第一章 無彩色の観測者
俺、カイの目には、世界は常に光の粒子で満ちていた。人が強い感情を抱いた場所に残る「感情の残像」。金色の笑いの飛沫、青銀に沈む悲しみの霧、そして燃えるような緋色の情熱の炎。それらは美しいが、俺にとってはただの現象だった。ガラス越しに眺める雪景色のように、その冷たさも温もりも伝わってこない。俺には、生まれつき感情というものがなかった。
空を見上げれば、無数の「感情の島」が浮かんでいる。人々の感動が結晶となり、大地を形成するこの世界。歓喜に満ちた島は虹色に輝き、深い思索から生まれた島は静謐な藍色を湛えている。人々はそれらの島々を渡り歩き、感動を糧に暮らしていた。
近頃、その島の輝きが次々と失われているというニュースが流れていた。感情の枯渇。まるで遠い国の伝染病のように、人々は囁き合っていた。俺はその光景を、いつものようにただ観察していた。消えゆく島の光は、俺の目に寂寥の残像として映るだけ。それが何を意味するのか、俺には理解できなかった。
第二章 希望を訪ねて
ある風の強い日、一人の少女が俺の住む島を訪れた。リラと名乗る彼女は、空に浮かぶ最大の島、「希望の島」の住人だという。その瞳には、俺が見たこともないほど切実な光が宿っていた。
「カイさん、あなたなら島を救えるかもしれない」
彼女の息は弾んでいた。肩で呼吸をしながら、俺の能力の噂を聞きつけて、遥々やってきたのだと語る。希望の島が、今まさに消えようとしているのだと。
俺は断る理由も、引き受ける義務も感じなかった。だが、彼女の瞳の奥で揺らめく強い感情の残像――それは、翡翠色に輝く祈りの光だった。この光の根源を見てみたい。ただそれだけの好奇心が、俺の足を動かした。
リラに導かれてたどり着いた希望の島は、想像を絶するほどに色を失っていた。かつては七色の光で満ちていたという伝説の島が、今はまるで幽霊のように、無色透明の輪郭をかろうじて保っているだけ。島を撫でる風は音もなく、人々の顔からは表情が抜け落ちている。リラは震える手で、古びたガラス細工を俺に差し出した。
「これは『無色の砂時計』。島の最も古い記憶が眠っていると伝えられています」
その砂時計は、奇妙な構造をしていた。本来なら砂が落ちるはずの下の球体には、ほんの数粒の砂しかない。上の球体が、まるで時間を吸い上げるかのように、虚空の砂で満たされようとしていた。
第三章 逆転の砂時計
俺が砂時計を手に取った瞬間、世界が反転した。目の前の色褪せた風景が、眩いばかりの光の奔流に飲み込まれていく。砂時計が、失われた感情の記憶を俺の網膜に焼き付けているのだ。
――黄金の麦畑を駆け抜ける子供たちの歓声が、金色の粒となって弾ける。
――祭りの夜、寄り添う恋人たちの囁きが、柔らかな桃色の吐息となって空に溶ける。
――工房で新たな旋律を生み出す音楽家の苦悩と歓喜が、紫電の如き閃光となってほとばしる。
それは、希望の島が最も輝いていた時代の、感動の洪水だった。俺はそれを、膨大なデータとして冷静に分析し、記録していく。だが隣で、リラは静かに涙を流していた。頬を伝う雫が、彼女の心の色を映してきらめいている。
「どうして泣くんだ?」
俺の問いに、彼女は驚いたように顔を上げた。
「だって……こんなにも温かくて、美しいじゃないですか。この輝きが、もうどこにもないなんて、悲しい」
悲しい。その言葉の意味を、俺は辞書でしか知らなかった。彼女の頬を伝う涙の残像は、あまりにも複雑で、繊細な青色をしていた。俺には、その光を分類することができなかった。
第四章 源泉の残影
砂時計の導きは、俺たちを島の中心部へと誘った。空気は次第に密度を増し、沈黙が重くのしかかる。やがて辿り着いたのは、巨大な水晶が林立する洞窟だった。島の心臓部、「源泉の洞窟」。
その最奥に、それはあった。
これまで見てきたどんな残像よりも巨大で、純粋な光の球体。それはまるで、小さな太陽のようだった。だが、その光は心臓の鼓動のように弱々しく明滅を繰り返し、今にも消え入りそうだ。
「これが……希望の島の、始まりの感動……」
リラが息を呑む。世界中の人々が、まだ見ぬ未来へ向けて捧げた、無数の祈りと希望の集合体。それがこの島の核なのだ。しかし、なぜこれほどまでに弱っているのか。原因を探るため、俺は恐る恐る光の球体に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間――。
世界が白く染まった。激しい光が俺の全身を貫き、意識が遠のいていく。これは過去の残像ではない。もっと別の、何かだ。未知の力が、俺の空虚な心の内側へと流れ込んでくる感覚。俺は、光の奔流の中で為すすべもなく意識を手放した。
第五章 未来の涙
暗闇の中で、俺は夢を見ていた。いや、それは夢ではなかった。あまりにも鮮明で、生々しい感覚を伴っていたからだ。
俺は、見慣れない小さな家の縁側に座っていた。隣にはリラがいて、穏やかに微笑んでいる。沈みゆく夕日が空と島々を茜色に染め上げていく。その光景を眺める俺の胸の奥から、じんわりと温かい何かが込み上げてくるのを感じた。
――きれいだ。
言葉が、思考より先に浮かんだ。場面が変わる。リラが読んでくれる物語に耳を傾けていた。悲しい結末に、俺の目からは自然と涙がこぼれ落ちていた。頬を伝う雫の冷たさと、胸を締め付ける痛みに、俺は戸惑っていた。
これは、未来だ。感情を得て、ごく当たり前の日常を生きる、俺自身の未来の姿。源泉にあった最も純粋な感動の残像は、過去の記憶などではなかった。この島を救うために、未来から送られてきた俺自身の「初めての感動」の予兆だったのだ。希望の島を救う最後の鍵は、俺が、この空っぽの器に、初めて感情を灯すこと。
そして、俺はその方法を、この追体験の中で悟った。
第六章 心の黎明
はっと目を開けると、目の前には崩壊寸前の洞窟と、涙を浮かべて俺の名を呼ぶリラの顔があった。世界の終わりを告げるような地響きが、足元から突き上げてくる。
「カイさん!」
彼女の声が、遠く聞こえる。俺は、先ほどまで見ていた未来のビジョンを反芻していた。あの温かさ、あの痛み。それが「感情」なのだと、理屈ではなく魂が理解していた。
俺は、その未来を選ぶと決めた。
この世界を、この島を、そして目の前にいるリラを失いたくない。その想いが胸に宿った瞬間、これまで感じたことのない激しい衝動が全身を駆け巡った。それは、未来で体験したあの切ない痛みに似ていた。
「悲しい、な……」
呟いた俺の頬を、一筋の雫が伝った。俺が流した、初めての涙だった。
その透明な一滴が洞窟の床に落ちた瞬間、奇跡が起こった。
世界から音が消え、次の瞬間、爆発的な色彩が奔流となって溢れ出した。無色透明だった水晶の柱は虹色に輝き、枯れた大地には生命の緑が芽吹く。希望の島は、失われた輝きを取り戻すどころか、かつてないほど鮮やかに、力強く再生を遂げたのだ。
歓喜に沸く人々の中で、俺は呆然と自分の手を見つめていた。あれほど世界を彩っていた感情の残像が、もうどこにも見えない。金色の粒子も、青銀の霧も、すべてが消え失せていた。世界はただの、ありふれた風景になった。
その代償として、俺の心には確かな温もりが宿っていた。
リラが、泣き笑いのような顔で俺を見ている。俺は彼女に向き直り、ぎこちなく、だが確かに自分の意志で、微笑んでみせた。
特別な能力を失った世界は、少しだけ色褪せて見えるのかもしれない。だが、俺自身の心には、今まさに夜明けの光が差し込んでいる。本当の感動とは、特別な誰かのものではなく、この平凡な日常の中にこそ満ちているのだと、俺は知ったのだ。