透明な共鳴
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透明な共鳴

第一章 咳の残響

水無月響(みなづき ひびき)の世界は、咳の音で満ちていた。それは単なる呼気の乱れではない。彼女の耳には、その音に潜む声にならない声が、まるで割れたガラスの破片のように突き刺さるのだ。

「……ごめん」

「……好きだったのに」

「……さよならも、言えずに」

カフェのカウンターに立ち、豆を挽くグラインダーの音に紛れても、それらの声は響の鼓膜を震わせた。後悔、未練、諦念。人の胸の奥底で化石になった「最も言えなかった言葉」。それが、咳という発作的な音に乗って、彼女にだけ届く。誰の言葉なのかは分からない。ただ、咳をしたその人の中から零れ落ちた、魂の澱(おり)であることだけは確かだった。

街は奇妙な静けさに包まれていた。誰もが自分の額にある小さな「共鳴石」を、無意識に指でなぞる。生まれた時からそこにある、心の鏡。噂では、誰かを強く拒絶すると、その石は徐々に透明度を増すという。そして完全に透き通った時、その人は世界から認識されなくなるのだと。見えず、聞こえず、触れられもしない。存在そのものが、希薄になる。

最近、その「希薄化」が急増していた。昨日まで隣にいた同僚が、今朝には誰の記憶からも曖昧になっている。そんな話が、囁き声となって街に満ちていた。

響は、磨き上げたグラスに映る自分の額を見た。そこにある共鳴石は、かつては乳白色の穏やかな光を放っていたはずだ。だが今は、その白さに薄氷のような透明感が混じり始めている気がして、彼女はそっと目を逸らした。

第二章 空白の頁

常連だった老人が、ぱったりと店に来なくなった。いつも窓際の席で文庫本を読んでいた、優しい目の人。彼が住んでいた古いアパートを訪ねたのは、虫の知らせというにはあまりに強い胸騒ぎがしたからだった。大家に無理を言って開けてもらった部屋は、主を失った静寂に満ちていた。埃の匂いと、微かに残る古書の香り。

机の上に、一冊だけ、真新しい日記帳が置かれていた。

響は吸い寄せられるようにそれを手に取った。表紙には何も書かれていない。ページをめくると、そこにはインクの染み一つない、真っ白な頁が続くだけだった。空白の日記。これが、希薄化した人々が最後に残すものだと、響はどこかで聞いていた。書き留めようとした言葉が、世界に届く前に消えてしまった証。

指先が、その白い紙に触れた瞬間だった。

――ぞわり、と肌が粟立った。

紙の表面に、水に滲むインクのように、淡い文字が浮かび上がっては消えていくのが見えた。

『もっと、君の話が聞きたかった』

老人の咳から聞こえていた、あの断片的な言葉だった。「……聞きたかった」。その前後が繋がった時、響は息を呑んだ。これは単なる後悔ではない。誰かに向けられた、切実な願いだ。彼女の特殊な聴覚と、世界の異変が、この空白の日記の上で初めて交わった。全身を貫く戦慄と共に、響は確信した。この謎を解かなければ、自分も、この世界も、静かに消えていってしまうのだと。

第三章 加速する透明

その日を境に、響の耳に届く「声」は激しさを増した。街を歩けば、四方八方から咳の残響が押し寄せる。

「行かないで」

「ありがとう」

「愛してる」

言葉はもはや断片的ではなかった。それらは幾重にも重なり合い、悲痛なコーラスとなって響の精神を揺さぶる。まるで、世界そのものが巨大な胸を患い、苦しげに咳込んでいるかのようだった。

同時に、彼女自身の共鳴石の透明化は、恐ろしい速さで進んでいった。鏡の中の自分は、額の中央に小さな穴が空いているように見える。石の向こうの景色が、ゆらりと歪んで透けていた。

「響? ……ああ、ごめん。一瞬、そこにいないみたいに見えた」

カフェの同僚にそう言われ、心臓が凍りついた。自分の存在が、少しずつ世界から剥がれていく感覚。足元がおぼつかなくなり、自分が歩いているのか、それともただ風に流されているのかさえ、分からなくなる時があった。世界との境界線が、急速に曖昧になっていく。恐怖が、冷たい手で彼女の喉を締め付けた。

第四章 優しい拒絶

響は憑かれたように、希薄化した人々が残した「空白の日記」を探し始めた。古書店や、閉鎖された施設の遺品の中に、それらはひっそりと残されていた。日記に触れるたび、彼女は新たな言葉を読み取った。

若い女性の日記には、『あなたを傷つけたくなかった』。

中年の男性の日記には、『私がいない方が、家族は幸せになれる』。

幼い子供の日記には、『ほんとうは、さびしいって言いたかった』。

そこに刻まれていたのは、憎しみや怒りではなかった。どれもこれも、相手を深く思いやるがゆえに飲み込んだ、痛々しいほど優しい言葉たちだった。他者を傷つけまいとする沈黙。相手の幸せを願うがゆえの自己犠牲。人々は「優しい拒絶」を繰り返すことで、知らず知らずのうちに、自らの心を深い孤独の箱に閉じ込めていたのだ。

共鳴石は、その深い孤独を、「真の拒絶」と誤認していたのではないか。

人々を隔てていたのは、憎しみではない。優しさだった。その残酷な真実にたどり着いた時、響は自分が立っている地面が崩れ落ちるようなめまいを感じた。

第五章 最後の言葉

響の共鳴石は、もうほとんど完全に透明になっていた。彼女の身体は光にかざしたガラスのように透け、街の喧騒はまるで分厚い壁の向こう側のように遠く聞こえる。道行く人々は、誰一人として彼女の存在に気づかない。

孤独と絶望の中、彼女は自分の部屋に戻った。机の引き出しの奥から、一冊の古い日記帳を取り出す。それは、何年も前に亡くした母へ、どうしても書けなかった言葉を綴るための日記だった。真っ白なページに、震える指で触れる。

その瞬間、彼女自身の胸の奥から、堰を切ったように咳が込み上げてきた。

「っ、ごほっ……! お母さん……」

咳と共に、彼女自身の「最も言えなかった言葉」が、声となって溢れ出す。

「ひとりに、しないで……っ。ありがとう、……大好きだった……!」

涙と共に絞り出したその言葉は、引き金だった。世界中に満ちていた無数の「言えなかった言葉」たちが、光の奔流となって響の身体に流れ込んできた。愛、感謝、謝罪、願い。それらは後悔の澱などではなかった。伝えられなかっただけで、どれもが誰かを想う温かい光だったのだ。

彼女は理解した。これは消滅ではない。世界が、人々が失ってしまった「繋がり」を取り戻すための、変容なのだと。

第六章 共感の核

水無月響の身体が、ふわりと輪郭を失った。彼女の存在は、眩いばかりの光の粒子となり、窓から差し込む月明かりに溶けるようにして部屋中に拡散していく。痛みも、悲しみもない。ただ、無数の温かい想いに抱かれるような、不思議な安らぎがあった。

彼女はもはや、水無月響という個体ではなかった。

世界中の「言えなかった言葉」が集まってできた、一つの巨大な意志。「共感の核」そのものだった。物理的な身体を失った代わりに、彼女の意識は風となり、雨となり、光となって、世界中の隅々まで行き渡っていく。

彼女の最後の想いは、この新しい世界を繋ぐ、最初の共鳴となった。

第七章 新しい法則

響が消えた世界は、しかし静かに変わり始めていた。

街角でうずくまっていた青年が、ふと顔を上げる。隣を通り過ぎようとした女性が、なぜか足を止め、彼に手を差し伸べた。

「……大丈夫?」

「え……?」

彼らはお互いの額の共鳴石が、微かに、温かく光を放っていることに気づく。それはまるで、遠い昔に忘れてしまったメロディを思い出すような、懐かしい感覚だった。

『寂しいんだね』

『あなたも、何かを抱えているのね』

言葉にはならない想いが、心の奥底で微かに共鳴する。人々は、他者の「言えなかった言葉」を、肌で感じる微かな温もりや、胸をよぎる切ない予感として、受け取れるようになっていた。

透明になりかけていた共鳴石は、再び柔らかな乳白色の輝きを取り戻していく。人々はぎこちなく、しかし確かに、もう一度本音で繋がろうとし始めていた。

水無月響という少女を知る者は、もういない。

だが、彼女が遺した共感は、優しい雨のようにこの世界に降り注ぎ、乾いた心に静かに染み渡っていく。それは、誰かを思いやる優しさが、決して拒絶にならない世界の、新しい法則の始まりだった。

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