残響の調律師

残響の調律師

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第一章 不協和音のチェロ

音無響(おとなし ひびき)の世界は、音で満たされている。だがそれは、人々が日常で耳にする喧騒とは少し違っていた。彼が聞くのは、物に宿った記憶の残響、とりわけ古い楽器が抱え込んだ、最後の演奏者の魂の音だった。響は、その音を「調律」する調律師だ。

彼の仕事場は、街の片隅にある古い時計店の二階。磨かれた木の床に、分解されたピアノのアクションや、使い古された工具が整然と並んでいる。窓から差し込む午後の光が、空気中を舞う細かな埃を金色に照らし出していた。響は、この静寂と、物に秘められた声だけが支配する空間を愛していた。

その日、一本の電話が彼の静寂を破った。依頼主は、初老の女性だった。電話越しに聞こえる声は、上品だがどこか影があった。調律してほしいのは、夫の形見だという古いチェロだ、と彼女は言った。

翌日、響が指定された住所を訪れると、そこは手入れの行き届いた庭を持つ、趣のある古い洋館だった。玄関で彼を迎えたのは、電話の主である品川美咲(しながわ みさき)と名乗る女性。銀色の髪を品よくまとめ、穏やかな笑みを浮かべていたが、その瞳の奥には深い哀しみが澱のように沈んでいるのを、響は見逃さなかった。

通された客間の中央に、そのチェロは鎮座していた。深い赤みを帯びたニス、長年使い込まれてところどころ剥げた木肌、そして弦にはうっすらと埃が積もっている。何十年も、誰にも触れられていないことが一目でわかった。

「夫の、奏(かなで)のものです。彼が亡くなってから、ずっとこのままで…」

美咲はそう言って、愛おしげにチェロのボディを撫でた。響は黙って頷き、ケースからチューナーや工具を取り出すと、そっとチェロに手を伸ばした。

指先が、冷たく乾いた木に触れた瞬間――響の鼓膜を、凄まじい不協和音が突き刺した。

それは、音ではなかった。悲鳴であり、慟哭であり、引き裂かれるような絶叫だった。ガラスの破片が嵐のように舞い、氷の刃が心を抉るような鋭い痛み。そしてその奥底に、溶岩のように熱く、しかし出口を見つけられずに蠢く、深い愛情の調べが聞こえる。これまで幾多の楽器の魂を鎮めてきた響でさえ、これほどまでに混沌とし、苦しみに満ちた音を聞いたのは初めてだった。

彼は思わず顔をしかめ、チェロから手を引いた。額に冷たい汗が滲む。

「どうかなさいましたか?」

心配そうに尋ねる美咲に、響はかろうじて笑みを作った。

「いえ…少し、魂が荒ぶっているようです。ですが、ご心配なく。それが私の仕事ですから」

しかし、彼の内面は嵐のようだった。これは一体、何なのだ?単なる未練や後悔ではない。もっと深く、複雑に絡み合った、救いを求める魂の叫び。響は、このチェロとの長い対話が始まることを予感していた。

第二章 奏でられなかった旋律

調律は困難を極めた。ペグを回し、弦を張り替えようとするたびに、チェロの中から抵抗するような軋みが聞こえる。響がA線に音叉を近づけると、正しい音程を示すはずの澄んだ音は、楽器の内部から響く慟哭にかき消され、歪んでしまう。まるで、チェロ自身が調律されることを拒んでいるかのようだった。

数日間、響は美咲の家に通い詰めた。作業の合間に美咲が淹れてくれる紅茶を飲みながら、彼女は少しずつ夫・奏について語ってくれた。奏は将来を嘱望されたチェリストだったこと。しかし、病を得て、若くしてその才能の翼を折られてしまったこと。二人が音楽を通じて出会い、愛し合った日々の思い出。

「あの人は、チェロを自分の分身のように大切にしていました。弾けなくなってからも、毎日こうして布で磨いては、溜め息をついていましたわ」

美咲の語る思い出は、どれも陽だまりのように温かく、優しい光に満ちていた。だが、響がチェロから聞く音は、それとはあまりにかけ離れていた。温かい愛情の調べは確かにある。だが、それを覆い尽くすほどの、激しい後悔と自責の念、そして誰かに向けられた、届かない謝罪の言葉が渦巻いていた。

「奥様。ご主人が亡くなる直前…何か、特別なことはありませんでしたか?」

ある日の午後、作業に行き詰まった響は、思い切って尋ねた。その問いに、美咲の肩が微かに震えた。彼女の顔からすっと血の気が引き、紅茶のカップを持つ手が小刻みに揺れる。

「特別なこと、など…何も…」

彼女は目を伏せ、言葉を濁した。その反応は、響の疑念を確信に変えた。この美しい思い出話の裏には、語られていない、深い闇がある。そして、その闇こそが、このチェロを呪縛しているのだ。

響は、自分の能力について話すべきか迷った。常人には理解しがたい話だ。だが、このままでは奏の魂を鎮めることはできない。彼は覚悟を決め、口を開いた。

「美咲さん。私は、ただの調律師ではありません。私には、楽器に残された最後の演奏者の魂の音が聞こえるんです。このチェロは…奏さんの魂は、ひどく苦しんでいます。何かを、深く後悔している」

美咲は驚きに目を見開いた。だが、そこには恐怖や不信の色はなく、むしろ、すべてを見透かされたかのような、諦観の表情が浮かんでいた。やがて、彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

「…あの日、私たちは、喧嘩をしたんです」

第三章 ふたつの魂のデュエット

堰を切ったように、美咲はすべてを語り始めた。

奏が亡くなる前日。長引く闘病生活で、彼の心は苛立ちと絶望に蝕まれていた。かつて自由に音楽を奏でた指は思うように動かず、その焦りが彼を苦しめていた。その日、些細なきっかけで、彼の感情が爆発した。彼は美咲に、これまで口にしたことのないような辛い言葉をぶつけた。

「君に、僕の苦しみの何がわかるんだ!」

その言葉に、献身的に支えてきた美咲の心も限界だった。彼女は泣きながら家を飛び出した。頭を冷やそうと、ただあてもなく街を歩き、数時間後に家に戻ったときには、奏の容態は急変していた。彼は意識が朦朧とする中で、何度も美咲の名を呼び、何かを言おうとしていたという。しかし、その言葉を聞き届ける前に、彼は息を引き取った。

「私は…彼の最期の言葉を聞いてあげられなかった。謝ることも、許すこともできなかったんです。彼が後悔しているのは、私を傷つけたことでしょう。そして、このチェロが苦しんでいるのは…きっと、私のせいでもあるんです」

美咲は嗚咽を漏らしながら、チェロの前に崩れ落ちた。彼女の告白を聞いた瞬間、響の中で、すべてのピースが繋がった。

なぜ、これほどまでに音が混沌としていたのか。なぜ、愛情と後悔が矛盾しながらも共存していたのか。答えは、そこにあった。

このチェロに宿っていたのは、奏の魂だけではなかったのだ。

奏が残した「愛と後悔」の音。そして、その音に何十年も寄り添い、許しを乞い続けてきた美咲の「罪悪感」と「愛情」の音。生きている人間の魂の残響が、死者の魂と共鳴し合い、分かちがたく絡みついて、一つの巨大な不協和音を生み出していたのだ。響がこれまで経験したことのない現象。生者と死者、ふたつの魂のデュエット。だがそれは、あまりにも悲しい旋律だった。

「調律だけでは、ダメなんです」

響は静かに言った。彼の声には、確信が宿っていた。

「この音を調和させられるのは、ただ一人。美咲さん、あなただけです」

響は、震える美咲の前に、チェロの弓を差し出した。

「奏さんのために、弾いてあげてください。あなたの言葉を、音に乗せて」

美咲は何度も首を横に振った。何十年も楽器に触れていない。だが、響の真摯な瞳に見つめられ、彼女は意を決したように、おそるおそる弓を受け取った。

震える手で弓を構え、弦に当てる。ぎ、と耳障りな音が鳴った。だが、美咲は諦めなかった。目を閉じ、在りし日の夫の姿を、彼の音色を、そして伝えられなかった言葉を心に思い浮かべる。

彼女がゆっくりと弓を動かし始めると、チェロは最初はか細く、途切れ途切れに鳴った。それは拙い、技術的には未熟な音だった。しかし、その一音一音には、彼女のすべての想いが込められていた。

『ごめんなさい、あなた』

『私も、酷いことを言ったわ』

『愛している』

『どうか、安らかに』

すると、奇跡が起きた。

チェロの中から響いていた、あの苦しみに満ちた不協和音が、少しずつ変化していく。美咲の奏でる赦しの旋律に、奏の後悔の音がそっと寄り添い、溶け合っていくのが響には聞こえた。鋭いガラスの破片は丸みを帯び、凍てついた刃は解け、温かい光となっていく。それは、時を超えた魂の対話だった。二人の魂が、何十年という時を経て、ようやく一つの美しいハーモニーを奏で始めたのだ。

客間を満たすチェロの音色は、やがて穏やかで、深く、そしてこの上なく優しい調べへと変わっていった。まるで、奏がすぐそばで微笑み、美咲の演奏に耳を傾けているかのようだった。

響の頬を、一筋の涙が伝った。

第四章 新しい世界の響き

演奏が終わったとき、部屋には完全な静寂が訪れていた。チェロから響いていた魂のざわめきは、嘘のように消え去っていた。残っているのは、ただ純粋な木の響きと、長い年月を経て熟成された、楽器本来の温かい音色だけだった。

美咲は、晴れやかで、憑き物が落ちたような穏やかな顔をしていた。彼女はそっとチェロを抱きしめ、「ありがとう」と囁いた。それは、響に対してであり、そして天国の夫に対してでもあっただろう。

響は、丁寧にチェロの最終的な調律を施した。今や、弦は素直に彼の指に応え、完璧な音程を奏でた。仕事は、終わった。

帰り際、美咲は深々と頭を下げた。

「先生のおかげで、夫はようやく安らかになれたと思います。そして…私も、やっと前に進めそうです」

その言葉に、響は静かに微笑み返した。

自分の能力は、死者の魂を鎮めるだけの、孤独な力だと思っていた。だが、違った。音を通じて、残された者の心をも救うことができる。死者と生者、断ち切られた想いをつなぎ、新たなハーモニーを生み出すことができるのだ。彼はもう、孤独な調律師ではなかった。

仕事場に戻る道すがら、響の世界は以前とは少し違って聞こえた。街の喧騒、車のクラクション、人々の話し声、風が木々の葉を揺らす音。そのすべてが、無秩序な騒音ではなく、それぞれがパートを担う、巨大なオーケストラのように感じられた。世界は、無数の音で満ちており、その一つ一つに意味がある。

仕事場の窓を開けると、心地よい夕暮れの風が吹き込んできた。響は工具を片付けながら、次の依頼のメモに目をやる。それは、古びたアップライトピアノだった。どんな魂が、どんな物語が、彼を待っているのだろう。

彼の足取りは、以前よりもずっと軽かった。その表情には、静かな使命感と、世界への深い慈愛が宿っていた。響は、これからも音を聞き続けるだろう。物に宿る声を、人々の心の声を。そして、ほんの少しだけ、世界の不協和音を、美しいハーモニーへと調律していくのだ。彼の人生という名の、終わらない演奏会は、まだ始まったばかりだった。

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