彼女が生命の重さを失っているかのように。

そして、運命の夜が来た。僕は、陽菜への全ての想いを込めて、これまでの人生で最も重く、純粋な言晶を生み出すことに成功した。「希望」と名付けたその結晶は、掌の中で淡い光を放ち、心臓のように微かに脈打っていた。これがあれば、きっと陽菜は――。

僕は結晶を握りしめ、陽菜の眠る特別病棟へと走った。しかし、病室の前に立っていたのは、月明かりに照らされた桐谷響だった。

「見事だ、水瀬。ついにここまで来たか」

彼の声は、氷のように冷たかった。僕が礼を言うより早く、彼は衝撃の事実を告げた。

「お前は、この学園の本当の姿を知らない。ここは"真言"を人工的に生み出すための、巨大な錬成施設だ」

響は淡々と語り続けた。学園のシステムは、生徒たちの純粋な感情エネルギーを効率よく言晶に変換するために作られたもの。そして、"真言"を生み出すためには、莫大なエネルギーが必要となる。そのエネルギー源こそが――

「他者の生命力だ」

僕の頭は真っ白になった。響の言葉の意味が、理解できなかった。

「相沢の病は、僕が仕組んだものだ」彼は続けた。「彼女の生命力を、お前の言葉に指向させるためのトリガーとしてな。お前が陽菜を想い、重い言葉を紡げば紡ぐほど、その言葉は彼女の生命を吸い上げて結晶となる。お前が作り出した美しい言晶は、全て彼女の命そのものなのだよ」

足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。じゃあ、僕が陽菜を救いたいと願えば願うほど、彼女を死に追いやってきたというのか? 僕の足元に転がる、数々の美しい結晶。これが、陽菜の命の欠片?

「なぜ……なぜそんなことを!」

僕は響の胸ぐらを掴んだ。しかし、彼は少しも動じない。その瞳には、深い絶望と、そして諦観の色が浮かんでいた。

「僕の妹も、かつて同じ病で死んだ。この学園のシステムの犠牲となってな。僕は、この狂ったシステムを内側から破壊するために生徒会長になった。そのためには、システムが求める究極の"真言"を、僕の意志で生み出す必要があった。そして、その担い手として、最も純粋な魂を持つお前を選んだのだ」

響は僕の手を振り払い、病室の扉を指差した。

「さあ、最後の言葉を紡げ。彼女の命の全てを注ぎ込んだ"真言"で、奇跡を起こすか、世界を破壊するか。選ぶのはお前だ、水瀬蒼」

絶望が、僕の全身を支配した。僕が信じてきたもの、僕が積み上げてきたもの全てが、陽菜を殺すための刃だったというのか。

第四章 世界で一番軽い言葉

ガラスの向こうで、陽菜が静かに眠っている。その呼吸は、今にも消えてしまいそうにか細い。僕の手の中にある「希望」の結晶が、彼女の命の残滓だと思うと、焼け付くように熱かった。

響が僕の背後で囁く。「今のお前ならできる。世界を変えるほどの言葉を紡げるぞ」

そうだ。僕にはもう、重い言葉しか紡げない。この手にある結晶に、陽菜の最後の命を注ぎ込み、奇跡の"真言"を完成させる。そうすれば、彼女を生き返らせることも、この狂った学園を破壊することもできるのかもしれない。だが、それは、陽菜の全てを犠牲にして僕が手に入れる力だ。そんなものは、僕が望んだものではない。

僕が本当に陽菜に伝えたかったことは、何だっただろう。

脳裏に蘇るのは、僕のくだらない言葉の泡を、楽しそうに追いかけていた彼女の笑顔。重さなんてない、意味なんてない、ただそこにいるだけで温かかった、あの時間。僕が紡ぎたかったのは、世界を変えるような大袈裟な言葉じゃない。ただ、陽菜の隣で、他愛ない言葉を交わしたかっただけだ。

「……違う」

僕は静かに呟いた。響が訝しげな顔で僕を見る。

「僕が伝えたかったのは、こんな重いものじゃない」

僕は握りしめていた「希望」の結晶を、床に置いた。そして、これまで僕が生み出してきた全ての言晶を見渡す。僕の苦悩、葛藤、そして陽菜の命の欠片。僕はそれら全てに向かって、深く、深く息を吸い込んだ。

そして、全ての想いを込めて、最後の言葉を紡いだ。

それは、重さを全く持たない、ただの音の響きだった。

「ありがとう」

その言葉は、シャボン玉のようにふわりと浮かび上がり、病室のガラスをすり抜け、陽菜の頬にそっと触れて、弾けた。

その瞬間、奇跡が起きた。

僕がこれまで作り上げてきた全ての言晶が、一斉にまばゆい光を放ち始めたのだ。床に転がっていた結晶が、ショーケースに飾られていた結晶が、学園中の全ての言晶が共鳴し、その形を失っていく。光の粒子となって空中に舞い上がり、美しいプリズムの嵐となって、陽菜の体へと降り注いでいった。

結晶に囚われていた生命力が、本来の持ち主へと還っていく。陽菜の頬に、みるみるうちに赤みが差し、その瞼が微かに震えた。

「馬鹿な……言晶のシステムそのものが崩壊していく……」

響が呆然と呟く。言葉が、ただの音に戻っていく。重さという概念から解放され、世界が本来の姿を取り戻そうとしていた。

僕は、重い言葉も軽い言葉も、どちらが優れているわけではないのだと、ようやく悟った。大切なのは、その形や重さじゃない。そこに込められた、嘘偽りのない、真実の心なのだ。

やがて光が収まった時、陽菜がゆっくりと目を開けた。彼女の瞳が、僕を捉える。

「……あおい」

その声は、かつてのように温かかった。僕は涙を堪えながら、彼女の手を握った。

この学園のシステムは崩壊し、僕たちの記憶もやがて曖昧になっていくのかもしれない。それでもいい。言葉の重さが消えた世界で、僕たちはまた、他愛ない言葉を交わし合って笑うだろう。心に刻まれたこの温もりだけは、決して消えることはないのだから。

僕たちは、始まったばかりの、新しい世界の空を見上げた。

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