蝶のいない部屋

蝶のいない部屋

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第一章 黒い蝶の飛ばない老婆

柏木湊の世界では、嘘は形を持つ。それは黒い蝶だ。些細な見栄や社交辞令からは粉を撒き散らすような小ぶりの蝶が生まれ、悪意に満ちた欺瞞からは、翅脈の不気味な、大きな黒揚羽が生まれる。人々は、舞い踊る無数の蝶に慣れきった顔で日常を送り、互いの嘘の形を見ないふりして生きている。

湊は、そんな世界がたまらなく嫌いだった。街角の古書店『言の葉堂』の店主である彼は、インクと古い紙の匂いに満ちた静かな城で、真実だけが記された書物に囲まれることで、かろうじて心の平穏を保っていた。客が口にする「探している本はないけど、また来ます」という言葉から生まれた蝶が、埃っぽい光の中を頼りなく舞うのを見るたび、胸の奥が冷たく軋んだ。

そんな湊の日常に、小さな波紋が生まれたのは、初夏の雨がアスファルトを濡らす日のことだった。小柄な老婆が、傘の雫を丁寧に払いながら店に入ってきた。上品な白髪をきちんと結い上げた、千代と名乗るその女性は、以来、週に二、三度、店を訪れるようになった。

彼女はいつも同じことを尋ねる。「『星屑のスープ』という絵本、入っておりませんでしょうか」。湊が店の在庫を何度確認しても、出版記録を調べても、そんなタイトルの本は見つからない。だが、千代はがっかりした様子を見せながらも、穏やかな笑みを浮かべてこう言うのだ。

「そうですか。でも、きっとどこかにあるはず。孫のユキが大好きだった本なんです。私が膝の上で読んでやると、いつも目をきらきらさせて……」

その時だった。湊は息を呑んだ。千代が思い出を語るその口元から、一匹の蝶も生まれなかったのだ。この世界で、思い出を語るという行為は、最も蝶が生まれやすい瞬間の一つだ。記憶は時間と共に曖昧になり、無意識のうちに脚色される。懐かしさは、しばしば小さな嘘を孕む蜜となる。だが、千代の周りだけは、まるで聖域のように空気が澄み渡っていた。彼女の言葉は、一点の曇りもない真実だというように。

湊は、この黒い蝶の飛ばない老婆に、抗いがたい興味を抱き始めていた。彼女が探す『星屑のスープ』とは、一体どんな物語なのだろうか。そして、彼女の語る思い出は、なぜ完璧なまでに真実なのだろうか。

第二章 真実の輪郭

千代との交流は、湊の心を少しずつ解きほぐしていった。彼女は絵本の話だけでなく、亡き夫との慎ましい暮らしや、庭で育てているという桔梗の話をした。そのどれもが、嘘の蝶を伴わない、水晶のような言葉だった。湊は、いつしか彼女が店を訪れるのを心待ちにするようになっていた。

「湊さんは、どうしてこのお仕事を?」

ある日、千代が尋ねた。湊は少し躊躇いながら、自身の過去をぽつりぽつりと語り始めた。幼い頃、彼の家はいつも優しい嘘で満ちていた。事業に失敗した父の「大丈夫だ」という言葉、心労でやつれた母の「幸せよ」という微笑み。そのたびに、家の中を大小の黒い蝶が舞っていた。彼はそれが家族の愛の形なのだと信じていた。しかし、ある日突然、両親は諍いの末に離れ、家は差し押さえられた。蝶たちが隠していた残酷な真実が、一度に彼を襲った。それ以来、湊は嘘を、そしてそこから生まれる蝶を、心の底から憎むようになったのだ。

「だから、僕は真実だけが好きなんです。ここに並ぶ本は、誰かの嘘を暴くこともあれば、揺るがない事実を教えてくれる。言葉は、真実を伝えるためにあるべきなんです」

話し終えると、千代は黙って湊の目を見つめ、それから優しく微笑んだ。「あなたは、とてもお優しいのね」。彼女の言葉は、またしても蝶を生まなかった。湊は戸惑った。優しさと嘘は、この世界ではほとんど同義語だったからだ。

千代は、探している絵本について、さらに詳しく話してくれた。それは、迷子の小さな星が、夜空の仲間たちに助けられながら、月の女神様が作る温かい「星屑のスープ」をご馳走になる、という話らしい。「ユキはね、そのスープを飲む場面が大好きで。私もいつか飲んでみたいわ、なんて言ってね」。そう語る千代の横顔は、幸福な記憶の光に満ちていた。

湊は、彼女のために本気で『星屑のスープ』を探し始めた。古書組合の仲間にも声をかけ、あらゆる文献を漁った。しかし、手掛かりは一向に見つからない。まるで、最初からこの世に存在しない本であるかのように。それでも湊は諦めなかった。この純粋な真実の塊のような老婆の願いを、どうしても叶えてやりたかったのだ。それは、彼が憎んでいたはずの世界の中に、初めて見出した一条の光だった。

第三章 存在しない絵本

その知らせは、突然だった。千代が自宅で倒れ、病院に運ばれたという。店の常連客から聞き、湊はいてもたってもいられず、病院へと走った。病室のベッドで眠る千代は、いつもよりずっと小さく、か弱く見えた。

しばらくして、千代がゆっくりと目を開けた。彼女は朦朧とした意識の中で湊を認めると、か細い声で尋ねた。

「……あの絵本は、見つかったかしら……?」

「いえ、まだ……でも、必ず見つけますから」

湊がそう答えると、千代の目から一筋の涙がこぼれた。その時、病室のドアが開き、若い女性が入ってきた。

「あの、祖母がお世話になっております」

女性は深々と頭を下げた。湊は、彼女が千代の語っていた孫のユキさんだろうと思った。

「ユキさん、ですか? お祖母様からいつもお話は伺っています。『星屑のスープ』という絵本、ご存知ないでしょうか? どうしても見つからなくて」

湊の言葉に、女性は一瞬、戸惑ったような、そして深く悲しむような表情を浮かべた。彼女はゆっくりと首を横に振る。

「……申し訳ありません。私は祖母の姪にあたります。祖母には……子供も、孫も、おりません」

その言葉は、静かな病室に重く響いた。湊の頭の中で、何かが砕け散る音がした。

「祖母は、アルツハイマー型認知症なんです。夫を亡くしてから、少しずつ……。自分の中に、架空の孫『ユキちゃん』を作り出して、その子との思い出を、何度も何度も、大切に語るようになりました。『星屑のスープ』という絵本も、きっと、祖母の心の中だけに存在する、宝物なんだと思います」

湊は絶句した。千代の言葉が真実だったのは、彼女自身が、その「嘘」を心の底から真実だと信じ込んでいたからだったのだ。彼女の世界では、ユキは確かに存在し、絵本を膝の上で聞いたのだ。だから、黒い蝶は一匹も生まれなかった。

湊が憎み、遠ざけてきた「嘘」。しかし、千代のそれは、誰かを傷つけるためのものではなかった。それは、孤独と失われていく記憶の闇の中で、彼女が自分を支えるために、必死に紡ぎ出した、あまりにも切なく、あまりにも純粋な、魂の物語だった。真実こそが絶対だと信じてきた湊の価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていった。千代の流した涙は、見つからない絵本への悲しみではなく、失われゆく自身の世界への、悲痛な叫びだったのかもしれない。

第四章 はじまりの嘘

『言の葉堂』に戻った湊は、店の真ん中で呆然と立ち尽くしていた。インクと古紙の匂いが、今はひどく空虚に感じられた。棚に並ぶ無数の「真実」が、彼に問いかけてくるようだった。お前にとって真実とは何だ、と。

彼は千代の言葉を一つ一つ反芻した。迷子の星、月の女神、温かい星屑のスープ。断片的だが、そこには確かな物語の息吹があった。湊の中で、何かが決まった。彼は店のシャッターを下ろすと、奥の作業部屋に籠った。

夜を徹して、彼はペンを走らせ、絵筆を握った。千代から聞いた話を頼りに、物語を紡ぎ、挿絵を描いた。彼の人生で、これほどまでに何かに没頭したことはなかった。それは、真実を追い求めてきた彼が、初めて自らの手で「物語」を、つまりは一つの「嘘」を創り出す作業だった。

翌日の午後、湊は出来上がったばかりの一冊の本を手に、再び病院を訪れた。古びた洋書の表紙を貼り付けたその手作りの絵本には、拙い金文字で『星屑のスープ』と記されている。

ベッドの上で体を起こしていた千代は、湊の姿を認めると、弱々しく微笑んだ。湊は彼女のベッドの傍らに膝をつき、そっと絵本を差し出した。

「千代さん。見つかりましたよ」

千代は震える手で絵本を受け取った。表紙を撫で、ゆっくりとページをめくる。そこに描かれた迷子の星と、優しい月の女神の絵を見て、彼女の瞳が驚きと喜びに大きく見開かれた。

「ああ……ああ、これです。この本です……!」

涙を浮かべ、千代は絵本をぎゅっと胸に抱きしめた。それは、何十年も探し続けた宝物に、ようやく再会できた子供のような、無垢な喜びだった。

その顔を見て、湊の口から、自然に言葉がこぼれ落ちた。

「ええ。世界中を探しました。やっと見つかったんです。世界に一冊だけの、あなたのための絵本です」

その瞬間。

湊の肩から、ふわり、と一匹の蝶が舞い上がった。それは、彼がこれまで見てきたどの蝶とも違っていた。翅は夜空のように深い黒色だったが、その縁は、まるで星屑を溶かし込んだかのように、淡く、温かい光を帯びていた。蝶は病室の窓から差し込む陽光の中を一度だけ優雅に旋回すると、静かに溶けるように消えていった。

湊は、その蝶の軌跡を、涙が滲む目で見送っていた。

嘘は、人を傷つけるものばかりではない。時に、誰かの心を救うための、世界で最も優しい祈りになることもあるのだ。

黒い蝶が舞う世界で、彼は初めて、真実と嘘の境界線の向こう側にある、温かな光の存在を知った。古書店の店主は、今日、たった一つの、かけがえのない物語の始まりを、その手で紡ぎ出したのだった。

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