白昼の彫像
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白昼の彫像

第一章 遅れた視界

俺の視界は、いつも世界より一秒半ほど遅れている。カップから滑り落ちるコーヒーの雫、階段を踏み外す通行人の一瞬の浮遊感、それらが網膜に焼き付く頃には、現実はすでに次の局面へと移ろっている。目の前で起こるすべてが、微かな既視感を伴う未確認の過去として、脳に刻まれるのだ。それは予知ではなく、ただの遅延した報告書に過ぎない。

今朝も、テレビの液晶画面に映るニュースキャスターの口の動きと、スピーカーから流れる音声が、奇妙にずれて俺の感覚を揺さぶっていた。

「……相次ぐ『無色体』の崩壊現象ですが、専門家はこれを『嘘の浄化』と呼び、社会の健全化を示すものとして歓迎の意を表明して……」

『無色体』。嘘を重ね、その存在の色彩を失った者たちの成れの果て。肌は透明になり、衣服や髪さえも質感だけを残して透き通る。まるで精巧なガラス細工か、あるいは氷の彫刻のような人々。彼らが、ここ数週間、夜明けと共に砂のように崩れ落ちているという。街は、その現象をまるで厄介払いができたかのように祝っていた。嘘つきが消え、世界はより真実に近づくと、誰もが信じていた。

俺はテレビを消し、窓の外に目をやった。崩壊現場の近くを通ると、乾いた砂の匂いが風に乗って鼻腔をくすぐることがある。それは、誰かが語った膨大な嘘の、あまりにも儚い残骸の香りだった。俺の体には、幸いにも色が残っている。大した嘘など、ついた覚えもないのだから。

第二章 無色の欠片

「また、ぼんやりしてる。世界から置いていかれてるわよ、カイ」

カフェのテーブルの向こうで、リナが笑った。彼女の指先が、ほんの少しだけ透けている。ジャーナリストである彼女は、取材のために小さな嘘を重ねる癖があった。それが彼女の仕事であり、彼女なりの処世術なのだろう。

「お前こそ、少し透明度が増したんじゃないか?」

「うるさい。これは必要経費よ」

そう言ってリナは、小さな布袋から手のひらに何かを取り出した。それは、ガラスのように透き通った、鋭いエッジを持つ欠片だった。

「『無色体』の残骸。彼らはこれを『真実の欠片』なんて呼んでるけど、とんでもない」

彼女はそう囁くと、テーブルの上のランプシェードを傾け、欠片に光を集中させた。

すると、信じられない光景が広がった。欠片の内部に、立体的な映像が浮かび上がったのだ。葉巻を燻らせ、肥満した政治家が「国民を心から愛している」と演説している。しかし、そのすぐ後に、彼は側近に向かって唾を吐き捨てるように言った。「愚かな家畜どもめ」。

映像はほんの数秒で掻き消え、欠片はただの透明な塊に戻った。

「一度だけ。その人物が最も深く隠していた嘘を映し出すの。そして二度と光らない」

リナは欠片を布袋に戻しながら、溜め息をついた。「これが、浄化された世界の真実だなんて、笑えない冗談だわ」

彼女の言葉が、俺の遅れた聴覚に重く響いた。

第三章 砂の予兆

その夜、悪夢にうなされた。いや、それは夢ではなかった。俺の、一秒半遅れの現実だった。

自室のベッドから起き上がり、月明かりに照らされた自分の手を見つめる。その瞬間、視界の端で、俺の指先が――さらさらと、音もなく崩れ落ちる光景を見た。白い砂の粒子が、シーツの上に小さな山を作る。既視感。しかし、それはまだ起こっていないはずの過去。

慌てて現実の自分の手に視線を戻す。そこには、血の通った、確かな肉体があった。崩れてなどいない。だが、あの感覚は知っている。遅れてやってくる現実の予告。俺は、語ったはずのない嘘の代償を、支払わされようとしているのか?

全身から汗が噴き出す。心臓が嫌な音を立てて脈打つ。俺は嘘をついていない。少なくとも、体が無色になるほどの大嘘など。なぜ俺が?得体の知れない恐怖が、足元から這い上がってくるようだった。俺は震える手でリナに電話をかけた。彼女の少し眠そうな声を聞くまで、息をすることさえ忘れていた。

第四章 嘘の博物館

リナに連れられてやってきたのは、街外れの丘に立つ、廃墟と化した石造りの建物だった。かつて『嘘の博物館』と呼ばれた場所。社会から隔絶された完全な『無色体』たちが、生きた彫刻として展示されていたという、狂気の施設だ。

ひんやりとした埃っぽい空気が、俺たちの肺を満たす。巨大なホールには、崩れ落ちた台座だけが虚しく点在していた。彼らは皆、ここで砂になったのだ。

「いたわ」

リナの声に導かれ、最奥の部屋へ向かう。そこには、無数のケーブルとガラス管に繋がれた、巨大な球形の装置が鎮座していた。そして、その制御盤の前に、一人の『無色体』が座っていた。いや、座っていたはずの、人型の砂の山があった。

「アリア……最初の『無色体』になった哲学者よ」

リナが制御盤の記録を読み解いていく。その顔がみるみる青ざめていくのが、俺の遅れた視界にもはっきりと映った。

「なんてこと……カイ、これは……」

彼女が指差した画面に表示された文字列を、俺はゆっくりと読んだ。

『浄化対象定義:虚偽。欺瞞。そして、論理的真実に基づかない、全ての人間的感情』

「感情……?」

「そうよ!愛情、希望、悲しみ、怒り……アリアは、そういった不確かで非論理的な感情のすべてを、世界を惑わす『嘘』だと定義したの!この装置は、嘘つきを消しているんじゃない。感情を持つ人間から、その根源を奪っているんだわ!」

リナが絶句した。俺は、自分の指先が崩れた、あの幻視の意味を悟った。

俺がリナに対して抱いていた、一度も言葉にしたことのない、ただ胸の奥で温め続けてきた想い。それこそが、この世界では裁かれるべき『嘘』だったのだ。

第五章 白い世界

装置を止める術はなかった。アリアの崩壊と共に、システムは最終工程を完了し、永遠の静寂に沈んだ。その瞬間、博物館の外から、割れんばかりの歓声が聞こえてきた。最後の一人の『無色体』が消え、世界はついに『真実』のみで満たされたのだと、人々は祝杯をあげていた。

だが、俺の世界は、そこから静かに色を失い始めた。

隣に立つリナの顔から、血の気が引いていく。いや、違う。彼女の頬の赤み、瞳の不安の色、その全てが、まるで絵の具を洗い流すように抜け落ちていくのだ。彼女が俺を見つめ返す。その口元は微笑みの形を作っているが、そこには何の感情も乗っていなかった。ただの筋肉の収縮。それだけだった。

街の歓声が、意味をなさない音の集合体に変わる。花の香りは消え、風が肌を撫でる触覚だけが生々しく残る。世界が、白い彫刻で満たされた巨大な美術館へと変貌していく。人々は感情を失い、ただ決められた役割を果たすかのように動き、事実だけを淡々と口にする。

「空は晴れている」「気温は二十度だ」「我々はここにいる」

真実だけの世界。それは、かくも空虚で、静かで、冷たい場所だった。

第六章 彫像の静寂

俺の、一秒半遅れの視界も、もはや何の役にも立たなかった。過去も現在も、すべてが等しく無機質な『白』に塗り込められていたからだ。

リナに触れようと手を伸ばす。指先に感じたのは、温もりではなく、ひんやりとした石膏の感触だった。彼女の瞳は、美しいビー玉のように澄んでいるだけで、もう俺の姿を映してはいなかった。

俺はふと、近くのショーウィンドウに目をやった。ガラスに映る自分の姿。そこに立っていたのは、俺の形をした、表情のない白い彫像だった。感情という名の色彩をすべて剥ぎ取られた、ただの存在。

ああ、そうか。嘘とは、感情とは、自分と世界を繋ぐための、不完全で、けれど愛おしい絵の具だったのだ。喜びを伝えるための大袈裟な笑顔も、悲しみを隠すための強がりの言葉も、愛を告げられない沈黙さえも、すべてが世界を彩るための『嘘』だった。

視界が、完全に白に染まる。世界の輪郭が溶け、俺という個体もまた、この巨大な彫刻群の一部として吸収されていく感覚。

意識が途切れる最後の瞬間、脳裏に微かに蘇ったのは、リナの指先が透けているのを見て、密かに心を痛めた、あの感情の残光だった。

それは、この真っ白な世界で失われた、最後の色だったのかもしれない。


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