残響のエウフォリア

残響のエウフォリア

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第一章 触れられない真実

古書の黴とインクが混じり合った匂いが、水月湊(みなつき みなと)の世界のすべてだった。彼の営む小さな古書店『言の葉の森』は、街の喧騒から切り離された静寂の聖域であり、同時に、彼が自身を閉じ込めるための精巧な鳥籠でもあった。本棚の隙間から差し込む午後の光が、宙を舞う埃を金色に照らし出す。その光景はひどく穏やかで、一週間前から彼の世界に空いた巨大な穴を、まるで存在しないかのように糊塗していた。

恋人、茅野沙耶(かやの さや)が消えた。

警察は「家出の可能性が高い」という言葉を繰り返すばかり。部屋に争った形跡はなく、鍵もかかったまま。ただ、彼女の姿だけが煙のように消えていた。湊は、自分が持つ忌まわしい能力を使えば、何か糸口が見つかるかもしれないことを知っていた。

彼には、物に触れると、それに最後に触れた人間の「最も強烈な感情」を追体験してしまう、サイコメトリーの一種があった。それは映像や音声を伴わない、純粋で暴力的な感情の奔流だ。見知らぬ人間の憎悪、嫉妬、絶望が、冷たい奔流となって神経を駆け巡る感覚を、彼は呪いのように感じていた。だからこそ、古書を扱った。何十年、何百年という時を経て、無数の人々の手を渡り歩いた本は、個人の強い感情が薄れ、物語そのものの静かな重みだけが残っているからだ。

しかし、沙耶の物は違う。彼女の息遣いが、温もりが、まだ生々しく宿っている。

彼女がいなくなってから七日目の夜。湊は、月明かりだけが差し込む彼女の部屋に、亡霊のように立っていた。ドレッサーの上に置かれた、アールデコ調の小さな手鏡。沙耶がいつも愛おしそうに磨いていたものだ。湊は震える指を伸ばす。触れたくない。彼女の恐怖や苦痛を感じてしまったら、自分は正気でいられるだろうか。だが、何もしないままでは、狂ってしまいそうだった。

覚悟を決め、冷たいガラスと銀の縁に指先が触れた瞬間――激しい感情の波が、彼の意識を飲み込んだ。

それは、想像していた絶望ではなかった。恐怖でも、悲しみでもない。

脳髄が焼き切れそうなほどの、圧倒的な『歓喜』。

まるで、長年の束縛から解き放たれ、どこまでも広がる青空へ羽ばたいていくような、突き抜けるような高揚感。湊は思わず鏡を取り落とし、床に膝をついた。これはなんだ。沙耶の感情なのか? 彼女は、この部屋から消える瞬間、こんなにも喜んでいたというのか? 謎は深まるどころか、より黒く、粘着質なものへと姿を変え、湊の心に絡みついてきた。

第二章 偽りの記憶

手鏡から感じた『歓喜』は、始まりに過ぎなかった。湊は半ば自傷行為のように、部屋に残された沙耶の遺品に次々と触れていった。

彼女が書きかけの小説を綴っていた万年筆からは、重荷を下ろしたような深い『安堵』が流れ込んできた。ベッドサイドで止まっているレコードプレーヤーの針に触れると、鳥籠から解き放たれた鳥のような、晴れやかな『解放感』が心を打った。窓辺に置かれた小さな多肉植物の鉢からは、未来への希望に満ちた、穏やかな『期待』が伝わってきた。

恐怖も、苦痛も、絶望も、どこにもない。そこにあるのは、ポジティブで、光に満ちた感情の残響ばかり。湊の中で、最悪の仮説が形を取り始めていた。沙耶は誘拐されたのではない。誰かに連れ去られたのでもない。彼女は、自らの意思で、この部屋を、そして―――水月湊という人間から、逃げ出したのだ。

「俺から、解放されて、喜んでいるのか……?」

絞り出した声は、埃っぽい部屋の空気に溶けて消えた。湊はソファに崩れ落ち、頭を抱えた。二人で過ごした日々の記憶が、次々と蘇る。古書店のカウンターで隣に座り、同じ本を読みふけった午後。雨の日に一つの傘で肩を寄せ合い、水たまりを避けて歩いた道。彼女が淹れてくれたコーヒーの、少し苦くて優しい香り。それらすべてが、色褪せた嘘のフィルムのように思えてくる。彼女は、隣で笑いながらも、心の中ではこの息苦しい生活からの解放を夢見ていたのだろうか。自分のこの薄気味悪い能力が、無意識のうちに彼女を追い詰めていたのだろうか。

疑念は毒のように心を蝕んでいく。沙耶が残した温かい感情の残響は、湊にとっては、彼の存在そのものを否定する、冷たいナイフのようだった。愛していたはずの女性が、自分との決別を心から喜んでいたという事実。それは、どんな物理的な暴力よりも深く、彼の魂を傷つけた。彼はもう、自分の記憶さえも信じることができなくなっていた。世界から色が失われ、すべての音が遠のいていく。彼は、沙耶が作り出した優しい嘘の世界で、たった一人、取り残されたのだ。

第三章 幸福の在り処

絶望の淵を彷徨い、数日が過ぎた。湊は店のシャッターを下ろしたまま、沙耶の部屋の隅で、ただ時が過ぎるのを待っていた。もう何も探す気力はなかった。真実を知ることは、ただ傷口を広げるだけだと悟ったからだ。

その時、ふと視界の隅に、クローゼットの奥に押し込まれた小さな木箱が映った。何の変哲もない、桐の箱。そういえば、沙耶が幼い頃から大切にしている「宝箱」だと、笑いながら話していたのを思い出した。彼女は一度も、その中身を湊に見せてくれたことはなかった。

もう、どうでもいい。すべてが終わったのだから。

湊は、まるで憑き物が落ちたかのように静かな心で、その箱に手を伸ばした。これが最後だ。彼女の最後の秘密に触れて、この悪夢を終わらせよう。

指が、乾いた木肌に触れる。

次の瞬間、これまで経験したことのない、凄まじい感情の津波が彼を襲った。

それは『歓喜』や『安堵』といった単一の感情ではない。長年の苦しみから解放された者の嗚咽。無実が証明されたことへの感謝。失われた時間を取り戻すかのような、未来への祈り。それらすべてが渾然一体となった、涙に濡れた、熱い、熱い『幸福感』だった。

そして、その感情の奔流の向こうに、初めて、湊は断片的なイメージを見た。

薄暗い部屋。安物のスーツを着た、痩せた初老の男性。その男性が、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、誰かの手を握りしめている。そして、絞り出すような声で言った。

「ありがとう……本当に、ありがとう……水月さん……」

水月さん?

そのイメージの中の「誰か」が見ている光景、その視点、その感情の在り処は―――紛れもなく、湊自身だった。

全身に鳥肌が立った。脳内で、バラバラだったピースが恐ろしい速度で組み上がっていく。

この初老の男性は、立花という人物だ。十年前に起きた殺人事件の犯人として服役していたが、冤罪の可能性が高く、沙耶がジャーナリストの卵として、彼の支援活動にのめり込んでいた。そして湊もまた、古書の知識を活かして、当時の新聞や雑誌から事件の矛盾点を洗い出し、沙耶を手伝っていたのだ。つい二週間前、新たな証拠が見つかり、立花さんの再審が決定した。

湊が手鏡や万年筆から感じた感情は、沙耶のものではなかった。

沙耶は、自分の身に危険が迫っていることを予期していたのだ。そして、自分が消えた後、湊が必ずこの能力を使うことを見越していた。だから彼女は、再審決定の報告に行った際、立花さんに自分の私物を託したのだ。「これを、湊さんに渡してください」と。

立花さんは、沙耶の言葉通り、湊への感謝を胸に、彼女の遺品一つ一つに触れた。冤罪が晴れることへの『歓喜』を。長年の重圧からの『解放感』を。弁護士から「ありがとう」と言われた瞬間の『安堵』を。それら全てを、沙耶は湊へのメッセージとして、彼に残そうとしたのだ。

絶望の中にいるであろう自分を励ますために。お前がやってきたことは無駄じゃなかったと、伝えるために。

それは、沙耶が命を懸けて遺した、最後のラブレターだった。

第四章 君の残響と共に

「……そうか。そうだったのか、沙耶」

湊の頬を、熱い雫が伝った。それは自己嫌悪の涙ではなく、愛されていたことを知った安堵の涙だった。彼女は逃げたのではなかった。自分を信じ、自分の能力さえも理解し、その上で、最後の最後まで戦っていたのだ。

湊は立ち上がった。立花さんの冤罪事件。その裏にこそ、沙耶を消した真犯人がいる。沙耶が残してくれた、この熱い感情のバトンを、ここで終わらせるわけにはいかない。

彼は、沙耶と集めた事件資料を、埃の中から引っ張り出した。立花さんの『幸福』の残響を道標に、もう一度、ゼロから事件を洗い直した。以前は見過ごしていた小さな記事の矛盾。証言の僅かな食い違い。それらが、沙耶が遺したメッセージと合わさる時、一本の黒い線となって、ある人物を指し示した。事件の真犯人は、当時の捜査を担当し、証拠を捏造してまで立花さんを犯人に仕立て上げた、元刑事だった。

湊が警察に提供した情報は、決定的な証拠となった。元刑事は逮捕され、すべてを自供した。再審の動きを嗅ぎつけ、口封じのために沙耶に接触し、殺害に至ったのだと。

事件は解決した。だが、もちろん、沙耶が戻ってくることはない。

数週間後、湊は古書店『言の葉の森』のカウンターに立っていた。店のシャッターは、再び上げられている。窓から差し込む光は、以前と同じように埃をきらきらと照らしているが、もはやその光景は、彼にとって鳥籠ではなかった。

ふと、彼は一冊の詩集に手を伸ばした。それは、初めてのデートの時、沙耶が彼に贈ってくれたものだった。恐る恐る、その背表紙に指先で触れる。

すると、奔流ではない、まるで陽だまりのような、穏やかで温かい『愛情』が、静かに、じんわりと心に染み込んできた。それは、あの日の沙耶が、はにかみながらこの本を差し出した時に宿した感情だった。

湊は、静かに目を閉じた。

彼女の肉体はもう、この世界のどこにもない。しかし、彼女が遺した想いの残響は、この世界の至る所に、温かい光のように存在している。この能力は呪いではなかった。触れられないはずの人の心に、時を超えて触れるための、ささやかな奇跡だったのかもしれない。

湊は詩集を胸に抱きしめた。

失われた悲しみは消えない。だが、彼はもう一人ではなかった。君の残響と共に、生きていこう。そう、心に誓いながら。

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