琥珀色の残響
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琥珀色の残響

第一章 羽音なき重圧

アキの背には、誰にも見えない翼が生えていた。それは他者の「諦め」を吸って形を成す、半透明の羽だった。人々が夢を捨て、希望を語らなくなったこの街で、アキの翼は日増しに重みを増していた。アスファルトを踏みしめる一歩ごとに、背中に食い込むような鈍い痛みが走る。まるで、鉛の板を幾重にも背負っているかのようだ。

街は灰色がかっていた。かつては人々の感謝や感動が光の粒子となって舞い、空に浮かぶ『報恩の樹』を彩っていたというが、今ではその輝きも見る影もない。人々は俯き、乾いた咳のように短い言葉を交わすだけ。その無感動な空気は、アキの羽をさらに硬質化させていく。

「また、あの夢か……」

夜ごと、アキは同じ夢を見た。本来ならば報恩の樹へと吸い込まれていくはずの、か細い光の筋。それが、まるで巨大な磁石に引かれるように、樹を避け、暗い虚空のどこかへと吸い寄せられていく。そして、その流れの終着点には、いつも自分自身の影が揺らめいているような気がした。

息が詰まる。この重圧は、街全体の絶望の重さなのだ。そして、それがなぜか自分に流れ込んでくる。アキは、見えない鎖に繋がれた罪人のように、ただその重さに耐えながら日々を生きていた。

第二章 消えた模様

羽の重さの根源を探るように、アキは街の古びた一角へと足を向けた。埃と古いインクの匂いが混じり合うその場所に、伝説に詳しい少女がいると聞いたからだ。

「古道具『月影堂』」。錆びた看板の下で、ルナと名乗る少女は、拡大鏡を片手に古い書物を読んでいた。アキの尋常でない疲労の色を敏感に感じ取ったのか、彼女は静かに顔を上げた。

「報恩の樹のことを?」

ルナの声は、澄んだ鈴の音のようだった。彼女はアキを店内に招き入れ、ベルベットの布に包まれた小さな石を見せた。掌に乗るほどの、温かい琥珀色の石。

「これは『シード・オブ・グレイス』。樹が最初に芽生えた時の種子だと伝えられています。人々が心から感謝を捧げると、この表面に樹の模様が光って浮かび上がる……はずでした」

ルナの指が示す石の表面は、つるりとして何も描かれていない。ただの石ころ同然だった。

「もう何年も、この石が光るのを見ていません。街から感謝が消えたのと、同じ頃からです」

その言葉が、アキの背中の羽にずしりと響いた。

第三章 砕けた記憶

その夜、アキの身体は限界を迎えた。羽はもはや柔軟性を失い、硬い結晶体のように背中に張り付いていた。一歩踏み出すごとに軋むような音が体内に響き、ついに彼は路地裏の石畳に崩れ落ちた。

ガンッ、と鈍い音が響く。

衝撃で、硬質化した羽の先端が砕けた。硝子細工のような半透明の欠片が、月明かりを反射してきらめく。その時、アキの懐から滑り落ちた『シード・オブ・グレイス』が、カラン、と音を立てて欠片の一つに触れた。

次の瞬間、世界が光に塗りつぶされた。

琥珀色の石が、内側から発光したのだ。表面には眩い光で描かれた大樹の模様が浮かび上がっている。そして、アキの脳裏に、奔流のごとく記憶が流れ込んできた。

知らない男女が、生まれたばかりの赤子を抱いて微笑み合う。老いた農夫が、豊かな収穫に天を仰ぐ。若い恋人たちが、分け合った一つの果実の甘さに顔を見合わせる。それは、人々が『恵み』を分かち合い、ささやかな喜びに心から感謝を捧げていた時代の、温かい記憶の残滓だった。アキは、生まれて初めて触れるその感情の奔流に、ただ涙を流した。

第四章 逆流する祈り

「これは……君の羽が、失われた記憶を呼び覚ましたんだ!」

ルナは驚きに目を見張りながらも、事態を正確に理解していた。アキの羽の欠片は、いわば人々の諦めの化石だ。それが、感謝の器である『シード・オブ・グレイス』に触れたことで、封じられていた記憶が解き放たれたのだ。

彼らは、残りの欠片を慎重に石へと近づけた。そのたびに、断片的なビジョンが蘇る。そしてついに、彼らは禁断の光景に辿り着いてしまった。

それは、かつて報恩の樹が一度だけ落としたという『究極の恵み』を巡る、凄惨な争いの記憶だった。

人々は、その強大な力を独占しようと武器を取り、血を流し、互いを罵り合った。親友が裏切り、家族が引き裂かれ、街は憎悪に染まった。恵みは祝福ではなく、災厄と化したのだ。

そして、生き残った人々は、疲れ果て、絶望し、心の底から同じことを願った。

――恵みなど、なければよかったのに。

その集合的な「諦め」と「拒絶」は、巨大な呪いとなった。報恩の樹へと向かう感謝の光の流れを堰き止め、あろうことか逆流させたのだ。光は今や、人々の心から感謝や感動を根こそぎ吸い上げる、渇望の奔流と化していた。

アキは悟った。夢の中で見た、樹から逸れていく光の終着点。あれは、人々の諦めそのものである、自分自身の背中だったのだ。

第五章 諦観の翼

「僕が……僕の存在が、みんなの心を奪っていたのか」

アキは愕然と呟いた。背負っていたのは、ただの重さではなかった。世界から失われゆく感情そのものだった。このままでは、やがて全てが枯渇し、世界は感情のない虚無に沈む。そして、その重さに耐えきれなくなったアキ自身も、いずれ砕け散るだろう。

「そんな……そんなのアキのせいじゃない!」

ルナが叫ぶ。彼女の瞳には涙が滲んでいた。

だが、アキは不思議と穏やかな気持ちだった。全てのピースがはまったのだ。自分の存在理由、この耐え難い痛み、そして、果たすべき役割。彼は静かに微笑み、ルナの頬を伝う涙をそっと拭った。

「違うんだ、ルナ。僕だから、できることがある。この諦めを終わらせることができるのは、この諦めそのものである僕だけなんだ」

彼の背中の羽が、覚悟を決めたように、静かに、そして悲しくきらめいた。

第六章 解放の代償

アキは、光を失った報恩の樹の麓に立っていた。ルナに『シード・オブ・グレイス』を託し、たった一人でここまで来た。彼は、この重すぎる翼を世界に解き放つことを決めたのだ。それは、人々の諦めを一度全て受け入れ、その上で昇華させるための、最後の儀式だった。

震える手で、枯れた樹の幹に触れる。

その瞬間、アキの背中で、全ての羽が一斉に砕け散った。

激痛が全身を貫く。しかし、それはすぐに無数の感情の波に変わった。砕けた羽は光の粒子となり、空へと舞い上がっていく。その一粒一粒に、誰かの押し殺した心の声が宿っていた。

――ありがとう。

――嬉しい。

――なんて、綺麗なんだ。

それは、諦めの硬い殻の下に、ずっと眠っていた人々の本当の心だった。アキの身体は、その温かい光に包まれ、足元からゆっくりと半透明になっていく。消えゆく意識の中で、彼は生まれて初めて、背中に重圧のない、本当の軽やかさを感じていた。

第七章 夜明けに降るもの

アキの姿が完全に消えると、空へ舞い上がった無数の光の粒子は、優しい雨のように報恩の樹へと降り注いだ。枯れ木同然だった幹はみるみるうちに輝きを取り戻し、枝の先々から若葉が芽吹き始める。

夜が明け、街に柔らかな朝陽が差し込む頃。

空から、キラキラと光る結晶が、まるで祝福のように降り注ぎ始めた。それは、人々が待ち望んでいた『恵み』だった。しかし、広場に集まった人々は、もうそれを奪い合おうとはしなかった。ただ空を見上げ、その息を呑むような美しさに感嘆し、隣にいる見知らぬ誰かと、自然に微笑みを交わしていた。

ルナは、月影堂の窓辺でその光景を見つめていた。彼女の掌の中では、『シード・オブ・グレイス』が温かい光を放っている。石の表面には、力強く、そして永遠に消えることのない大樹の模様が、はっきりと刻まれていた。

恵みは所有するものではなく、分かち合う喜びそのものなのだと、世界はようやく思い出した。一人の青年の諦めが、世界に真の感謝を取り戻した。その翼が砕け散った音は誰にも聞こえなかったが、その残響は、人々の心の中で琥珀色に輝き続けるだろう。


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