星屑の叙事詩

星屑の叙事詩

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第一章 色褪せた約束

望月蒼太の世界は、古紙の匂いと、陽光に舞う埃の粒子で満たされていた。神保町の裏路地にひっそりと佇む古書店『月影書房』。そこが彼の城であり、シェルターでもあった。背表紙の擦り切れた文庫本、インクの染みが歴史を物語る豪華装丁本。それらに囲まれている時だけ、蒼太は息をすることができた。人付き合いを避け、静寂を愛する彼にとって、この店は世界そのものだった。

その日、店の古い呼び鈴が、乾いた音を立てた。入ってきたのは、見慣れない老婦人だった。銀色の髪を品よくまとめ、背筋をしゃんと伸ばしている。彼女は店内をゆっくりと見渡すと、まっすぐに蒼太のいるカウンターへ向かってきた。その手には、一冊の分厚い本が抱えられていた。

「望月蒼太さん、でいらっしゃいますね」

穏やかだが、芯のある声だった。蒼太はこくりと頷く。

「……はい、そうですが」

「これを。あなたのお祖父様、望月厳さんからの預かりものです」

老婦人がカウンターに置いたのは、紺色の布張り表紙が色褪せた、古い天文学の専門書だった。蒼太はその本に見覚えがあった。高校生の時、祖父から「お前にやる」と無造作に手渡されたものだ。パラパラとめくったものの、数式と星図ばかりの難解な内容に興味が持てず、以来、書棚の奥で眠らせていた。

なぜ今頃、この本が? しかも、祖父は十年前に亡くなっている。

蒼太の戸惑いを読み取ったように、老婦人は微笑んだ。その目元には、深い皺が刻まれている。

「お祖父様が亡くなる少し前に、私に託されたのです。『もし、いつか蒼太が道に迷うようなことがあったら、これを渡してほしい』と」

「道に……迷う?」

「ええ。そして、こうも言付かっております。『この本の最後のページに、本当の伝言が隠されている』と」

最後のページ。その言葉が、蒼太の心の澱みをかき混ぜた。祖父・厳は、頑固で無口な時計職人だった。幼くして両親を亡くした蒼太を引き取り、育ててくれた唯一の肉親。だが、二人の間に温かい会話はほとんどなかった。蒼太が文学の道に進みたいと告げた日、祖父は「そんなもので飯が食えるか」と、生まれて初めて激昂した。それが、二人の最後の会話になった。和解できないまま祖父は逝き、蒼太の胸には棘のように後悔が突き刺さっている。

祖父が、自分に伝言を? あの人が?

蒼太の思考が停止する。老婦人は深く一礼すると、「では、私はこれで」と静かに店を出ていった。呼び鈴の音が、やけに寂しく響く。

カウンターの上に残された、一冊の天文学の本。それはまるで、過去からの果たされなかった約束のように、重く、冷たく、蒼太の目の前に横たわっていた。

第二章 沈黙のページ

その夜、蒼太は店の二階にある自室で、例の天文学の本と向き合っていた。カビとインクが混じったような独特の匂いが、記憶の扉を無理やりこじ開ける。無愛想な祖父の横顔、油の匂いが染みついた作業場、規則正しく時を刻む柱時計の音。思い出すのは、そんな断片的な風景ばかりだ。

『最後のページに、本当の伝言が隠されている』

老婦人の言葉を反芻しながら、蒼太は慎重に本の最終ページを開いた。そこにあるのは、索引の最後の項目と、出版社の情報だけ。空白の余白が広がっているが、何かが書かれた形跡はない。指でなぞっても、紙の質感に変化はなかった。

「まさか、特殊なインクか……?」

蒼太はデスクライトを近づけ、角度を変えて光を当ててみた。次に、子供の頃にやった遊びを思い出し、レモン汁を塗ってみたり、軽く熱を加えてみたりもした。だが、白いページは沈黙を守ったまま、何も浮かび上がらせようとはしなかった。

数時間が過ぎ、窓の外が白み始めた頃には、蒼太の心は苛立ちと諦めで黒く塗りつぶされていた。やはり、あの老婦人の戯言だったのかもしれない。あるいは、認知症の老人の思い込みか。そう思うことで、心のざわめきを無理やり押し殺そうとした。

「……くだらない」

本を乱暴に閉じ、ベッドに身を投げ出す。瞼を閉じると、高校生の日の光景が蘇る。大学の進路希望を伝えた時の、祖父の失望と怒りに満ちた顔。

「物語? そんな空想で、お前は自分の人生を刻んでいけると思っているのか。時間を無駄にするな」

時計職人だった祖父は、常に「時間」という絶対的なものさしで世界を見ていた。一秒の狂いも許さない精密な機械と向き合う祖父にとって、形のない物語を紡ぐことは、理解不能な時間の浪費にしか見えなかったのだろう。

あの時、祖父は自分という人間を、自分の夢を、全否定したのだ。そう信じてきた。だからこそ、祖父の死後、彼の仕事場だった工房を片付けもせず、古書店を開いた。それは祖父へのささやかな反抗であり、自分自身の存在証明のつもりだった。

だが、心のどこかでずっと疼いていた。本当にそうだったのか? あの厳格な眼差しの奥に、別の感情はなかったのか?

伝言なんて、ありはしない。期待した自分が馬鹿だった。そう結論づけようとすればするほど、胸の奥で小さな棘がちくりと痛んだ。それは、祖父との和解という、永遠に失われた可能性への未練だった。蒼太は、答えのない問いに蓋をするように、深く、重いため息をついた。

第三章 星空からの伝言

数日が過ぎても、蒼太の心は晴れなかった。あの本は、開かれることなく机の隅に追いやられている。だが、老婦人の言葉は、忘れたくても忘れられなかった。まるで精密な時計の秒針のように、彼の思考の背景でカチ、カチと音を立て続けている。

このままでは前に進めない。蒼太は、あの老婦人を探すことにした。手がかりはほとんどなかったが、彼女の佇まいから、近隣の住人ではないかとあたりをつけた。聞き込みを始めて三日目の午後、近所の和菓子屋の女将が、有力な情報をくれた。

「銀髪の、背筋がすっとしたご婦人? ああ、それなら時々いらっしゃるわ。確か、少し離れた丘の上にある、古い天文台の……」

天文台。その言葉が、蒼太の頭を強く打った。なぜ、今まで気づかなかったのか。

祖父は時計職人だった。そして、時計の起源は天体の運行にある。祖父はよく、夜空を見上げながら呟いていた。「星の動きこそが、地上で最も正確な時計だ。我々職人は、それを掌に乗る大きさに写し取っているに過ぎん」。

蒼太は店を閉め、急いで部屋に戻ると、埃をかぶった天文学の本を再び手に取った。最後のページではない。祖父のような人間が、そんな単純な謎を仕掛けるはずがない。彼が最も重要視していたものは何か。それは「時間」と「起源」だ。

蒼太は本の奥付、つまりその本の「起源」が記されたページを開いた。発行年月日、著者名、出版社が並ぶ、本の戸籍謄本のような場所。一見して、そこにも何もない。だが、蒼太は諦めなかった。祖父が時計の修理に使う、高倍率のルーペを持ち出し、紙面を食い入るように見つめた。

そして、見つけた。

発行年月日の数字「1978」の「8」の字の、閉じた円の内側。それはインクの染みではなかった。虫の脚のように微細な、しかし明らかに人の手で書き込まれた数字の羅列だった。

『35.704 139.556』

震える指でスマートフォンに数字を打ち込む。表示されたのは、地図の座標。

――東京都、三鷹市、国立天文台。

幼い頃、一度だけ祖父に連れて行ってもらった場所だった。なぜあそこに、と訝しむ祖母に、祖父は「こいつに、本物の時間を見せてやる」とだけ言ったのを覚えている。

蒼太はコートを羽織り、店を飛び出した。電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、記憶の糸をたどるようにして天文台の緑豊かな敷地へと足を踏み入れる。目的の古い建物の前まで来ると、そこにはあの日と同じ、穏やかな微笑みを浮かべた老婦人が立っていた。まるで、彼が来ることを知っていたかのように。

「お待ちしておりました、蒼太さん」

「あなたは……」

「私は、ここの研究員でした。あなたのお祖父様、厳さんとは、若い頃からの星仲間でしてね。名前は、千鶴と申します」

千鶴と名乗った老婦人は、蒼太を建物の中へと促した。

「お祖父さんは、本当に不器用な人でした。あなたの文学の道を反対したのも、本心ではなかったのですよ。ただ、あなたの才能を信じるあまり、その道であなたが傷つき、苦労するのを見たくなかった。それだけの、歪んだ愛情表現だったのです」

蒼太は言葉を失った。千鶴は、静かに話を続ける。

「そして彼は、彼なりのやり方で、あなたの夢を応援しようと決めた。口では何も言えない代わりに……物語を創ったのです。あなただけの、壮大な物語を」

「物語……? 祖父が?」

「ええ」と千鶴は頷き、蒼太を巨大な望遠鏡が鎮座するドームへと導いた。「あなたにあの本を渡したのは、その物語を読むための『地図』であり、『鍵』だったからです。奥付の数字は、この場所の座標。そして……」

千鶴は望遠鏡のコントローラーを操作し、いくつかの数値を入力した。

「この座標こそが、お祖父さんからの本当の伝言。彼が、あなたに見せたかった物語の、始まりのページです」

第四章 君のための神話

千鶴に促され、蒼太は恐る恐る望遠鏡の接眼レンズに目を当てた。漆黒の宇宙が、吸い込まれるような深さで広がっている。千鶴が調整を終えると、視野の中に、ひときわ明るく輝くいくつかの星々が浮かび上がった。それらは、教科書に載っているどの星座にも当てはまらない、不思議な並びをしていた。

「これは……?」

「お祖父様が、『蒼太の叙事詩』と名付けた星の連なりです」と、千鶴の声が静かに響いた。「あなたが生まれた日の夜、この方角に見えた星々を起点にしています。あの明るい一等星は、生まれたばかりのあなた。その周りを巡る小さな星々は、あなたを見守る家族……。彼は、あなたの成長に合わせて、この星空に物語を紡いでいったのです。初めて歩いた日、小学校に入学した日、あなたが書いた作文が賞をもらった日……そのすべてを、星の配置と輝きになぞらえて、記録していました」

それは、科学ではありえない、愛が生み出した神話だった。口下手な祖父が、誰にも語ることなく、ただ一人、夜空を原稿用紙にして綴り続けた、孫への愛の詩だった。

「文学の道に進みたいと聞いた時、お祖父さんは本当は嬉しかったそうですよ。『あいつは、わしとは違うやり方で、自分だけの時間を紡ごうとしている』と、少し寂しそうに、でも誇らしそうに話していました」

星の光が、視野の中で滲んだ。何光年という途方もない距離を、何十年という時間を旅して、今、この瞬間に届いた光。それは、亡き祖父からの時を超えた手紙だった。厳格な顔の裏に隠されていた、あまりにも深く、あまりにも不器用な愛情。自分は何も分かっていなかった。一番近くにいた人の本当の心を、見ようともしていなかった。

蒼太の頬を、熱い雫がとめどなく伝った。それは後悔の涙ではなかった。長年の誤解が氷解し、心の奥底まで温かい光が満ちていくような、感謝と感動の涙だった。祖父は、自分を否定などしていなかった。世界で一番の、自分の理解者だったのだ。

「ありがとう……じいちゃん」

絞り出した声は、星々の瞬きに吸い込まれて消えた。

数日後、蒼太は『月影書房』のカウンターで、真新しい万年筆を握っていた。目の前には、真っ白な原稿用紙が置かれている。彼はこれから、物語を書く。頑固な時計職人の祖父と、その不器用な愛情を受け取った孫の物語を。

窓の外では、夜空に細い月が浮かんでいた。その傍らで、ひときわ強く輝く星がある。蒼太には、それが優しく瞬きながら、自分を見守ってくれているように思えた。祖父が遺してくれた星屑の叙事詩を胸に、今、蒼太自身の物語が、静かに始まろうとしていた。

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