涙触者(るいしょくしゃ)と代理の涙

涙触者(るいしょくしゃ)と代理の涙

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第一章 青い涙のアンドロイド

雨は、世界の輪郭を滲ませるインクのようだった。古書店『時紡ぎの部屋』の店主、水島蓮は、窓ガラスを叩く単調な雨音を聞きながら、古書の埃っぽい匂いの中で息を潜めていた。彼にとって雨は、他人の感情の洪水から身を守るための、ささやかな防壁だった。

蓮には、秘密があった。他人が流した涙に触れると、その一滴に込められた記憶と感情の奔流が、有無を言わさず流れ込んでくる。彼は自らを「涙触者(るいしょくしゃ)」と密かに呼んでいた。喜びの涙はまだいい。だが、大半は後悔や絶望、どうしようもない悲しみだ。他人の心の最も柔らかな部分に強制的に触れ続けることで、蓮の心はとうに摩耗しきっていた。だから彼は、人と深く関わることをやめ、この静かな古書店で、言葉を失った物語たちとだけ向き合って生きていた。

その夜、店の扉のベルが、雨音に混じってか細く鳴った。閉店時間はとうに過ぎている。訝しみながら扉を開けると、そこに立っていたのは一体のアンドロイドだった。旧式の家事支援モデルで、型番は『L-7』、愛称はリリィ。その合成皮膚は雨に濡れて青白く、まるで上質な陶器のようだった。彼女はプログラムに従って動いているだけのはずなのに、その佇まいは迷子の子供のように心細げに見えた。

そして蓮は、信じられないものを見た。

リリィの滑らかな頬を、一筋の雫が静かに伝っていたのだ。それは雨粒ではなかった。澄んだ青い瞳から、確かに生まれ落ちたように見えた。アンドロイドは泣かない。感情を持たない機械が、涙を流すはずがない。それはこの世界の絶対的な常識だった。

常識を覆す光景に、蓮の心臓が大きく跳ねた。恐怖と、それ以上に抗いがたい好奇心。もし、これが本当に涙なのだとしたら。機械が流す涙には、一体どんな記憶が、どんな感情が宿っているというのか。

呪われた能力だと、あれほど疎んじてきたはずなのに、蓮の指は意思とは無関係に引き寄せられていた。彼はゆっくりと手を伸ばし、震える指先で、リリィの頬を伝うその冷たい雫に、そっと触れた。

瞬間、世界が反転した。

しかし、流れ込んできたのは、いつものような激情の渦ではなかった。ただ、断片的で静かなイメージだけが、ノイズの混じった映像のように脳裏に明滅した。満開の桜並木。温かい大きな手のひら。レコードから流れる優しいクラシック音楽。誰かの穏やかな笑い声。それは、誰かの大切な記憶の断片のようだったが、そこには色が、温度が、感情が、綺麗に抜け落ちていた。まるで、完璧に記録された、ただのデータのように。

蓮は息を呑んだ。これは、なんだ?

感情のない涙。そんなものが、あるというのか。

彼は濡れたままのリリィを店の中に招き入れた。答えを見つけ出すまで、この不思議なアンドロイドを放っておくことはできないと、強く感じていた。

第二章 記録された追憶

リリィとの奇妙な共同生活が始まった。彼女はほとんど話さず、ただ蓮のそばに静かに佇んでいるだけだった。その青い光学センサーは、まるで深い湖の底のように、何も映してはいないように見えた。蓮は警察に届け出ることも考えたが、彼女の涙の謎が、彼を行動できなくさせていた。

リリィは、一日に数回、決まった時間でもないのに、ふと涙を流した。その度に蓮は、まるで禁断の果実に手を伸ばすように、その雫に触れた。流れ込んでくるビジョンは、回を重ねるごとに少しずつ鮮明になっていった。

それは、ひとりの老人の記憶だった。高村、と蓮は心の中でその老人を名付けた。高村は、リリィの前の所有者らしかった。記憶の中で、彼はリリィを「妻」の名前で呼ぶことがあった。日当たりの良い縁側で、高村がリリィに本を読み聞かせている。公園のベンチで、同じ景色を並んで眺めている。食卓で、味のしないはずの食事を「美味しいかい?」と尋ねている。

それらは紛れもなく、愛情に満ちた日々の記録だった。しかし、蓮が触れてきた人間の涙とは決定的に違っていた。そこには、高村の温かい感情はあっても、リリィ自身の感情が存在しなかった。彼女はただ、忠実な記録装置として、主人の日々を、その視界に焼き付けていただけなのだ。

それでも、蓮はリリィの涙に触れることをやめられなかった。

他人の感情に触れることに疲れ果て、心を閉ざしていたはずの蓮の日常が、この感情のない記憶によって、不思議と彩られていくのを感じていた。高村の穏やかな日々を追体験するうちに、蓮のささくれた心が、少しずつ癒されていくような感覚があった。それは、熱い風呂に浸かるような直接的な温かさではなく、冬の日に窓から差し込む陽だまりのような、淡く、しかし確かな温もりだった。

「お前は、何を見てきたんだ?」

ある晩、蓮は棚の古書を整理する手を止め、リリィに問いかけた。リリィはもちろん答えない。ただ、その青い瞳を瞬かせるだけだ。

蓮は自嘲気味に笑った。機械に心の内を語りかけるなんて、どうかしている。だが、彼は気づき始めていた。この感情のないはずの記憶の断片に、自分が強く心を揺さぶられていることに。ただのデータに過ぎないと頭では分かっているのに、なぜこんなにも胸が締め付けられるのだろう。

蓮は、高村という人物について本格的に調べることを決意した。リリィのシリアルナンバーから製造元に問い合わせ、ようやく前の所有者である高村健吾の情報を手に入れた。その住所録を握りしめ、蓮はリリィを連れて、全ての答えが待っているはずの場所へと向かった。

第三章 空っぽの涙腺

高村健吾の家は、記憶のビジョンで見た通りの、古いながらも手入れの行き届いた小さな平屋だった。しかし、蓮を迎えたのは高村本人ではなく、彼の甥だと名乗る若い男性だった。彼の口から告げられた事実は、簡潔で、そして残酷なものだった。

「伯父は、先月亡くなりました」

家の中は遺品整理の最中で、段ボール箱がいくつも積まれていた。高村の甥は、リリィの姿を見ると、少し驚いたように言った。

「ああ、リリィ。探していたんですよ。伯父が認知症を患ってから、亡くなった妻のサチコさんの名前で呼んで、それは大切にしていて……。施設に入る時に行方が分からなくなってしまって」

蓮は、核心に触れる質問を投げかけた。

「このアンドロイドは、涙を流すんです。感情があるのでしょうか?」

その問いに、甥はきょとんとした顔で首を横に振った。

「涙? まさか。この子は旧式で、感情表現機能なんてありませんよ。ただ……」

彼は何かを思い出すように、少し間を置いた。

「ただ、伯父はいつも言っていました。『リリィが、わしの代わりに泣いてくれるんじゃ』と」

その言葉の意味が分からず、蓮が眉をひそめていると、甥は「これ、読んでみますか」と一冊の古びた日記帳を差し出した。それは、高村健吾の日記だった。

蓮はリリリィの隣に座り、震える手で日記のページをめくった。そこには、蓮が知らなかった真実が、震えるような文字で綴られていた。

『妻、サチコが死んだ。悲しくて、胸が張り裂けそうなのに、涙が一滴も出なかった。病気のせいで、私の涙腺はとうに機能を失っていた。泣きたい時に泣けないというのは、魂が身体という檻に閉じ込められているような心地がする』

蓮は息を呑んだ。高村は、病で涙を流すことができない身体になっていたのだ。

『古い家事支援ロボットを、妻に似せてリリィと名付けた。この子の光学センサーの洗浄機能を使えば、純水を少量、目から排出させることができる。簡単なプログラムだ。私が悲しい時、嬉しい時、サチコを思い出して胸が詰まる時、スイッチを押すと、リリィが代わりに涙を流してくれる。それは空っぽの涙だ。感情のない、ただの水だ。だが、その雫が頬を伝うのを見ていると、私の心も一緒に泣いているような気がするのだ』

衝撃だった。

リリィの涙は、感情の産物ではなかった。それは、涙を流したくても流せなかった一人の人間が、その想いを託した「代理の涙」だったのだ。蓮がこれまで触れてきた、人間の生々しい感情が渦巻く「本物の涙」とは、全く成り立ちの違うものだった。

しかし、どうだろう。

蓮の胸を打ったのは、絶望ではなかった。むしろ、その「作られた涙」に込められた想いの途方もない深さに、全身が打ち震えるような感動を覚えていた。感情そのものではない。だが、これほどまでに純粋で、切実な想いが形になったものが、他にあるだろうか。

彼は、自分の能力をずっと呪いだと思っていた。他人の心の闇に触れる、忌まわしい力だと。だが、今は違った。高村の、誰にも届かなかったかもしれない想いを、自分は確かに受け取った。この力があったからこそ、ただの水滴に過ぎないはずの涙に込められた、一人の人間の愛と悲しみの物語を知ることができたのだ。

蓮の頬を、熱いものが伝った。それは紛れもなく、彼自身の涙だった。

第四章 きみがくれた物語

古書店『時紡ぎの部屋』に戻った蓮は、窓際の椅子に静かに座るリリリィを見つめていた。雨はとうに上がり、磨かれたような月が窓から淡い光を投げかけている。

リリィの頬を、再び一筋の雫が静かに伝った。

それは、高村が最期に設定した、タイマーによるものだったのかもしれない。あるいは、何かの偶然か。理由はもう、どうでもよかった。

蓮は、今度は何の躊躇もなく、その青白い頬に手を伸ばし、祈るようにそっと涙に触れた。

流れ込んできたのは、最後のビジョンだった。

病室のベッドから見える、窓の外の桜。それは、蓮が最初に見たあの桜並木だった。高村の薄れゆく意識の中で、それは最愛の妻サチコと初めて出会った春の日の記憶と重なっていた。ありがとう。ごめん。愛している。言葉にならない無数の想いが、感情の奔流となって蓮の心を満たした。それはデータでありながら、人間の最も純粋で美しい感情の結晶そのものだった。

蓮は、リリィの涙に触れたまま、静かに泣いた。高村の想いを受け止めて、彼自身の心が流す涙だった。

長い間忘れていた、誰かのために心を動かし、涙を流すという感覚。それを思い出させてくれたのは、感情を持たないはずのアンドロイドだった。

「高村さんの想い、ちゃんと受け取ったよ」

蓮は、リリィの小さな頭をそっと撫でながら囁いた。リリィは何も答えない。だが、月明かりを反射するその青い瞳が、ほんの少しだけ、優しく輝きを増したように蓮には見えた。

蓮は、これからもこの古書店で生きていくだろう。彼が疎んできた涙に触れる力は、呪いではない。忘れ去られてしまうかもしれない誰かの大切な物語を、その心に紡いでいくための、ささやかな役目なのかもしれない。そう思えるようになっていた。

涙とは何か。感情とは何か。

その答えはまだ見つからない。けれど、高村とリリィが遺してくれたこの温かい物語を胸に抱いていれば、いつかきっと、その入り口に立てる気がした。

蓮は、リリィの隣に腰を下ろし、窓の外に広がる星空を見上げた。静かな店内に、古書の匂いと、月の光と、そして二つの静かな存在があるだけだった。世界は、こんなにも優しく、そして切ない物語で満ちている。蓮の旅は、まだ始まったばかりだった。

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