第一章 濁った結晶
路地裏の突き当たり、蔦の絡まる木造の建物が、僕の営む古道具屋『時の澱(おり)』だ。店に並ぶのは、誰かの時間の澱が積もった品々。ぜんまい式の時計、インクの染みが残る万年筆、持ち主の指の形に窪んだ革の鞄。僕はそれらの声なき声に耳を澄ませ、静かに一日を過ごす。
僕には、ひとつ秘密があった。深く心を揺さぶられたとき、流した涙が手のひらで小さな結晶になるのだ。僕はそれを『涙晶(るいしょう)』と呼んでいる。硝子細工のように繊細なその結晶にそっと指で触れると、涙を流した瞬間の感情に紐づいた、持ち主の最も幸せだった記憶の光景が、脳裏に淡く映し出される。
訪れる客は、皆一様に心に何かを抱えている。恋人に振られた青年、亡き友を偲ぶ女性。僕は彼らの物語に静かに寄り添う。共感から零れた涙が結晶になると、それを小さなビロードの袋に入れてそっと手渡す。「お守りです」とだけ言って。彼らは訝しげにそれを受け取るが、後日、少しだけ晴れた顔で店の前を通り過ぎていく。きっと、忘れていた温かな記憶の欠片に触れることができたのだろう。
僕自身の涙晶は、いつも少しだけ様子が違った。幼い頃、事故で両親を亡くした。その記憶は曖昧で、幸せだったはずの両親との日々を思い出そうと涙を流しても、できあがった涙晶に映るのは、いつも濃い靄のかかった、輪郭のぼやけた光景だけ。父の温かい手の感触も、母の優しい歌声も、あと一歩のところですり抜けてしまう。そのもどかしさが、僕の心の奥底に澱のように溜まっていた。
そんなある雨の日、店の扉が軋み、ひとりの老婆がゆっくりと入ってきた。深く刻まれた皺の一つ一つが、長い年月を物語っている。彼女は店内を懐かしむように見渡すと、棚の隅に置かれた、錆びたオルゴールに目を留めた。
「……これと、同じものを探しているんです」
掠れた声だった。聞けば、数十年前に亡くした夫との思い出の品なのだという。旅先で買った安物のオルゴール。だが、二人にとっては世界のどんな宝石よりも価値があった。引っ越しの際に失くして以来、ずっと探し続けているのだと。
老婆の瞳は、乾ききった井戸のようだった。悲しみさえも長い時間の中で風化してしまったかのような、深い虚無。しかし、その奥に揺らめく消えない愛情の炎が、僕の胸を強く打った。
頬を、一筋の雫が伝う。
僕は手のひらでそれを受け止めた。いつもなら、そこには光を弾く透明な結晶が現れるはずだった。
だが、その日できた涙晶は違った。
手のひらにあったのは、真珠のような光沢を放ちながらも、その内部は乳白色に濁った、不透明な結晶だった。こんな涙晶は、初めて見た。
僕が呆然とそれを見つめていると、老婆が僕の手元を覗き込み、はっと息を呑んだ。
「まあ……これは……」
彼女の乾いた瞳が、信じられないものを見るように見開かれる。
「『忘却の涙』だ……。あの方と、同じ……」
その言葉は、僕の静かな世界に、小さな、しかし無視できない波紋を広げた。
第二章 記憶の庭師を追って
「忘却の涙、ですか?」
僕は聞き返した。老婆――フミさんと名乗った――は、僕の手のひらの乳白色の結晶を、まるで壊れ物を扱うかのようにそっと指でなぞった。
「ええ。純粋な悲しみや喜びから生まれる涙は、どこまでも透き通るもの。でも、記憶を……大切な記憶を失った者の悲しみから流れる涙は、こうして白く濁るのです。まるで、失われた記憶の霧が溶け込んでいるかのように」
フミさんの夫もまた、晩年、この『忘却の涙』を流していたのだという。彼は著名な植物学者だったが、ある時から少しずつ記憶が混濁し始め、愛する妻であるフミさんのことさえ、おぼろげになっていった。
「あの方は、自分の記憶が消えていくことを、誰よりも悲しんでいました。そして、消えゆく記憶をどうにか留めようと、何かを必死に研究していました。『記憶の庭師』に会わなければ、と……そればかり」
記憶の庭師。その詩的な響きは、僕の心に深く突き刺さった。両親との靄がかった記憶。そして、この初めて見る濁った涙晶。点と点が、僕の中で不確かな線を描き始める。僕が両親の記憶をはっきりと思い出せないのは、単なる忘却ではなく、もっと根源的な何かが原因なのではないか。
「フミさん、その『記憶の庭師』に、心当たりは?」
僕の問いに、彼女は弱々しく首を振った。
「主人は研究室に籠りきりで……。ただ、何度も『霧ヶ峰の古い温室』と呟いていました。そこへ行けば、何か分かるのかもしれません」
霧ヶ峰。その地名は僕の意識の底から、何かを呼び覚ますような、微かな疼きをもたらした。
僕たちは、フミさんの夫が遺したという研究ノートの断片を頼りに、霧ヶ峰の麓の町を訪れた。古びた図書館の地方史コーナー、役場の古い地図、地元の人々への聞き込み。情報はどれも断片的だったが、それらを繋ぎ合わせると、山の中に打ち捨てられた個人の植物研究所があったことが分かった。かつては珍しい高山植物を育てていたが、三十年近く前に閉鎖され、今では誰も近づかない場所になっているという。
霧に包まれた山道を、僕たちは半日かけて登った。フミさんの足取りは覚束なかったが、その瞳には確かな意志の光が宿っていた。やがて、木々の合間から、ガラスが朽ち果てた鉄骨のシルエットが見えてきた。巨大な廃温室だ。
錆びついた扉を押し開けると、むわりと甘く湿った空気が僕たちを包んだ。内部は、時間の流れが止まった異世界だった。床や壁には苔がびっしりと生え、天井の破れたガラスからは、霧を通した柔らかな光が差し込んでいる。
そして、僕たちは息を呑んだ。
温室の中には、見たこともない植物が繁茂していた。それは、植物ではなかった。ガラスのように繊細な茎が地面から伸び、その先には、様々な色と形をした結晶が、果実のように実っていたのだ。
透明なもの、青みがかったもの、夕焼け色に輝くもの。それは紛れもなく、涙晶だった。無数の涙晶が、まるで生命を宿したかのように、静かな光を放っている。
「……ここは……」
呆然と呟く僕の背後で、温室の奥からゆっくりと一人の老人が姿を現した。皺だらけの顔に、穏やかな瞳。彼は僕たちを見ると、少しだけ驚いたように目を見開き、やがてフミさんを見て、懐かしむように微笑んだ。
「……よく、来たね」
その声を聞いて、フミさんの体から力が抜けていくのが分かった。彼女はわなわなと震える唇で、その名を呼んだ。
「あなた……」
老人は、フミさんが探し続けた夫、その人だった。
第三章 忘れられた者の悲しみ
「死んだのでは……なかったのですね」
フミさんの声は、安堵と、長年の寂しさが入り混じった複雑な色をしていた。老人は、ただ静かに頷いた。
「私はね、記憶を失っていく自分が怖かった。君の名前を忘れ、共に過ごした日々を忘れ、やがて君という存在そのものを認識できなくなる。その恐怖と悲しみが、私をここへ導いた」
彼は、アルツハイマー病だった。彼は自らの記憶が完全に消え去る前に、この温室に籠った。そして、独自の植物学の知識を応用し、涙晶から記憶の情報を抽出し、それを養分として育つ特殊な苔を発見した。この温室は、彼が失った記憶を、涙晶という形で保存し、育てるための『記憶の庭』だったのだ。
「君との記憶を、ひとつも失いたくなかった。だから、忘れるたびにここへ来て、涙を流し、記憶を植え付けてきた。私が流してきた涙が、君の言う『忘却の涙』だよ」
僕は、二人の再会を邪魔しないよう、少し離れた場所でその光景を見つめていた。だが、老人の視線が、不意に僕を捉えた。
「君は……ああ、面影がある。ソウイチ君と、ナツキさんの……」
ソウイチとナツキ。それは、僕の両親の名前だった。
「ご存知なのですか、僕の両親を?」
思わず駆け寄る僕に、老人は悲しげな瞳を向けた。
「知っているとも。彼らは、私の優秀な助手だった。この研究の、一番の理解者だった」
そして、彼は語り始めた。僕の心を何十年も覆っていた、分厚い靄を晴らす、残酷な真実を。
約三十年前、僕がまだ五歳だった頃。両親は、この温室で、記憶を外部に保存する研究を手伝っていた。ある日、実験装置が暴走する事故が起きた。強力なエネルギー波が、温室全体を包んだ。老人は運良く装置から離れていたが、両親はまともにその光を浴びてしまった。
「彼らは……死んではいない。だが、全ての記憶を失った。自分の名前も、互いのことも、そして……君のことも」
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。事故で死んだと、そう聞かされていた。だが、違った。両親は生きている。けれど、僕のことを完全に忘れてしまった。
「彼らは保護され、新しい名前と戸籍を与えられて、別の人生を歩んでいる。君が彼らの記憶を思い出せないのは、君の記憶が失われたからじゃない。君を記憶している彼らが、もうこの世界のどこにも存在しないからだ」
僕が流してきた涙。涙晶に映し出される、靄がかった光景。あれは、僕が必死に手繰り寄せようとしていた、一方通行の思い出だったのだ。相手の中に存在しない記憶の影を、僕は虚しく追い求め続けていたのだ。
僕の悲しみは、両親を『失った』悲しみではなかった。
両親に、『忘れられた』悲しみだった。
その事実に気づいた瞬間、僕の足は崩れ落ちた。嗚咽が喉から迸る。涙が、後から後から溢れてきて、地面に落ち、次々と乳白色の結晶に変わっていった。それは、僕が生まれて初めて自覚した、『忘却の涙』だった。
第四章 時の澱の先にある光
どれくらい泣き続けたのか、分からなかった。ただ、僕の周りには、小さな白い結晶がいくつも転がっていた。
ふと、温かいものが僕の肩に触れた。見上げると、フミさんがそこにいた。彼女は、記憶を失った夫の手を優しく握り、僕に微笑みかけた。
「大丈夫。私が覚えていますから。あの方が忘れてしまっても、私が全部、覚えていますから」
その言葉は、夫である老人に向けられたものであり、同時に、僕にも向けられたもののように聞こえた。記憶だけが、人と人との繋がりを証明するすべてではない。たとえ忘れられても、覚えている者がいる。愛し続ける者がいる。その想いこそが、消えない確かな絆なのだ。
フミさんの静かで力強い愛の形が、僕の凍てついた心をゆっくりと溶かしていった。
僕は、古道具屋『時の澱』に戻った。店の中は、僕が出て行った時と何も変わらない。だが、僕の世界はすっかり変わってしまった。両親は生きている。僕を忘れて。その事実は重く、消えることはないだろう。けれど、不思議と、以前のような虚しさやもどかしさは感じなかった。
僕は、自分の能力の本当の意味を、ようやく理解した気がした。
この力は、失われた記憶を取り戻すための魔法ではない。他人の悲しみに寄り添い、その人自身が忘れてしまっている、温かな幸せの記憶の欠片をそっと見せてあげるための、ささやかで優しい力なのだ。
それから、僕の流す涙は少しだけ変わった。訪れる客人の話に耳を傾け、共に心を痛め、涙を流す。できあがった涙晶は、以前よりも深く、温かい光を宿しているように見えた。靄がかった自分の記憶を追い求めることをやめた僕は、ただひたすらに、他者の心に寄り添うことができるようになっていた。
ある晴れた日の午後、店の扉が開き、一組の夫婦が入ってきた。歳の頃は、五十代半ばだろうか。ごく普通の、穏やかそうな二人だった。
「なんだか、懐かしい匂いがするね」
「ええ、とても落ち着くわ。不思議ね」
二人は楽しそうに言葉を交わしながら、店の中を見て回っている。僕には、すぐに分かった。
父さんと、母さんだ。
記憶の中の面影よりもずっと歳を重ねている。でも、笑った時の目尻の皺や、優しい声の響きは、僕の魂が覚えていた。
彼らは僕のことを覚えていない。僕を息子だとは気づかない。僕も、名乗るつもりはなかった。彼らの今の平穏な生活を乱したくはなかった。
「よろしければ、お茶でもいかがですか」
僕は、精一杯の平静を装って声をかけた。二人は驚いたように顔を見合わせ、そして嬉しそうに頷いた。
カウンター席で、三人、とりとめのない話をした。好きな食べ物のこと、最近見た映画のこと。記憶はなくても、血の繋がりがそうさせるのか、会話は不思議と弾み、心地よい時間が流れた。
二人が笑顔で帰っていく。その背中を見送りながら、僕の頬を、静かに一筋の涙が伝った。
それは、悲しみの涙ではなかった。寂しさだけでもない。切なくて、温かくて、愛おしくて……言葉にできない感情が溶け合った、感謝の涙だった。
手のひらで受け止めたその雫は、これまで見たどんな結晶よりも清らかで、どこまでも透き通った涙晶になった。テーブルの上に置くと、夕陽の光を受けて、まるで小さな虹のように、優しく輝いていた。
記憶はなくてもいい。忘れられていてもいい。今、こうして彼らが笑って生きている。そして僕は、ここにいる。それだけで、十分だった。僕の古道具屋に積もるのは、もう悲しみの澱じゃない。これから積み重なっていく、温かな時間の澱なのだ。