蒼き幻影の鎮魂歌

蒼き幻影の鎮魂歌

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第一章 幻影の呼び声

深い夜の帳が降りる頃、柊野蓮の視界は、常に同じ女の顔で満たされた。それは、鮮烈な色彩を失ったモノクロームの世界に、唯一はっきりと浮かび上がる、奇妙なほどに美しい幻影だった。長い黒髪が頬にこぼれ、切れ長の瞳は憂いを帯び、いつも何かを訴えかけるかのように蓮を見つめていた。しかし、その声を聞くことはできない。蓮は精神安定剤を水で流し込み、深呼吸を繰り返す。これはいつものことだ。数年前の、名前すら思い出せないほどの大きな「何か」を境に、蓮は不安と焦燥に苛まれるようになり、古賀医師から処方された鎮静剤を欠かせなくなっていた。薬のおかげで、幻影は時折現れるものの、感情の波は鎮められ、何とか日常を保てていると信じていた。蓮は写真家だ。心を落ち着かせるため、風景やモノクロの抽象画のような写真を撮り続ける日々を送っていた。

その夜も、蓮は幻影に悩まされ、鎮静剤を飲んだ後、ようやく訪れた微睡みの中で、不意に視界の端で光が瞬くのを感じた。それはテレビから漏れる光だった。いつもは消しているはずのテレビが、まるで彼の幻影に呼応するように、勝手についていたのだ。画面にはニュース速報のテロップが流れている。「未解決失踪事件、新たな情報」。蓮の心臓が不規則なリズムを刻み始めた。そして、画面中央に映し出された写真を見た瞬間、彼の呼吸は止まった。

そこに映っていたのは、彼の幻影と寸分違わぬ女の顔だった。篠宮翠。数ヶ月前に忽然と姿を消した女性。蓮は、自分が狂っているのだと本能的に理解した。幻覚が現実とリンクするなど、ありえない。脳が作り出した虚像が、なぜ今、世間の事件と結びつくのか。冷たい汗が背筋を伝った。しかし、一方で、彼の奥底に眠っていた何かが、確かに呼び覚まされるような感覚があった。この幻影は、ただの病的な妄想ではないのかもしれない。もしそうなら、一体なぜ、彼女は蓮の前に現れるのか?

翌日、蓮は動揺を隠せないまま古賀医師の元を訪れた。「先生、あの、幻覚の、彼女が、テレビに出ていました。未解決の失踪事件の被害者として……」蓮は震える声で告げた。古賀医師は、いつも通りの穏やかな表情で蓮の話を聞いた。「柊野さん、それは薬の効果が強く出過ぎているのかもしれませんね。鎮静剤は時に、夢や妄想と現実の境界を曖昧にすることがあります。無理もないことです。精神的な負担が大きいのでしょう。少し薬の量を増やしましょうか」古賀医師の声は、蓮の不安をなだめるように、ゆっくりと、しかし有無を言わせぬ響きを持っていた。古賀医師の言葉は、蓮の心を再び日常の檻に閉じ込めるようだった。だが、蓮の心はすでに、その檻を破るための小さな亀裂を見つけてしまっていた。彼は、主治医の言葉に疑問を抱きながらも、その場では従順に頷くしかなかった。しかし、心の中では、すでに答えの出ない謎を解き明かす旅に出ることを決意していた。この幻影の女性、篠宮翠が、蓮自身の過去とどう結びついているのか、その真実を知らずにはいられなかった。

第二章 過去への手がかり

蓮は、古賀医師の診察室を出た瞬間から、鎮静剤への不信感を募らせていた。果たしてこの薬は、本当に自分の心を安定させているのか? それとも、何か別の目的があるのか? 彼の内側で、長らく鎮まっていた探究心が、ゆっくりと目を覚まし始めた。

まず、蓮は篠宮翠について調べ始めた。彼女が働いていたという、都心から少し離れた小さなカフェを訪ねた。そこは、温かい木目調のインテリアで統一された、穏やかな雰囲気の店だった。蓮は客として席につき、翠の同僚だったという女性にそれとなく話を聞いた。「篠宮さんは、とても明るくて、優しい人でした。でも、失踪する少し前から、何かに怯えているような様子で……。」同僚は眉をひそめた。「よく、『誰かに見られている気がする』って言っていました。それに、誰かの名前を口にするたびに、顔色が悪くなって……」

次に、翠が住んでいたというアパートへ向かった。古い集合住宅の三階、角部屋。鍵はかけられていたが、蓮はまるで過去の記憶を辿るかのように、その扉の前に立ち尽くした。脳裏に、鍵が開く音、室内から漏れる仄暗い光、そして、床に散らばった写真の断片のような映像がフラッシュバックする。心臓が激しく脈打つ。それは、幻覚なのか、それとも、失われた記憶の断片なのか。強烈な既視感と、胸を締め付けるような不安が蓮を襲った。彼は自分のポケットから、小さなデジカメを取り出し、そのアパートの外観を何枚か撮影した。ファインダー越しに見ることで、感情と現実の間にフィルターを一枚挟むような、そんな落ち着きを取り戻そうとしたのだ。

アパートを後にし、蓮は路地裏のベンチに座り込んだ。頭痛がひどい。幻覚が、より鮮明に、より頻繁に現れるようになっていた。幻覚の翠は、彼の目の前で何かを指差している。それは、瓦礫が山と積まれ、苔むしたコンクリートの壁が続く、見覚えのない廃工場のようだった。蓮は、この幻覚がただの精神的な乱れではないことを確信し始めていた。それは、翠からのメッセージなのではないか? 現実の捜査と、幻影が示す道が、奇妙なシンクロを見せ始めたのだ。

蓮は、鎮静剤の服用量を減らし始めた。すると、身体が鉛のように重くなり、倦怠感と吐き気、そしてこれまで感じたことのない激しい不安感が彼を襲った。離脱症状だ。しかし、その苦痛と引き換えに、幻影はよりはっきりと、そして、彼の思考はより明晰になっていくのを感じた。古賀医師の言葉が、ただの安心させるための言葉ではなかったのではないか。薬は、彼を真実から遠ざけるためのものだったのではないか、という疑念が、具体的な形を帯び始めていた。

第三章 処方された偽りの現実

幻覚が指し示す廃工場は、都心から電車を乗り継ぎ、さらにバスと徒歩でたどり着くような、忘れ去られた場所だった。蓮は荒涼とした風景の中、錆びついた鉄骨と砕け散ったガラスの破片を踏みしめながら進んだ。埃と湿気が混じった空気が、彼の肺を満たす。本当にこんな場所に、翠が残した手がかりがあるのだろうか? 不安と期待が交錯する中、彼は幻覚の示す方向へと足を進めた。

廃工場の一角、崩れかけた壁の陰に、何か古いものが隠されているのを見つけた。それは、防水シートに包まれた、小さな日記だった。表紙には、見慣れた翠の筆跡で「私の記録」と書かれている。蓮は震える手でそれを開いた。

日記には、翠が何者かに監視され、命の危険を感じていたことが克明に綴られていた。「最近、妙な視線を感じる。誰かに後をつけられているような気がするの。特に、あの病院を出てから……」「彼の言うことを聞くべきだったのか。でも、それは間違っている。絶対に許せない。」日記を読み進めるうちに、蓮の心臓は激しく打ち鳴らされた。そして、頻繁に登場する「先生」という人物。その「先生」が、蓮の主治医である古賀医師であることに気づいたとき、彼の世界は音を立てて崩れ落ちた。

さらに、日記には衝撃的な事実が書かれていた。古賀医師が翠に対して、蓮に処方しているのと全く同じ「鎮静剤」を「ストレス軽減のため」と称して処方していたのだ。そして、その薬が記憶を曖昧にし、特定の記憶を植え付ける副作用を持つ可能性が示唆されていた。「この薬は、私から何かを奪っている気がする。まるで、特定の記憶だけが薄れていくような……。そして、あの恐ろしい幻影。私は一体、何を見せられているの?」

蓮は日記から目を離すことができなかった。最後のページには、震える文字でこう書かれていた。「私の記憶を消し去ろうとしている、あの男に気をつけろ。そして、あの薬は、決して飲んではいけない。あれは真実を歪める毒だ。蓮……あなたが、私を、忘れてしまわないように……」

「蓮……」その文字を見た瞬間、蓮の頭の中で何かが弾けた。彼に「蓮」と呼びかける翠の幻影が、かつて彼にとってかけがえのない存在だったことを、強烈に思い起こさせる。古賀医師が蓮に幻覚を見せていたのは、蓮が翠と親密な関係にあったからだ。そして、蓮が抱えていた「トラウマ」とは、翠が巻き込まれた事件と、彼自身が関わっていたことだった。古賀医師は、蓮を真実から遠ざけるために、彼の記憶を操作し、幻覚を見せる薬で精神的に追い込み、そして、翠の幻影を彼自身の罪悪感と結びつけることで、事件の真相から目を背けさせていたのだ。蓮の価値観は根底から揺らいだ。信じていた医師は、自分を欺き、愛する人の記憶まで奪っていた。目の前に広がる現実が、偽りだったと知ったときの絶望は、筆舌に尽くしがたかった。

第四章 真実の覚醒

蓮は、日記を握りしめたまま廃工場を後にした。身体の底から湧き上がる怒り、そして、欺かれていたことへの深い悲しみが彼を支配した。古賀医師のオフィスへと急ぐ道中、彼の脳裏には、過去の断片が激しい津波のように押し寄せた。翠との出会い、たわいのない会話、初めてのキス、そして、共に夢見た未来。その全てが、古賀医師の「薬」によって歪められ、埋もれてしまっていたのだ。彼の「トラウマ」の正体は、翠が研究していた「記憶操作技術」が悪用される可能性に気づき、それを阻止しようとしていた彼女を、蓮自身が救い出すことができなかったという、苦い後悔だった。古賀医師は、その技術を悪用し、製薬会社の不正を隠蔽しようとしていたのだ。

古賀医師のクリニックに到着した蓮は、もはや躊躇しなかった。正面から受付を突破し、古賀医師の診察室のドアをこじ開けた。古賀医師は、診察室の奥にある書斎のような空間で、PC画面に向かっていた。画面には、複雑なデータと、見覚えのある「記憶操作技術」の schematicsが映し出されている。蓮が入ってきたことに気づき、古賀医師はゆっくりと振り返った。その顔には、いつもの穏やかな表情ではなく、冷酷な研究者の顔が浮かんでいた。

「柊野さん、どうしました? あなたの症状は、まだ安定していないようですね。薬の量を増やしすぎたかもしれません」古賀医師は、冷静な声で蓮の心理を揺さぶろうとする。

「もう二度と、その薬は飲みません」蓮は日記を古賀医師の机に叩きつけた。「僕の記憶を、翠の記憶を、弄んだのはあなただったんですね!」

古賀医師は日記を一瞥し、顔色一つ変えずに言った。「残念だ。もう少しで、全てを完璧に隠蔽できるはずだったのに。君は余計なことをしてくれた」

古賀医師は、翠の研究が悪用されることに気づき、彼女を排除しようとしたこと、そして、翠と親しかった蓮の記憶を操作し、彼女の死の真相から遠ざけようとしたことを、あっさりと認めた。幻覚を見せていたのは、翠の潜在意識からのメッセージと、古賀医師自身の操作が入り混じった結果だったのだ。「あの薬は、被験者の深層心理を刺激し、都合の良い幻覚を見せることができる。君には翠の幻覚を見せ、彼女が死んだと信じ込ませることで、君の精神をコントロールできると考えた」

蓮は、古賀医師が翠の研究データ、つまり不正の証拠を、どこかに隠していることを知っていた。日記にそのヒントが書かれていたのだ。「翠は、重要なデータを、あなたのアシスタントの記憶領域に隠した。それが彼女からの最後のメッセージだ!」蓮は、古賀医師が研究室の奥に隠していた、小型のデータストレージを見つけ出した。それは、古賀医師が翠のデータを改ざんしようとしていた痕跡と、不正の全ての証拠が含まれていた。

蓮は、そのデータストレージを手に、すぐに警察に通報した。数時間後、古賀医師は逮捕され、彼の悪行が白日の下に晒されることとなった。

第五章 記憶の彼方へ

事件は解決した。古賀医師は逮捕され、製薬会社の不正も明るみに出た。しかし、蓮の心は、決して平穏ではなかった。愛する翠との幸せな記憶と、薬によって歪められ、失われていた記憶、そして、真実に気づくまでの間の苦悩と絶望。その全てが、彼の心に深く刻み込まれていた。

蓮は、二度と鎮静剤を服用しなかった。薬の離脱症状はつらかったが、彼は真実を受け入れ、自分の足で歩き出すことを選んだ。彼の精神的な回復には、途方もない時間がかかるだろう。それでも、彼は逃げない。過去と向き合い、未来を築くこと。それが、彼に残された、そして彼が選んだ道だった。

写真家としての蓮は、事件を経て大きく変化した。彼は、古賀医師が関わっていた不正と、彼のような犠牲者が二度と生まれないよう、社会に問いかけるドキュメンタリー写真を撮り始めた。彼のレンズは、もはや風景や抽象画だけを捉えることはない。真実の光と影、人間の心の深淵を映し出すようになった。彼の写真は、言葉を超えたメッセージを人々に伝え、静かに、しかし力強く人々の心に訴えかけた。

数ヶ月後、蓮は、翠が最も好きだった、あの青い花――忘れな草――を携え、彼女の墓前に立っていた。墓石に刻まれた翠の名前を見つめ、彼は静かにカメラを構える。ファインダー越しに広がる空は、どこまでも澄み渡り、彼を包み込む風は優しく、まるで翠がすぐそばにいるかのようだった。

彼のファインダーには、もはや過去の幻影は映らない。そこには、翠との温かい思い出、そして、未来へ向かう確かな光が映し出されている。記憶とは何か。真実とは何か。薬によって操作された記憶、失われた愛、そしてそれでも前に進もうとする人間の強さ。蓮は、この問いへの答えを、写真を通して探し続けるだろう。そして、彼の心の中で、翠は永遠に生き続ける。決して消えることのない、彼の蒼き幻影の鎮魂歌として。

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