第一章 灰色世界の住人
僕、水瀬蓮(みなせ れん)の世界は、いつからか彩度を失っていた。窓から見える空も、教室の喧騒も、教科書の文字さえも、まるで薄い灰色のフィルター越しに見ているように、何もかもが等しく退屈だった。何かに夢中になることも、誰かに心を動かされることもない。そんな日々は、楽ではあったが、息が詰まるほどに空虚だった。
その日、僕は人生で最大級の失態を演じた。母から「絶対に無くさないでね」と念を押されていた、亡き祖母の形見のペンダントを、学校のどこかで落としてしまったのだ。銀の鎖に、小さな雫型のラピスラズリ。それ自体に高価な価値はないのかもしれない。だが、母がどれほど大切にしていたかを知っているだけに、血の気が引くのを感じた。
「心当たりは全部探したのか?」
親友の拓也にそう問われ、僕は力なく頷いた。教室、廊下、体育館裏。考えられる場所は全て探したが、あの深い青色の石が見つかることはなかった。万策尽きた僕に、拓也は少し声を潜めて言った。
「……なら、あとは『あそこ』しかないんじゃないか」
『あそこ』とは、旧校舎の突き当たりにある「開かずの忘れ物保管室」のことだ。埃を被った古い備品が詰め込まれた、いわば学校の墓場。そこには管理人がいて、どんな忘れ物でも必ず見つかるという噂と、一度入ったら二度と戻れないという不気味な噂が、まことしやかに囁かれていた。
藁にもすがる思いで、錆びたドアノブに手をかける。ぎい、と耳障りな音を立てて開いた扉の先は、想像通りの埃っぽい空間だった。窓から差し込む夕陽が、空気中を舞う無数の塵をきらきらと照らし出している。その光の中に、一人の少女が立っていた。
色素の薄い髪を長く伸ばし、セーラー服の襟を風もないのに揺らしている。彼女はゆっくりとこちらを振り返った。人形のように整った顔立ちは、まるで感情というものが抜け落ちているように見えた。
「何か、お探しですか」
鈴を転がすような、しかしどこか非現実的な声だった。
「あの、ペンダントを……」
僕が言い終える前に、少女は棚の一角を指差した。そこには確かに、僕がなくしたはずのペンダントが、夕陽を受けて静かに輝いていた。
安堵して手を伸ばそうとした僕を、少女は「待ってください」と制した。
「ここの忘れ物は、ただでは返せません」
「金なら払う」
「そういうことではありません」。少女は静かに首を振る。「忘れ物は、持ち主が『それを失くしたことで忘れてしまった、本当に大切な記憶』を思い出せた時にしか、持ち主の元へは帰れないんです」
何を言っているんだ、この女は。非科学的な戯言に、苛立ちが募る。
「母から預かった、祖母の形見だ。それじゃダメなのか?」
「それは『情報』です。あなたの心の一番奥にある『記憶』ではありません」
少女――千歳(ちとせ)と名乗った彼女は、そう言って僕から目を逸らし、窓の外に広がる茜色の空を見つめていた。その横顔は、この世の全ての哀しみを凝縮したように、ひどく儚く見えた。
こうして、僕と「忘れ物保管室」の管理人、千歳との奇妙な日々が始まった。
第二章 忘れられた記憶の欠片
ペンダントを取り返すには、千歳の言う『本当に大切な記憶』とやらを思い出すしかないらしい。だが、いくら考えても、僕には何も思い浮かばなかった。途方に暮れる僕に、千歳は一つの提案をした。
「他の人の忘れ物探しを手伝ってください。そうすれば、何か思い出すきっかけになるかもしれません」
不本意だったが、他に選択肢はなかった。
最初に来たのは、吹奏楽部の二年生、佐藤さんだった。彼女はなくした楽譜を探していた。それは、去年のコンクールで演奏した曲で、彼女はソロパートで大きなミスをしてしまったのだという。
「あの楽譜、もう見たくもないんです。でも、捨てられなくて……」
俯く彼女に、千歳は静かに尋ねた。「その曲を演奏していた時、あなたは一人でしたか?」
佐藤さんはハッとしたように顔を上げた。彼女の脳裏に蘇ったのは、失敗して泣き崩れる自分を、何も言わずに囲んでくれた仲間たちの姿だった。肩を叩いてくれた部長、ハンカチを差し出してくれた友人。
「……一人じゃ、なかった」
彼女がそう呟いた瞬間、棚の奥で古びた楽譜が淡い光を放った。千歳がそれを取り、彼女に手渡す。楽譜を受け取った佐藤さんの目には、涙が浮かんでいた。
そんな出来事が、幾度となく繰り返された。使い古された野球のグローブは、最後の試合でエラーしたキャプテンのものだった。彼が思い出したのは、エラーの記憶ではなく、泥だらけになって練習した仲間との時間だった。一枚の色褪せた写真は、喧嘩別れした親友とのものだった。彼女が思い出したのは、喧嘩の理由ではなく、二人で笑い合った放課後の他愛ない会話だった。
僕は、まるで他人の心の最も柔らかい部分に、そっと触れているような不思議な感覚に包まれた。忘れ物は、単なる「モノ」ではない。それは、人が心の奥底にしまい込んだ、痛みや後悔、そして愛おしい記憶そのものだった。
彼らが忘れ物と再会する瞬間に立ち会うたび、僕の灰色の世界に、ほんの少しだけ色が差すような気がした。千歳と話す時間も増えていった。彼女はいつも静かで、自分のことは何も語らなかったが、僕が話す他愛ない日常の話を、相槌を打ちながら聞いてくれた。忘れ物保管室の、あの埃っぽい匂いや、夕陽の暖かさが、いつしか僕にとって心地よいものに変わっていた。
だが、僕自身のペンダントだけは、一向に光を放つ気配がなかった。母との思い出、祖母との記憶、どんなエピソードを語っても、千歳は「まだ、違います」と静かに首を振るばかりだった。
第三章 君こそが忘れもの
何かがおかしい。僕が忘れている記憶とは、一体何なんだ。焦燥感に駆られた僕は、自分の過去を無心で掘り返し始めた。そして、ふと一つの記憶の断片に行き当たった。幼い頃、僕が宝物にしていた万華鏡。くるくると回すと、無限の光の模様が広がる、小さな宇宙。僕はそれを、ある日なくしてしまった。
その万華鏡をなくした日のことを、僕はなぜか思い出せなかった。頭に靄がかかったように、肝心な部分がすっぽりと抜け落ちている。
手がかりを求めて図書室の古い新聞をめくっていた僕の目に、信じられない記事が飛び込んできた。
『小学生女児、交通事故で意識不明の重体』
事故の日付は、僕が万華鏡をなくした日と一致していた。そして、記事に載っていた被害者の少女の名前は―――『東雲 千歳(しののめ ちとせ)』。
全身の血が逆流するような感覚に襲われた。震える手で記事を読み進める。事故現場は、僕が当時住んでいた家の近くだった。……そうだ、思い出した。あの日、僕は一人じゃなかった。千歳と、一緒にいたんだ。
公園で遊んでいた僕らは、些細なことで喧嘩をした。僕が突き飛ばした拍子に、千歳の手から万華鏡が滑り落ち、車道に転がっていった。僕の宝物だった万華鏡。それを拾おうと道路に飛び出した千歳が、一台の車にはねられた。
僕は、その光景をただ呆然と見ていた。彼女の体から流れる赤と、砕けた万華鏡のガラス片が夕陽に照らされてきらめいていた光景が、網膜に焼き付いている。ショックと罪悪感のあまり、僕はその日の記憶全てに蓋をしていたのだ。千歳という存在そのものを、僕の心の中から消し去って。
忘れ物保管室は、この世とあの世の狭間で、意識のない千歳が見ている夢、あるいは彼女の強い想念が生み出した精神的な空間だったのだ。そこに集められた「忘れ物」は、他人の記憶の欠片。彼女が、忘れ去られた自分という存在を、かろうじてこの世界に繋ぎ止めるための、悲しいよすがだった。
そして、僕がなくしたと思っていたペンダント。あれは、事故の直前、仲直りの印にと、千歳が僕に渡そうとしてくれたものだった。僕がなくしたのではなく、受け取りそびれたもの。僕が思い出すべき『本当に大切な記憶』とは、ペンダントにまつわる母や祖母の記憶ではない。
千歳のこと、そのものだったのだ。
全てのピースが繋がった時、僕は駆け出していた。埃と夕陽の匂いが満ちる、あの場所へ。僕が忘れてしまった、僕だけの「忘れもの」と向き合うために。
第四章 君に返す世界の彩り
「……全部、思い出したよ」
忘れ物保管室で、僕は千歳の前に立っていた。僕の言葉に、彼女は何も言わず、ただ静かにこちらを見つめている。その瞳は、昔と何も変わらない、澄んだ色をしていた。
「ごめん……。僕のせいで……」
絞り出した声は、情けなく震えていた。しかし、千歳はゆっくりと首を振った。そして、初めて、はっきりと微笑んだ。
「謝ってほしかったんじゃない。ただ……思い出してほしかっただけ。蓮くんの世界から、私が消えてしまうのが、一番悲しかったから」
彼女の姿が、足元から少しずつ透け始めていることに、僕は気づいた。僕が彼女を思い出したことで、この世界に留まる理由が、彼女の中から消えようとしていた。
「俺に、何かできることはないのか」
「あるよ」と千歳は言った。「蓮くんが、私の分まで、たくさん世界を見て。蓮くんの世界から消えてしまった彩りを、もう一度見つけて。それが、私の願い」
彼女は棚の上のペンダントを指差した。
「それは、蓮くんのお守り。私から、君への」
僕は震える手で、ペンダントに触れた。深い青色の石が、まるで脈打つように、温かい光を放つ。その光が、僕と千歳を、そして部屋全体を包み込んでいく。
「千歳!」
僕の叫びは、拡散する光の中に溶けて消えた。視界が真っ白になり、次に目を開けた時、僕は旧校舎の冷たい廊下で一人、うずくまっていた。手の中には、あのラピスラズリのペンダントが、確かな重みをもって握られていた。忘れ物保管室のドアは、固く閉ざされ、二度と開くことはなかった。
数日後、僕は病院に来ていた。何年も意識が戻らなかった千歳が、奇跡的に目を覚ましたと、人づてに聞いたからだ。病室のドアの前で、僕は深く息を吸った。まだリハビリが必要で、記憶も断片的だという。僕のことを覚えている保証はない。それでも、会わなければならない。
病室で見た千歳は、僕が知る彼女より少し大人びていた。窓の外をぼんやりと眺めていた彼女は、僕に気づくと、小さく首を傾げた。
「……どちらさま、ですか?」
胸が締め付けられるようだった。だが、僕は諦めなかった。それから毎日、僕は彼女の病室に通った。他愛もない話をした。学校のこと、友達のこと、そして、僕の世界が今、どれほど鮮やかに見えるかということを。
ある晴れた午後、いつものように僕が話していると、千歳が不意に口を開いた。
「なんだか、あなたといると、懐かしい気持ちになる」
そう言って、彼女ははにかむように笑った。それは、忘れ物保管室で見た、最後の笑顔によく似ていた。
その瞬間、僕の世界は、完全な彩りを取り戻した。窓から差し込む陽光、カーテンを揺らす風の音、空気の匂い。全てが、息を呑むほどに美しかった。
退院した千歳に、僕は新しい万華鏡をプレゼントした。
「今度は、失くさないよ。失くさせない」
僕が言うと、千歳はこくりと頷いた。二人で覗き込んだ小さな筒の先には、光のカケラたちが織りなす、無限の模様が広がっていた。それは、これから僕たちが一緒に紡いでいく、新しい世界の始まりのようだった。
失われた時間を取り戻すことはできないかもしれない。けれど、これからの時間に彩りを添えていくことはできる。僕は千歳の手をとり、光が満ちる道を、一歩ずつ踏み出した。世界は、こんなにも美しかったのだ。