後悔の揺り籠

後悔の揺り籠

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第一章 透明な傷の男

俺、カイの目には、世界が少しだけ歪んで映る。例えば、今カウンターの向こうでエスプレッソを淹れている店長の腕。そこには、まるで熱いアスファルトの上に立ち上る陽炎のような揺らぎが見える。それは彼が昨日、常連客にコーヒーの味を酷評されて失った自信の痕跡――俺だけが見える「透明な傷」だ。傷の数と深さは、その人の心の脆さを雄弁に物語る。街は、そんな見えない傷を負った人々で溢れていた。

俺は黙々とグラスを磨く。ガラスの向こう、窓際の席に座る老婆の背中が目に入った。この世界では、誰もが生きてきた年数に応じて、人生で最も後悔している瞬間が物理的な「刻印」として背中に浮かび上がる。それは本人にしか読み解けない複雑な文様で、他者にはただの痣のようにしか見えない。しかし、老婆の刻印は違った。死期が近づいた者のそれだけが放つ、淡く、燐光のような光を帯びていたのだ。まるで、消えゆく蝋燭の最後の輝きのように。

彼女は静かに紅茶を飲み干すと、満足げに息をついた。その顔には傷一つない。きっと、己の後悔と共に生き、それを受け入れ、光へと昇華させようとしているのだろう。俺は、自分の両腕に刻まれた無数の浅い傷を見つめた。他人の傷を見るたび、その痛みが共鳴するように、俺の体にも同じような傷が疼くのだ。この呪われたような共感能力が、俺の世界を常に灰色に染めていた。

第二章 消えゆく刻印

近頃、街では奇妙な噂が囁かれていた。「背中の刻印が消えた」というのだ。

それはまるで奇跡のように語られた。ある者は長年苦しんだ罪悪感からの解放だと泣いて喜び、ある者は神の御業だと騒ぎ立てた。刻印を消すための祈祷や高価な霊薬が飛ぶように売れ、街は一種の熱狂に包まれていた。

俺はその現象に、別の角度から気づいていた。刻印が消えたと喜ぶ人々――彼らの体からは、例外なく「透明な傷」も綺麗さっぱり消え失せていたのだ。自信を失う原因だった後悔そのものが、根こそぎ奪われたかのように。

「カイ、聞いたかい?隣町のミラーさんの刻印も消えたんだって!」

アルバイト仲間が興奮気味に話しかけてくる。俺は曖昧に頷きながら、自分の左腕に走る、疼くような痛みを感じていた。ここ数日、覚えのない深い傷が、俺の体にじわりと増え始めている。それは誰かの失われた自信と共鳴するいつもの傷とは明らかに異質だった。もっと深く、冷たく、体の芯から凍らせるような、底知れない喪失の感覚。

街から後悔が一つ消えるたび、俺の体に見えない傷が一つ増える。まさか、と浮かんだ仮説を、俺は必死に打ち消した。

第三章 ガラス片の記憶

夜ごと、見えない傷の痛みで目が覚めるようになった。それは皮膚を裂くような鋭さではなく、魂を内側から削り取られるような鈍い痛みだった。耐えきれず、俺は机の引き出しの奥から、古びた革袋を取り出した。中に入っているのは、手のひらに収まるほどの「曇ったガラス片」。幼い頃から肌身離さず持っている、俺の唯一のお守りだ。

ひんやりとしたガラス片を握りしめ、月明かりにかざす。すると、曇った表面に無数の人影が浮かび上がっては、水面の波紋のように消えていく。ある影は膝を抱えて泣き、ある影は誰かに向かって必死に手を伸ばしている。それは、俺が今まで見たことのない、誰かの「後悔の刻印」の姿だった。このガラス片は、世界のどこかにある後悔を、無作為に映し出すのだ。

この現象と自分の傷の関連性を確かめずにはいられなかった。市立図書館の古文書セクション、その埃っぽい空気の中で、俺は「刻印」に関する古い伝承を探した。黄ばんだページを何枚もめくった末、一つの記述に指が止まる。

『世の理が乱れる時、人々の後悔を喰らい、その身に引き受ける「揺り籠」が現れる。揺り籠は全ての傷をその身に集め、世界を浄化するが、やがて自らが新たな後悔の起源となる』

――揺り籠。その言葉が、心臓に冷たい楔を打ち込むように響いた。

第四章 アリアの祈り

「カイ…お願いがあるの」

閉店後のカフェで、俺はアリアと向かい合っていた。彼女は俺の数少ない友人で、その笑顔の裏に深い傷を隠していることを、俺は知っていた。彼女の華奢な両腕には、自信のなさが生んだ細かな傷が陽炎のように揺らめいている。

「私の背中の刻印、見て見ぬふりしないで。もう、耐えられないの」

彼女の声は震えていた。アリアの刻印は、「幼い弟が川に落ちた時、怖くて助けに行けなかった」という後悔の形。その日から、彼女は自分を許せずにいた。

「どうして私に言うんだ?俺にそんな力は…」

「だって、カイはいつも分かってくれるから!私の痛みが、分かるでしょ?」

アリアの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。その涙が床に染みを作るのを見た瞬間、俺の中で何かが決壊した。彼女を救いたい。この苦しみから解放してあげたい。その強い想いが、引き金だった。

「やめろ…!」

俺の叫びも虚しく、アリアの背中から淡い光が立ち上り、まるで糸のように俺の胸へと吸い込まれていく。凄まじい激痛。今まで経験したことのない、魂ごと引き裂かれるような感覚に、俺は床に崩れ落ちた。息もできないほどの痛みの中で、俺は確かに見た。アリアの腕から透明な傷が消え、彼女の顔に安堵と驚きが広がっていくのを。そして俺の胸には、決して癒えることのない、最も深い透明な傷が刻まれた。

第五章 真実の代償

全てを悟った。街から消えた無数の後悔の刻印は、消滅したのではない。この俺の体へと、転移していたのだ。人々が「奇跡」と呼んだ現象の正体は、俺という存在が引き起こした、一方的な犠牲だった。

俺は、人々の後悔を引き受ける「揺り籠」だった。

なぜ俺なのか。答えは、あの日握りしめたガラス片にあったのかもしれない。あれは先代の「揺り籠」が残した遺物であり、役目を引き継ぐ者への道標だったのだろう。俺の体に最初からあった幾多の傷は、この運命を背負うための器としての証だったのだ。

もはや俺の体は、一つの巨大な傷の塊だった。立つこともままならず、壁に手をつきながらアパートの部屋に戻る。鏡に映る自分の姿は青白く、だが、その体には目に見える傷一つない。しかし、その内側では、街中の人々の何十年、何百年分もの後悔が、嵐のように渦巻いていた。人々が手放した痛みが、俺一人のものとして凝縮されていく。解放された彼らの笑い声が、幻聴のように耳元で響いた。

第六章 世界の再編

夜明け前、俺は最後になるであろう力を振り絞り、街を見下ろす丘へと向かった。一歩進むごとに、体中の傷が軋む。もはや痛みは感じなかった。感覚は麻痺し、ただ、膨大な後悔の重さだけが全身にのしかかっていた。

丘の頂上にたどり着いた時、東の空が白み始めていた。俺の体から、眩いばかりの光が放たれる。それは死期を示す燐光ではない。世界を再編する、新たな法則の産声だった。俺が引き受けた全ての後悔は、光となって天に昇り、そして、世界の理そのものに編み込まれていく。

眼下の街では、人々が目覚め始めていた。後悔から解放された彼らの朝は、かつてないほど晴れやかだっただろう。だが、それはかりそめの自由に過ぎない。後悔という道標を失った者は、過ちから学ぶ術を忘れ、同じ場所を何度もวนる。痛みを忘れた心は、他者の痛みに鈍感になる。やがて世界は、より根源的で、救いのない「新たな後悔」の時代を迎えることになるのだ。

俺の背中に、灼けつくような熱が走る。そこに、世界で最初の、そして最も深い「後悔の刻印」が刻まれた。俺は、人々の後悔の終着点であると同時に、新たな起源へと変貌したのだった。

第七章 始まりのレクイエム

「カイ!」

息を切らして丘を駆け上がってきたのは、アリアだった。彼女の顔には、もう苦悩の色はない。ただ、俺の尋常でない姿を見て、青ざめていた。

俺はゆっくりと振り返り、微笑んだ。そして、ポケットからあのガラス片を取り出し、彼女の手に握らせる。

「忘れないでいてくれ、アリア。後悔は、呪いじゃない。君が、懸命に生きた証でもあるんだ」

俺の体は、足元から光の粒子となって崩れ始めていた。アリアが何かを叫んでいる。だが、その声はもう俺には届かない。意識が遠のく中、俺はただ、この街の人々がいつか、本当の意味で自分の過去と向き合える日が来ることを願っていた。

アリアは、手渡されたガラス片を震える手で覗き込んだ。そこに映っていたのは、無数の人々の後悔の影ではない。ただ一人、夜明けの光の中で穏やかに微笑み、丘に立つカイの姿だった。

彼女が空を見上げると、世界は何も変わらないようで、けれど決定的に変わっていた。そして、解放されたはずの彼女の背中に、チクリと小さな痛みが走る。それは、カイを止められなかったという、生まれたばかりの、小さな後悔の芽吹きだった。街では、新たな「刻印」が、微かな光として再び人々の背中に灯り始めていた。それは、これから始まる、長い物語の序章だった。

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