記憶の万華鏡

記憶の万華鏡

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第一章 埃をかぶった万華鏡

橘湊(たちばな みなと)が、潮の香りと錆の匂いが混じる故郷の駅に降り立ったのは、実に八年ぶりのことだった。父が倒れたという、姉からの短い電話が、東京での無機質な日常に突然終止符を打ったのだ。古い木造の実家の引き戸を開けると、時が止まったかのような静けさと、独特の黴と線香の匂いが湊の肺を満たした。父は、湊が病院に駆けつける前に、あっけなく逝ってしまったらしい。

通夜も葬儀も、どこか他人事のように過ぎていった。涙は一滴も出なかった。幼い頃に母を亡くして以来、父との間には、ガラス板のように冷たくて透明な壁がずっと存在していた。グラフィックデザイナーとして独立した湊にとって、感情を排した合理的な思考は仕事の武器であり、それは父との関係においても同じだった。父は不器用で、いつも不機嫌で、湊の世界とは相容れない人間。ただ、それだけのことだと思っていた。

遺品整理を始めたのは、葬儀から三日後の、気怠い午後のことだった。父の書斎は、湊が家を出た時のまま、膨大な蔵書と埃に埋もれていた。本棚の奥、開かずの間にしていた桐箪笥の引き出しから、湊は一つの小さな木箱を見つけた。蓋を開けると、中には深緑のビロードに包まれた、古びた真鍮製の万華鏡が一つだけ、静かに横たわっていた。

「万華鏡…?」

子供の頃、こんなものがあった記憶はない。手に取ると、ずしりとした重みと、金属のひんやりとした感触が伝わってきた。筒には、蔦のような繊細な彫刻が施されている。湊の一族には、代々受け継がれる奇妙な「力」があった。強い感情が込められた瞬間の記憶が、その場にあった「物」に宿り、血を引く者はそれに触れることで、記憶を追体験できるのだ。湊はこの力を疎ましく思っていた。他人の生々しい感情の奔流は、彼の整然とした世界を乱すノイズでしかなかったからだ。

どうせまた、父の孤独や苦悩といった、重苦しい記憶が流れ込んでくるのだろう。半ばうんざりしながら、湊は万華鏡の接眼レンズにそっと目を当てた。

しかし、次の瞬間、湊は息を呑んだ。

流れ込んできたのは、断片的な感情や映像ではなかった。目の前に広がったのは、きらびやかな幾何学模様ではなく、陽光が差し込む縁側で、赤ん坊をあやす若き日の父と母の姿だった。母の柔らかな笑顔。父のぎこちないが、慈愛に満ちた眼差し。赤ん坊の笑い声が、耳元で聞こえるかのように鮮明だった。それは、まるで自分がその場にいるかのような、あまりにも濃密で、没入感のある「体験」だった。そして、その赤ん坊が、紛れもなく自分自身であることに気づいた時、湊の心臓はこれまで感じたことのない音を立てて、大きく脈打った。

第二章 母の視線

その万華鏡は、湊が知る「記憶の宿る物」とは明らかに異質だった。通常、物に触れて流れ込んでくる記憶は、フラッシュバックのように一瞬で、感情の残滓だけが心に残る。だが、この万華鏡が見せるのは、始まりと終わりがある、一つの完璧な短編映画のようだった。

湊は書斎の椅子に座り込み、何度も万華鏡を覗き込んだ。覗くたびに、異なる景色が現れる。初めてハイハイをした日のこと。熱を出して泣きじゃくる幼い自分を、父が徹夜で看病する夜のこと。そして、日に日に痩せていく母が、それでも湊の前では決して笑顔を絶やさなかった日々のこと。

それらはすべて、湊自身の記憶にはない、あるいは霞のように曖昧になっていた過去の断片だった。そして、奇妙なことに、万華鏡が見せる光景は、いつも決まって、母の目の高さから見ているような視点で展開された。まるで、母自身がカメラマンであるかのように。

「なぜ、母さんの視点なんだ…?」

湊は、父が自分に冷たかった理由を、母の死によるものだと漠然と考えていた。妻を失った悲しみが、唯一残された息子への愛情表現を歪めてしまったのだろうと。だが、万華鏡の中の父は違った。湊の小さな手を握り、絵本を読み聞かせ、その無骨な指で懸命に弁当を作る姿は、湊が知る父とはまるで別人だった。そこには、不器用ながらも深い愛情が、疑いようもなく存在していた。

混乱が、湊の心をかき乱す。もしこれが父の本当の姿なら、なぜ彼は湊の前で、あんなにも心を閉ざしてしまったのか。万華鏡を覗くたびに、父への不信感は、少しずつ別の感情――知りたかった、という切ない渇望に変わっていった。

ある日、万華鏡は、母の病状が悪化した頃の記憶を映し出した。病院の白いベッドの上で、母は細くなった手で、父の手を握っていた。

「あの子、ちゃんとご飯食べてる?」

「ああ、心配するな。俺が何とかする」

「湊は、あなたに似て頑固だから。ちゃんと、気持ちを言葉にしてあげてね」

「…努力はする」

弱々しい母の声と、絞り出すような父の声。その会話を聞きながら、湊は胸が締め付けられるのを感じた。そして、この時初めて、自分が父について、母について、そして自分自身の家族について、何一つ理解していなかったのだという事実に直面した。自分はただ、目に見えるものだけで父を断罪し、理解しようとすらしなかったのだ。

第三章 約束の結晶

遺品整理も終わりに近づいた頃、湊は父の日記を見つけた。飾り気のない、事務的な文字で日々の出来事が綴られているだけの、退屈な記録。しかし、母が亡くなった日のページで、湊の指は止まった。そこには、いつもの無機質な文字とは違う、乱れた筆跡でこう記されていた。

『今日、お前との約束が始まった。あの子が本当の意味で「家族」を求めるその日まで、俺はこの鏡を守り抜く。お前の視線と共に』

「鏡…? 約束…?」

日記の言葉が、万華鏡の存在と奇妙に符合する。湊は震える手で、再び万華鏡を手に取った。何か、まだ見ていない、決定的な記憶があるはずだ。そう直感し、強く念じながらレンズを覗き込んだ。

視界が開けた先は、夕暮れの病室だった。窓の外が茜色に染まっている。ベッドに横たわる母の呼吸は浅く、もう長くはないことが誰の目にも明らかだった。父が、その傍らでじっと座っている。

やがて母が、か細い声で父を呼んだ。

「あなた…」

父は無言で母の手を握る。

「私の『力』…もうすぐ消えてしまうわ。でも、最後に、この子にしてあげられることがある」

そう言って母が差し出したのは、あの真鍮の万華鏡だった。

「私の残りの命と、力のすべてを、この中に込める。これはただの万華鏡じゃない。私の『目』になるの。私が死んでも、これで湊の成長を見守って。あの子が歩く姿、笑う顔、泣く顔…全部、ここに記録していくから」

湊は愕然とした。母は、自らの命と、一族に伝わる特殊な能力のすべてを賭して、この万華鏡を創り上げたのだ。それは、記憶が宿った物などという生易しいものではない。母の魂の一部を封じ込めた、「記憶の結晶体」そのものだった。

母の言葉は続く。

「でも、約束して。これは、あの子が本当に孤独を感じて、家族の温もりを心の底から必要とした時まで、見せないで。それまでは、あなたが一人で、この鏡に映る湊を、私と一緒に見守ってほしいの」

「なぜだ…」父の声が掠れていた。「今すぐ見せてやれば、お前がどれだけあの子を愛していたか…」

「ううん。まだ早いわ。あの子は、いつか自分の足で立って、壁にぶつかる。その時、過去の温かい記憶は、慰めにはなっても、乗り越える力にはならないかもしれない。むしろ、甘えになってしまう。だから…あの子が自分の力で世界と向き合い、それでもなお、失われた温もりを求めた時…その時に、この鏡が、あの子の心を本当に救う光になる」

父は、嗚咽を堪えるように肩を震わせ、深く頷いた。それが、二人の最後の「約束」だった。

衝撃が湊の全身を貫いた。父が自分を遠ざけていた理由。冷たい態度を貫いていた意味。そのすべてが、この瞬間に繋がった。父は、母との約束を、たった一人で、何十年も守り続けてきたのだ。この万華鏡に触れるたび、父は愛する妻の記憶に触れ、その死を繰り返し追体験していたに違いない。その痛みと悲しみを表に出さず、ただひたすらに、母の愛の結晶を守るために。湊に背を向け、感情を押し殺すことでしか、父は父親であり続けることができなかったのだ。

自分が疎んじていた能力。忌み嫌っていた感情の奔流。それこそが、母が遺した究極の愛の形であり、父が命を懸けて守り抜いた宝物だった。湊の頬を、熱い雫が止めどなく伝っていった。それは、八年前に流すべきだった、父のための涙だった。

第四章 これからの景色

実家を離れる日、湊は父の墓前にいた。朝の光が、墓石に刻まれた「橘家」の文字を柔らかく照らしている。湊は、コートのポケットから取り出した万華鏡を、そっと墓石の上に置いた。

「父さん、ごめん。何も知らなくて、ごめん」

言葉は、風に溶けて消えた。だが、胸の中にあった長年のわだかまりは、氷が解けるように消え去り、そこには温かい感謝の念だけが残っていた。父も母も、それぞれの形で、自分を全力で愛してくれていた。その事実が、今、何よりも湊の心を支えていた。

東京に戻る新幹線の中で、湊は窓の外を流れる景色を眺めながら、ずっと万華鏡を握りしめていた。それはもう、ただの遺品ではない。母の視線であり、父が守った絆の証であり、自分という人間を形作る、揺るぎないルーツそのものだった。これからは、この力と共に生きていこう。家族の記憶を、想いを、大切に抱きしめて。

東京の自室に戻った湊は、仕事机の一番良い場所に、万華鏡を置いた。そして、夜が更け、街の喧騒が遠のいた頃、もう一度、そっとレンズを覗き込んだ。

そこには、いつもの光景があった。陽光が差し込む縁側で、赤ん坊の自分をあやす、若き日の父と母。何度見ても変わらない、幸せに満ちた笑顔。

その景色を見つめながら、湊は静かに微笑んだ。頬を伝う一筋の涙は、もう悲しみや後悔の色をしていなかった。それは、失われた時間を取り戻すかのような、深く、温かい感謝の涙だった。

家族とは、共に過ごす時間の長さや、交わす言葉の数だけで測れるものではないのかもしれない。たとえ離れていても、会えなくなっても、受け継がれ、守られていく記憶と想いの中に、それは永遠に生き続ける。

万華鏡の中に広がる景色は、湊にとって、過去の記録であると同時に、これからを生きていくための、道標の光となるだろう。湊は、レンズから目を離すと、窓の外に広がる東京の夜景を見つめた。無数の光が、まるで誰かの大切な記憶のように、瞬いていた。

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