第一章 星屑の遺言
水島亮太の人生は、限りなくゼロに近い誤差で設計されたプログラムのように、整然としていた。三十ニ歳、システムエンジニア。都心の高層マンションの一室は、生活感を排したモデルルームのように無機質で、彼の合理主義を体現していた。そこに、父の死という最大のバグが侵入してきたのは、三ヶ月前のことだった。
破天荒な芸術家だった父、雄一郎とは十年以上、まともに口を利いていなかった。感情の波が激しく、生活能力に乏しい父を、亮太は若い頃から軽蔑していた。だから、父の死に際しても、涙は一滴も流れなかった。ただ、面倒な後処理が増えた、としか思わなかった。
そんな亮太の元に、父の顧問弁護士から一通の封筒が届いた。遺産と呼べるほどのものはない、と聞いていたが、そこには「遺言執行に関するお願い」と記されていた。
「水島雄一郎氏は、ご子息である亮太様に、以下のことを遺言として託されております」
弁護士の事務的な声が、電話口から響く。亮太はスピーカーフォンにしたまま、パソコンのキーボードを叩いていた。
「私が愛用していたモンブランの万年筆で、来月の満月の夜、葉山の灯台が見える丘から、『星野 栞(ほしの しおり)』という女性に手紙を書きなさい。内容は問わない。ただ、私の代わりに、君の言葉で」
亮太の指が止まった。馬鹿げている。非論理的で、感傷的で、いかにもあの父らしい、迷惑な遺言だ。星野栞という名にも、全く心当たりがない。
「……断ることはできますか」
「遺言に法的な強制力はございませんが、雄一郎氏の、たっての願いでした。万年筆は、葉山のアトリエに残してあるそうです」
電話を切り、亮太は大きくため息をついた。無視してしまえばいい。そう思うのに、胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感が残る。その週末、彼はまるで何かに導かれるように、父の遺品が残された葉山のアトリエへと向かっていた。潮の香りと、埃っぽい絵の具の匂いが混じり合うアトリエの隅で、亮太は黒く艶やかな一本の万年筆を見つけ出した。ずしりと重いモンブラン。その横には、小さなインク瓶が一つ。手書きのラベルには、掠れた文字で『星屑』と記されていた。
第二章 インクの記憶
葉山のアトリエは、父という人間の混沌を凝縮したような空間だった。描きかけのキャンバス、無造作に積まれた画集、そして、床の一角を占める大きな木箱。中には、几帳面な束になった手紙がぎっしりと詰まっていた。亮太は、父がこれほど筆まめだったことに軽い驚きを覚えた。
「星野栞」の名を探すのは、難しくなかった。一番上の束に、その名があったからだ。古びた便箋に綴られた、流麗な女性の文字。そして、それに応える父の、どこか子供っぽく、勢いのある文字。手紙の日付は、亮太が生まれるよりもずっと前だった。
『雄一郎さん、あなたの描く空は、どうしてあんなに優しい色をしているのでしょう』
『栞さんこそ、あなたの言葉はまるで音楽のようだ。僕の無骨な絵に、旋律を与えてくれる』
文面から察するに、二人は若き日の恋人同士だったのだろう。亮太の胸に、冷ややかな感情が広がった。なんだ、結局は昔の女への未練か。それを息子に代筆させようというのか。父への軽蔑が、再び頭をもたげる。
それでも、亮太は手紙を読むのをやめられなかった。そこには、彼の知らない父がいた。創作に悩み、友と飲み明かし、小さなことで笑い、そして深く恋をする、生身の人間としての雄一郎がいた。亮朝の知る父は、家庭を顧みない、自分勝手な芸術家でしかなかった。だが、インクの染みた紙の上で、父は不器用ながらも懸命に誰かと繋がろうとしていた。
亮太は、父が遺した『星屑』のインクを万年筆に吸わせた。それは、夜空を溶かしたような、深く、そしてどこかきらめきを宿した藍色だった。ペン先から紙へとインクが染みていく感触は、キーボードを叩くのとは全く違う、有機的な温かみを持っていた。
満月の夜が、刻一刻と近づいていた。
第三章 灯台の真実
約束の夜、亮太は葉山の丘の上に立っていた。銀色の月が海面を照らし、眼下では灯台が、規則正しく、静かな光を放っていた。まるで巨大な生き物の呼吸のように。冷たい夜気が肌を刺す。亮太はコートのポケットから万年筆を取り出し、便箋を膝の上に広げた。
だが、いざ書こうとすると、言葉が出てこない。見ず知らずの、父の昔の恋人に、何を伝えればいいというのだ。苛立ちと虚しさが込み上げてきた、その時だった。
「……水島、亮太さん、ですか」
背後から、穏やかな声がした。振り返ると、そこにいたのは、銀色の髪を品良くまとめた、小柄な老婆だった。その優しい眼差しに、亮太はなぜか既視感を覚えた。
「あなたが、星野栞さん……?」
「ええ」老婆は静かに頷いた。「雄一郎さんから、聞いていました。いつか息子が、私の元を訪ねてくるだろうと」
彼女がゆっくりと語り始めた物語は、亮太の予想を根底から覆すものだった。
「私と雄一郎さんは、恋人ではありませんでした。私は、彼のたった一人の親友の、妻でした」
栞の夫、つまり父の親友は、星を愛し、灯台守になるのが夢だった快活な青年だったという。しかし、三十年以上前、雄一郎が運転する車で、不慮の事故に遭い、命を落とした。
「雄一郎さんは、ずっと自分を責めていました。友の命も、その夢も、自分が奪ってしまったと。彼は、友を偲んで、特注のインクを作りました。友が好きだった夜空の色。だから『星屑』と名付けたのです」
栞は、瞬く灯台へと視線を向けた。
「あの人は、あなたに手紙を書かせることで、罪滅ぼしをしたかったのでしょう。恋人への未練なんかじゃありません。親友に、胸を張りたかったのです。『お前の分まで、俺は生きた。そして、こんなに立派な息子を育て上げたぞ』と。あなたという存在こそが、彼の生きた証であり、贖罪だったのです」
そして、栞は続けた。
「そして、もう一つ。きっと、あなたに思い出してほしかったのですよ。合理性や効率だけでは測れない、人との繋がりの温かさを。あの人自身が、一番それに不器用な人でしたから」
言葉を失った亮太の頬を、一筋の冷たいものが伝った。それは、丘の上の夜露のせいではなかった。父の不器用で、あまりに遠回りな愛情。長年抱き続けてきた深い後悔。その全てが、藍色のインクのように、亮太の心に深く、深く染み渡っていった。今まで憎んですらいた父の姿が、初めて愛おしいものに思えた。
第四章 最後の手紙
嗚咽が漏れた。それは、父の死に際に流せなかった涙だった。亮太は、子供のように声を上げて泣いた。栞は、何も言わず、ただ静かに彼の隣に立ち、その背中を優しく撫でていた。
やがて、涙が引いた時、亮太の心は嵐が過ぎ去った後の空のように、澄み渡っていた。彼はもう一度、万年筆を握り直した。今度は、迷いはなかった。誰かの代筆ではない。これは、紛れもなく彼自身の手紙だった。
サラサラと、ペン先が便箋の上を滑る。
『父さんへ』
彼は、天国にいる父へ向けて、言葉を紡いだ。知らなかった父の苦悩、伝えられなかった感謝、そして、これからはもう少しだけ、不器用に、誰かと繋がって生きていこうと思う、という決意。それは、父が本当に聞きたかったであろう、息子からの返事だった。
書き終えた手紙を栞に渡すと、彼女はそれを大切そうに受け取り、優しく微笑んだ。
「ええ、確かにお預かりします。雄一郎さんも、きっと空の上で喜んでいますわ」
その笑顔は、かつて父が愛した親友の妻であり、そして父の苦悩を誰よりも理解していた、聖母のような温かさに満ちていた。
東京に戻った亮太の部屋は、以前と何も変わらないはずなのに、どこか違って見えた。窓から見える無数のビルの灯りが、まるで地上に降り注いだ星屑のように、温かく瞬いている。
彼は机に向かい、再びあのモンブランの万年筆を手に取った。真っ白な便箋を一枚、静かに置く。
今度は、ずっと疎遠になっていた母に手紙を書こう。何から書き始めればいいかは、まだ分からない。それでも、書こうと思った。
父が遺してくれた『星屑』のインクは、まだ半分以上残っている。亮太は、ゆっくりと息を吸い込むと、万年筆の冷たい感触を確かめるように握りしめた。そのペン先が、これから紡がれる新しい物語の始まりを告げるかのように、白い紙面に静かに触れた。