結晶蒐集家のための追奏曲
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結晶蒐集家のための追奏曲

第一章 浮遊する街

リヒトの目には、世界が常に微かな光で満ちていた。それは、人が『感動』する瞬間に、指先からこぼれ落ちる感情の結晶だった。夕暮れの広場で、老いたヴァイオリニストが奏でる旋律に涙する女性からは、海の底のような深い青色の結晶が。子猫を助け上げた少年からは、陽だまりのように温かい黄金色の結晶が。リヒトは、人々が気づかずに零していくそれらの輝きを、そっと指で拾い集めることを生業としていた。

結晶に触れると、その感動の原体験が、まるで自分の記憶であるかのように流れ込んでくる。それは、孤独なリヒトにとって、世界と繋がる唯一の手段だった。

だが、この街は静かに壊れ始めていた。人々から『感情の重力』が失われ、ふとした瞬間に体が宙に浮き始める現象が、もう何年も前から続いていた。感情が完全に失われると、人は空高く昇り、やがて夜空に輝くひとつの星になる。人々はそれを『星帰り』と呼び、どうしようもない運命として受け入れていた。

近頃、その現象は加速していた。リヒトは、奇妙な異変に気づいていたのだ。ヴァイオリニストの演奏が最高潮に達し、聴衆から溢れ出た無数の結晶。その中心で、最も強く、純粋に輝くはずの『核』となる光が、生まれる瞬間に蜃気楼のように掻き消える。核を失った感動はどこか空虚で、人々の心を繋ぎとめるにはあまりに軽すぎた。

今日もまた、足首に重りをつけた男が、力なく宙に揺蕩う姿があった。リヒトはポケットに集めた結晶の、頼りない重さを確かめる。この輝きがどこへ消えているのかを突き止めない限り、この街の誰もが、いずれは星になるだろう。

第二章 錆びついた旋律

リヒトのアパートは、街の古い時計塔の中にあった。窓から見える空には、日に日に星の数が増えていく。部屋の片隅で、彼は埃をかぶった木箱を開けた。中には、錆びついた小さなオルゴールがひとつ。祖父が遺した、唯一の形見だった。ゼンマイはとうに壊れ、音を奏でることはない。

それでも、リヒトは時折、その冷たい金属の感触を確かめるようにオルゴールに触れた。指先に意識を集中させると、幻聴のように、微かな残響が聞こえてくる気がした。それは特定の誰かのものではない、もっと普遍的で、懐かしい喜びの音色。まるで、遠い昔に大勢の人間が同じ歌を口ずさんでいた、その記憶の欠片のようだった。

祖父は言っていた。「これは『響き箱』だ。心が迷ったら、一番たくさんの心が集まる場所へ持っていくといい。道を示してくれる」と。

一番たくさんの心が集まる場所。リヒトの脳裏に、ある広場の名が浮かんだ。『嘆きの広場』。かつては祝祭と歓喜の中心地だったが、今では感動の核が最も頻繁に失われる場所として、人々からそう呼ばれていた。失われた感動を求める芸術家たちと、星帰りを恐れる人々が集う、希望と絶望が入り混じった場所。

リヒトはオルゴールをそっと懐にしまい込むと、軋む床を踏みしめて立ち上がった。時計塔の窓から差し込む最後の夕陽が、彼の決意を秘めた横顔を赤く染めていた。

第三章 嘆きの広場

『嘆きの広場』は、その名の通り、静かな嘆息に満ちていた。地面から数センチ、あるいは数メートル浮かび上がった人々が、所在なげに漂っている。彼らの足首には、錆びた鉄の重りや石塊が、最後の繋がりであるかのように結びつけられていた。風が吹くたびに、鎖の擦れる乾いた音が物悲しく響く。

広場の中央では、道化師がパントマイムを演じ、詩人が声を張り上げて愛を謳っていた。人々はそれに感動し、確かに色とりどりの結晶を零す。しかし、リヒトの目にははっきりと見えた。生まれるべき感動の核が、ことごとく虚空へと吸い込まれていく様が。核を失った輝きは、すぐに力を失い、人々はさらに数ミリ、空へと体を持ち上げられるのだった。

リヒトが呆然と立ち尽くしていると、すぐそばのベンチに座っていた老婆が、彼に声をかけた。彼女はほとんど体重を失っているらしく、ベンチの脚に太いロープで自身を縛り付けていた。

「坊やの持っているそれは…」老婆の皺深い目が、リヒトの懐にはみ出たオルゴールに注がれていた。「『響き箱』じゃな。懐かしい…昔は皆、あれで心を繋いでおった」

「繋ぐ?」

「そうさ。自分の喜びを箱に込め、他の者に聴かせる。すると、喜びは何倍にもなって返ってきた。この広場は、いつもそんな音で満ちておったよ」

老婆の指先から、ふっと、小さなラベンダー色の結晶がこぼれ落ちた。それは懐かしさと、微かな哀しみの色だった。

第四章 追体験の断片

リヒトは、老婆が落とした結晶をそっと拾い上げた。指先が触れた瞬間、温かい記憶の奔流が彼の中に流れ込む。

──若き日の老婆が、同じ広場で、たくましい腕の若者と手を取り合って踊っている。広場には満月が輝き、どこからともなく優しいオルゴールの音色が響き渡っていた。人々は皆、笑顔で歌い、踊り、それぞれの『響き箱』が奏でる旋律が、夜空の下でひとつの大きなハーモニーを生み出していた。喜びが喜びを呼び、感動が共鳴し合う、幸福な空間。

その記憶の中で、リヒトはあるものに目を奪われた。広場の中央に立つ、古い石碑。無数の人々の感動を浴びて、それは月光以上に強く、温かい光を放っていた。

意識が現在に戻る。老婆は、今はただの石塊にしか見えないその石碑を、愛おしげに見つめていた。

「あの『祈りの石碑』に響き箱を捧げると、どんな感動も永遠になる、と信じられていた。じゃが、いつしか人々は自分の感動を独り占めするようになり…分かち合うことを忘れ、響き箱の音色も、この広場から消えてしもうた」

リヒトは確信した。あの石碑に、全ての謎を解く鍵が隠されている。彼は老婆に深く一礼すると、人々が漂う広場を抜け、石碑へと向かって歩き出した。

第五章 最初の声

石碑は永い時を経て摩耗し、かつて刻まれていたであろう文字も読むことはできない。リヒトは懐から壊れたオルゴールを取り出し、祈るように、そっと石碑の表面に触れさせた。

その瞬間。オルゴールが、まるでずっと昔の記憶を思い出したかのように、甲高い共鳴音を上げた。石碑が眩い光を放ち始め、リヒトの体は抗いがたい力で光の中へと引きずり込まれていく。

視界が真っ白になり、音が消えた。次に彼が感じたのは、言語ではない、純粋な感情の波動だった。それは喜びでも悲しみでもなく、その両方を含んだ、世界の始まりの産声のような響き。

《私は奪っているのではない。集めているのだ》

声が、リヒトの魂に直接語りかけてくる。目の前に、形のない、巨大な光の渦が現れた。世界で最初に生まれた『最初の感情』そのものだった。

《一万年に一度、この世界は老い、感情の重力は弱まる。私はその終焉の瞬間に、集めた感動の核を解放し、全ての生命に『究極の感動』を体験させる。それが、この世界を再生させるための儀式》

『最初の感情』は語る。しかし、今回は人々の心が離れすぎた。個々の感動は弱く、儀式に必要なエネルギーが到底足りない。だから、純粋な核だけを直接集めるしかなかったのだ、と。

《だが、このまま儀式を強行すれば、多くの魂は再生の光を浴びる前に重力を失い、永遠に星屑となるだろう。儀式を止めれば、世界は感情の灯火を静かに失い、緩やかな死を迎える》

リヒトは、究極の選択を迫られていた。

第六章 ひとつの決断

光の中で、リヒトはポケットに集めてきた無数の結晶を握りしめた。ヴァイオリニストの演奏に涙した女性の青。子猫を助けた少年の黄金色。そして、老婆の懐かしい哀しみを秘めたラベンダー色。

どれも、儀式に使えるような強大な『核』ではない。だが、ひとつひとつに、誰かの人生のかけがえのない一瞬が宿っている。

「人々が失ったのは、感動そのものじゃない」

リヒトは、光の渦に向かって叫んだ。

「失ったのは、それを誰かと分かち合う心だ!」

『最初の感情』が沈黙する。リヒトは決意を固めた。彼は、この世界を救うための、もう一つの方法を選び取る。それは、誰か一人の英雄的な感動ではない。無数の人々の、ささやかで温かい感動の記憶を、再び世界に還すことだった。

「僕の集めたこの輝きを、このオルゴールの音色に乗せて、世界に解き放ってほしい」

それは、リヒトが世界と繋がるために行ってきた、孤独な蒐集の全てを捧げる行為だった。彼の人生そのものを、差し出すことに等しかった。

光の渦が、まるで同意するかのように、ゆっくりと脈動した。

第七章 星屑のレゾナンス

意識が『嘆きの広場』に戻った時、リヒトは石碑の上に立っていた。その手の中で、壊れていたはずのオルゴールが、澄んだ、そして力強い旋律を奏で始めている。

彼はポケットから全ての結晶を取り出し、宙へと放った。結晶はオルゴールの音色に引き寄せられるように、光の粒子となって溶け込んでいく。母親が我が子を抱きしめた時の愛情。友と夜通し語り明かした日の高揚。見知らぬ誰かにかけられた、小さな親切への感謝。

リヒトが追体験してきた無数の感動の記憶が、増幅されたオルゴールの旋律に乗り、光の雨となって広場に降り注いだ。

その光に触れた人々は、はっと息を飲む。他者の温かい記憶が、自分のことのように心に流れ込んでくる。孤独だった心が繋がり、共鳴し、失いかけていた感情の重力が、確かな温もりとなってその身に宿り始める。

空に浮かんでいた人々が、ゆっくりと、しかし確実に、大地へと降りてくる。鎖の音が止み、広場は安堵のため息と、静かな涙に包まれた。

空の彼方で、『最初の感情』が穏やかに微笑んだ気がした。

《…それでよかったのだ。それこそが、真の再生》

リヒトは、その光景を静かに見つめていた。だが、彼の目にはもう、人々の指先からこぼれる感情の結晶は見えなくなっていた。能力の全てを使い果たしたのだ。

彼はもう、感動を『見る』ことはできない。

だが、それでよかった。指先からではなく、胸の奥から直接伝わってくる、人々の温かい感情の気配。響き渡るオルゴールの音色。彼は初めて、孤独な蒐集家としてではなく、世界の一部として、その感動の中に立っていた。空を見上げると、星々はいつもより優しく瞬いているように見えた。

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