第一章 心の色
水上奏(みなかみ そう)の日常は、限りなく無色透明に近かった。デザイン事務所での仕事は、クライアントの要求を正確に汲み取り、的確な成果物として返す作業の繰り返し。同僚との会話は当たり障りなく、プライベートでは誰と会うでもなく、ただ静かに時間が過ぎるのを待つ。感情の起伏は凪いだ水面のようで、喜びも、怒りも、深い悲しみさえも、まるで他人事のように彼の心の表面を滑っていった。
唯一の肉親だった祖父が亡くなって三ヶ月が経つ。育ての親を失ったというのに、奏の心に空いた穴は、奇妙なほど実感を伴わなかった。ただ、週末に祖父の家の遺品を整理する時間は、無味乾燥な日常に割り込む、少しだけ手触りの違う時間だった。
その日も奏は、埃っぽい書斎で段ボールに古書を詰めていた。祖父は物書きだった。書斎には、インクの匂いと古い紙の匂いが今も染みついている。ふと、使い込まれた文机の引き出しの奥に、硬い感触があった。取り出してみると、それは一本の古びた万年筆だった。黒檀のような艶を持つ軸に、銀色のクリップ。祖父がいつも胸ポケットに挿し、原稿用紙の上を滑らせていた、見慣れた一本だ。
懐かしさに駆られ、奏はそばにあったメモ用紙に何か書こうとした。しかし、ペン先を紙に置いても、インクは一滴も出てこない。空になったのだろう。諦めて置こうとした瞬間、ふいに、胸の奥に微かな疼きが走った。それは、この書斎で一人、祖父の不在を実感したことからくる、ごく淡い寂寥感だった。
その時だ。万年筆を握る指先に、微かな熱が伝わった。見ると、ペン先からインクがじわりと染み出し、真っ白なメモ用紙の上に、淡い藍色の雫を落とした。それはまるで、明け方の空が滲んだような、静かで、どこまでも寂しい色だった。
「え……?」
奏は思わず声を漏らした。インクカートリッジは空のはずだ。彼はもう一度、万年筆を強く握りしめた。今度は、締め切り間近の仕事のプレッシャーと、理不尽な修正依頼を出すクライアントへの苛立ちを思い浮かべた。すると、万年筆は再び熱を持ち、今度は紙の上に、血を煮詰めたような、どす黒い赤色のインクを吐き出した。インクは紙の繊維に食い込むように広がり、まるで怒りの形をそのまま写し取ったかのようだった。
心臓が大きく脈打つ。まさか。そんなはずはない。
奏は深呼吸し、心を鎮めようと努めた。そして、幼い頃、祖父に連れられて行った夏祭りの夜を思い出した。りんご飴の甘い香り、夜空に咲く大輪の花火、繋いだ祖父の温かい手のひら。すると、万年筆のペン先から現れたのは、溶かした黄金のようにきらめく、温かい光を放つインクだった。
奏は呆然と、三つの色が滲んだメモ用紙を見つめた。藍色、赤黒、黄金色。それは、彼が今まで言葉にすることも、意識することさえなかった感情の断片だった。この万年筆は、彼の心に呼応して、その感情を「色」として描き出すのだ。
無色透明だったはずの世界に、初めて色が生まれた瞬間だった。それは奏にとって、日常を根底から覆す、あまりにも鮮烈な出来事だった。
第二章 補助輪と日記
その日から、奏の生活は一変した。彼はどこへ行くにも祖父の万年筆を持ち歩き、まるで秘密の儀式のように、自分の感情を確かめるようになった。彼は一冊の真新しいノートを買い、それを「感情日記」と名付けた。
朝、満員電車に揺られながら感じる憂鬱は、鈍い鉛色。昼、同僚の高森栞が淹れてくれたコーヒーの香りに安らぐと、ペンは柔らかな若葉色の線を描いた。栞は、奏の数少ない変化に気づいているようだった。「水上さん、最近、何かいいことありました?」彼女の屈託のない笑顔に、奏の心に何かが芽生える。ペンを握ると、それは恥じらいを帯びた、淡い桜色として紙の上に現れた。奏は慌ててノートを閉じた。自分の内面を覗き見られるようで、ひどく落ち着かなかった。
奏は次第に、この万年筆に依存していった。嬉しいことがあっても、黄金色のインクを見るまでは、本当に喜んでいるのか自信が持てない。腹が立っても、赤黒いインクがなければ、その怒りは輪郭を失ってしまう。万年筆は、感情という曖昧なものを可視化してくれる、唯一無二の羅針盤だった。
ある夜、奏は日記に、両親のことを書こうと思い立った。彼が五歳の時に交通事故で亡くなった両親の記憶は、ほとんどない。ただ、冷たい雨の匂いと、大人たちのひそひそ声だけが、靄のかかった風景として残っている。ペンを握り、その日のことを思い出そうと集中する。すると、ペン先から滲み出たのは、色と呼ぶのもおぞましい、全てを吸い込むような漆黒だった。それは、時折、悪夢の中に現れる底なしの闇の色だった。奏は恐怖に駆られてペンを放り投げた。
ノートには、様々な色が混じり合っていた。祖父との思い出は、温かい緑や優しい橙色で彩られている。仕事の達成感は鮮やかな空色。しかし、栞への戸惑いの桜色や、過去のトラウマの漆黒は、奏自身を混乱させた。彼は自分の感情の多様さと激しさに、まるで初めて触れるかのように狼狽した。
万年筆は、奏にとって心の「補助輪」だった。それなしでは、感情の波の上をうまく進めない。彼は色を見ることで安堵し、色に頼ることで、かろうじて自己を保っていた。だが、補助輪に頼り切った乗り手は、いつしか自分の力でペダルを漕ぐ方法を忘れてしまうものだ。奏の心は、万年筆という名の美しい呪縛に、静かに絡め取られていった。
第三章 壊れた羅針盤
運命の日、奏は人生を左右する大きなコンペの最終プレゼンに臨んでいた。数ヶ月を費やしたプロジェクト。成功すれば、彼のキャリアは大きく飛躍する。控え室で待機する間、奏の心臓は経験したことのないほど激しく高鳴っていた。期待、不安、そして極度の緊張。彼は確かめるように、胸ポケットから万年筆を取り出した。
ノートの端に、ペン先を当てる。紫がかった、嵐の前の空のような黒いインクが滲んだ。緊張の色だ。大丈夫、これさえ乗り越えれば、きっと黄金色の達成感が待っている。彼は自分に言い聞かせ、万年筆を強く握りしめた。その瞬間だった。
ツルリ、と汗ばんだ手から万年筆が滑り落ちた。硬い床に響く、甲高い金属音。スローモーションのように、万年筆が床に叩きつけられるのが見えた。奏は血の気が引くのを感じながら、慌ててそれを拾い上げる。銀色のペン先が、見るも無惨にぐにゃりと曲がっていた。
「あ……」
声にならない声が漏れる。嘘だろ。彼は震える手で、もう一度ノートにペンを走らせようとしたが、インクは一滴も出ない。ただ、無慈悲な引っ掻き傷が、白い紙を抉るだけだった。
羅針盤が、壊れた。
プレゼンの時間は刻一刻と迫る。奏の頭は真っ白になった。今、自分はどんな気持ちなんだ? 緊張しているのか? 絶望しているのか? それとも、もう何も感じていないのか? 自分の心が分からない。色のない世界に、再び突き落とされたようだった。
プレゼンは、散々な結果に終わった。声は上ずり、手は震え、情熱も自信も、どこにもなかった。ただ、用意された原稿を、魂の抜け殻のように読み上げただけだった。
会社に戻ると、誰もが腫れ物に触るように奏を避けた。そんな中、高森栞だけが、彼のデスクにそっとマグカップを置いた。「お疲れ様です」その声に、奏は顔を上げられなかった。「……すみません」かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。
「水上さん」栞が静かに言った。「さっき、プレゼンが終わった時、ステージの袖で、すごく悔しそうな顔、してましたよ。私、初めて見ました。水上さんの、そんな顔」
奏はハッとして顔を上げた。悔しそうな顔? 俺が? 万年筆がなくても?
その夜、奏は自室で、壊れた万年筆をただぼんやりと眺めていた。祖父の形見を、自分の手で壊してしまった。その時、ふと、遺品整理の際に見つけた、まだ開けていない封筒があったことを思い出した。祖父の字で、「奏へ」とだけ書かれた封筒だ。
震える手で封を開けると、中には一枚の便箋が入っていた。それは、見慣れた祖父の、温かい丸みを帯びた文字で綴られていた。
『奏へ。この手紙を読んでいるということは、あの万年筆が役目を終えた時だろう。驚かせてしまったかな。実はな、あの万年筆には、特別な力など何もないんだよ』
奏は息を飲んだ。
『あれはただの古い万年筆だ。だが、お前は昔から、自分の気持ちを言葉にするのが苦手だった。だから、じいちゃんは一つの「おまじない」をかけた。お前が自分の心と向き合うための、ささやかなきっかけ、言わば「補助輪」だ。インクの色は、万年筆が決めているんじゃない。お前自身の心が、そう望んで、そう見ているだけなんだ。「悲しい時は、きっと青色だろう」「嬉しい時は、黄金のように輝くに違いない」。そう信じるお前の純粋な心が、ただのインクに色を与えていたんだよ。
いつか、そのペンが壊れるか、お前がそのからくりに気づいた時、きっとお前は補助輪なしで、自分の心という自転車を乗りこなせるようになっているはずだ。忘れるな、奏。お前の感情は、誰のものでもない、お前自身の、かけがえのない宝物なんだ』
手紙を持つ手が、震えていた。万年筆の力は、魔法でも何でもなく、奏自身の心が生み出した幻だった。そしてそれは、感情表現の不器用な孫を想う、祖父の最後の、そして最大の愛情だった。
第四章 僕自身のパレット
手紙を読み終えた奏の頬を、熱い雫が伝った。それは、万年筆が示したどの色でもなかった。ただ温かく、しょっぱい、本物の涙だった。祖父の深い愛情への感謝。自分の愚かさへの悔しさ。そして、ようやく自分の心に触れられたという、途方もない安堵。様々な感情が、奔流となって溢れ出し、奏の心を洗い流していく。
壊れた万年筆を、そっと両手で包み込む。インクはもう出ない。だが、その黒檀の軸は、祖父の手の温もりを伝えてくれるようだった。ありがとう、じいちゃん。そして、さようなら、僕の補助輪。
翌日、奏は出社すると、真っ直ぐに高森栞の元へ向かった。「高森さん、昨日はすみませんでした」彼は深々と頭を下げた。「それから……ありがとう。君の言葉で、目が覚めた」
栞は少し驚いたように目を見開いたが、やがて、ふわりと微笑んだ。「いいえ。私、水上さんの本当の顔が見られて、少し嬉しかったです」
その笑顔は、奏の心に、春の陽だまりのような温かい色を灯した。それはもう、万年筆で確かめる必要のない、確かな感覚だった。
奏は、壊れた万年筆を修理には出さなかった。代わりに、机の一番大切な引き出しに、祖父の手紙と共にそっとしまった。それはもう感情を測る道具ではない。祖父との絆を、そして自分が自分を取り戻した証として、そこにあり続けるだろう。
週末、奏は画材店で、一冊の大きなスケッチブックと、一本の何の変哲もない鉛筆を買った。自室に戻り、真っ白なページを開く。彼は何を描くでもなく、ただ、心に浮かぶものを鉛筆で描き始めた。
さらさらと、紙の上を黒鉛が滑る音だけが部屋に響く。
描いていたのは、縁側で穏やかに笑う、祖父の顔だった。皺の刻まれた目元、優しい口元。その表情を描きながら、奏の胸には、温かい光が満ちていくのを感じた。
それはきっと、あの万年筆が示した、美しい黄金色に違いなかった。
だが、奏はもう、色を「見る」必要はなかった。自分の心が持つ無限のパレットで、それを鮮やかに「感じる」ことができるようになったのだから。無色透明だった彼の世界は、今、彼自身の力で、豊かに彩られ始めていた。