第一章 永遠の香り
埃一つないガラス張りのアトリエ。整然と並ぶ数百種の香料瓶は、まるで音を失ったオーケストラの楽器のようだった。調香師、霧島朔(きりしま さく)の世界は、三年前から色と音を失い、ただ無機質な秩序だけが支配していた。恋人だった水無月響子(みなづき きょうこ)が、崖から転落して死んで以来、彼の時間は凍りついている。
朔の創る香水は、かつて「感情を揺さぶる奇跡」と評された。だが今は、依頼主の要望を完璧に満たすだけの、魂のない芸術品に成り下がっていた。彼自身が、感情というものを心の奥底に封印してしまったのだから、当然だった。人間不信。完璧主義。それが今の朔を支える鎧であり、同時に牢獄でもあった。
その日、朔の元に一通の封筒が届いた。差出人の名はない。上質なクリーム色の洋封筒。何の変哲もないそれに、朔の心が僅かに波立ったのは、封を開けた瞬間に漂った、あり得ない香り 때문だった。
それは、響子の香りだった。
彼女が生前、庭で育てていた月下美人。その儚くも気高い香りをベースに、朔が彼女のためだけに創った世界に一つだけの香水。二人だけの秘密の香水、『エテルニテ(永遠)』。響子の遺品はすべて処分したはずだった。誰かが模倣しようとしても、この複雑で繊細な香りを完璧に再現できるはずがない。朔自身にしか、創れない香りなのだ。
震える指で便箋を取り出す。そこには、インクが滲みそうなほど優しい筆跡で、たった一行だけ記されていた。
『あなたを待っている』
誰だ。誰がこんな悪趣味な悪戯を。朔は便箋を握りつぶしそうになった。だが、できなかった。あまりにもリアルな『エテルニテ』の香りが、彼の記憶の扉を容赦なくこじ開ける。響子の笑い声、柔らかな手の感触、陽だまりのような温もり。忘れようと必死に蓋をしてきた思い出が、濁流のように溢れ出す。
事故死。警察はそう結論付けた。だが、本当に? この手紙は、三年間の静寂を破る不協和音。凍てついた朔の世界に投じられた、熱を帯びた謎の石だった。朔は、その石が起こす波紋から、もう逃れられないことを予感していた。
第二章 偽りの追憶
第二の手紙が届いたのは、三日後のことだった。同じ香りと筆跡。『丘の上のプラタナス、覚えてる?』
朔の脳裏に、木漏れ日が揺れる風景が蘇った。響子と初めて手を繋いだ、見晴らしの良い公園。疑念と、万に一つの可能性という名の微かな希望が、朔を突き動かした。彼はアトリエを飛び出し、車を走らせた。
公園のプラタナスは、昔と変わらずそこに立っていた。だが、待てど暮らせど、響子の姿も、差出人らしき人物も現れない。代わりに、古びたベンチの足元に、小さな野の花が手向けられているのを見つけた。響子が好きだった、忘れな草。
それから数日おきに、手紙は届き続けた。「海辺のカフェ」「星空の天文台」「雨宿りした古本屋」。すべてが、朔と響子だけが知る思い出の場所だった。朔はそのたびに、何かに憑かれたようにその場所を訪れた。しかし、いつもそこにあるのは、響子を偲ばせる小さな何か――貝殻や、古い星座早見盤――だけで、差出人の手がかりは掴めなかった。
「彼女の死について、何か心当たりはなかったんですか」
朔は、響子の大学時代の親友だったという女性、早乙女美咲に会っていた。彼女は響子と同じ植物学者で、事故の直前まで連絡を取り合っていたという。
「……響子は、新しい発見をしたって喜んでいました。絶滅したと思われていた、特殊な芳香を持つ蘭の再生に成功したって。その研究データを狙っていた人がいた、という噂は聞きましたけど……」
美咲は伏し目がちに語る。その瞳の奥に、何かを隠しているような怯えの色が見えた。
響子の死は、本当にただの事故だったのか。手紙の主は、朔に何を伝えようとしているのか。謎は深まるばかりだった。響子の研究データ。朔の脳裏に、その言葉が引っかかった。
人を信じることをやめた朔が、今や顔も見えない差出人の言葉に導かれ、過去を彷徨っている。この行動が、どれほど矛盾していることか。だが、彼にとって『エテルニテ』の香りは、響子そのものだった。彼女が呼んでいるのなら、行かないわけにはいかなかった。たとえそれが、残酷な罠だとしても。
第三章 砕かれた真実
最後の手紙に記されていたのは、『始まりの場所』という言葉と、古い埠頭の住所だった。そこは、朔が響子に初めて自作の香水をプレゼントした、思い出の場所。朔は覚悟を決めて、指定された時間、夜の埠頭へと向かった。
潮の香りに混じって、微かに『エテルニテ』が香る。闇の中に佇んでいたのは、響子ではなかった。使い古されたトレンチコートを着た、初老の男だった。
「あなたが、霧島朔さんですね」
男は伊吹吾郎と名乗った。元刑事だという。
「なぜ、あなたがこの香りを……響子のことを……」
朔の詰問に、伊吹は静かに首を振った。「手紙は、私が書きました。彼女の遺品にあった日記を参考にして」。彼の口から語られた事実は、朔の世界を根底から破壊するのに十分すぎるほど、衝撃的だった。
「水無月響子さんの死は、事故ではありません。殺人です」
伊吹は、当時響子の事故を担当した刑事だった。彼は、現場の状況や、響子の交友関係から、事件性を疑っていた。特に、響子の研究成果を盗み、自分の名で発表しようとしていた同僚の教授、榊という男に疑いの目を向けていた。
「響子さんは、榊の不正に気づいていた。彼を告発しようとして、口封じのために崖から突き落とされた。私はそこまで突き止めましたが……榊は政界にも太いパイプを持つ権力者でした。上からの圧力で捜査は打ち切られ、私は警察を追われたのです」
伊吹の顔には、深い無念が刻まれていた。彼は、響子の遺品の中から、朔に宛てられた日記を見つけたのだという。そこには、彼女の朔への深い愛情と共に、榊への恐怖が綴られていた。
「法で裁けないのなら、せめて真実だけでも、あなたに伝えたかった。彼女の無念を晴らしてやりたかった。だが、心を閉ざしたあなたに、どう伝えればいいか分からなかった。だから、彼女の日記を頼りに、彼女の言葉で、あなたを導くしかなかったのです」
伊吹が差し出した古びた日記帳。朔はそれを受け取ることさえできず、その場に立ち尽くした。
響子は、殺された。
愛する人が、誰かの醜い欲望のために命を奪われた。その事実が、雷となって朔の全身を打ち抜いた。凍てついていた感情が、激しい怒りと憎しみとなって、心の奥底から噴き上がる。目の前が真っ赤に染まるようだった。榊……その男を、この手で。復讐という黒い炎が、朔の魂を焼き尽くそうとしていた。
第四章 メモワール
アトリエに戻った朔は、伊吹から受け取った響子の日記を、震える手で開いた。ページをめくるたびに、『エテルニテ』の残り香と共に、響子の優しい声が聞こえてくるようだった。そこには、榊への恐怖も綴られていたが、それ以上に、朔への愛と、未来への夢が溢れていた。
そして、最後の日付のページ。朔はそこに、信じられない一文を見つけた。
『もし、私に何かあっても、朔は復讐なんて考えないで。あなたのその手は、誰かを傷つけるためじゃなく、美しい香りで世界を彩るためにあるのだから。私の分まで、たくさんの人を幸せにして。それが、私の最後の願い。あなたの創る香りが、私の生きた証になる』
涙が、インクの文字を滲ませた。響子は、すべてを予感していたのかもしれない。そして、それでもなお、朔の未来を案じていた。復讐の炎に身を焦がすことではなく、彼の才能で人々を幸せにすることを、心から願っていたのだ。
「……ああ、響子……君は、なんて……」
朔は床に崩れ落ち、声を上げて泣いた。三年分の孤独と悲しみ、そして、響子のあまりにも深く、大きな愛に。
数週間後。朔のアトリエに、再び明かりが灯った。彼は、憑かれたように香料と向き合っていた。だが、その表情に以前のような無機質さはない。そこには、確かな意志と、温かい光が宿っていた。
彼は、新しい香水を創っていた。復讐のためではない。響子の願いに応えるために。
完成した香水は、小さなガラス瓶の中で、淡い琥珀色に輝いていた。トップノートは、月下美人の切なくも気高い香り。それは響子の記憶。ミドルノートには、ベルガモットやネロリの、未来を照らす光のような明るい香り。そしてラストノートには、サンダルウッドやムスクの、すべてを包み込むような深く、温かい香りが続く。
悲しみと、喜び。絶望と、希望。過去と、未来。そのすべてが溶け合った、複雑で、どこまでも優しい香り。
朔は、その香水に『メモワール(記憶)』と名付けた。
彼は完成したばかりの『メモワール』を一吹きしたハンカチを手に、丘の上の公園を訪れた。プラタナスの木の下で、空を見上げる。風が吹き、新しい香りが優しく広がった。それは、響子への追憶であると同時に、彼女の死を乗り越え、未来へと歩き出すための、朔自身の誓いの香りだった。
「これが、僕の答えだよ、響子」
彼の呟きは、青い空に吸い込まれていった。犯人が法で裁かれるかどうかは、もう彼にとって最も重要なことではなかった。響子の魂は、彼の創る香りの中で永遠に生き続ける。そして、その香りは、これから多くの人々の心を癒し、幸せを運んでいくだろう。
失われた時間を取り戻すことはできない。だが、その記憶を抱きしめ、新しい未来を紡いでいくことはできる。朔の心には、三年前には想像もできなかった、静かで、しかし確かな希望の光が灯っていた。