記憶晶のソラリス

記憶晶のソラリス

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第一章 硝子の遺言

健太の日常は、ガラスが砕けるような音もなく、静かにひび割れていった。始まりは、母である美佐子が、食卓で自分の名前を忘れたことだった。最初はただの物忘れだと、親子で笑い飛ばした。だが、忘却の染みは日に日に広がり、昨日の献立、隣人の顔、そしてついには、亡き夫の名さえも、彼女の記憶の縁から滑り落ちていった。

診断は無慈悲だった。「記憶結晶劣化症」。現代医学では進行を遅らせることしかできない、不治の病。医師は淡々と説明した。我々の記憶は、脳ではなく、胸骨の裏で生成される「記憶晶」という生体結晶に記録される。美佐子さんの場合、その結晶が砂のように脆くなり、少しずつ崩れ始めているのだ、と。

絶望が濃霧のように部屋を満たす中、健太は父の書斎に足を踏み入れた。十年前に他界した父、聡。厳格で、無口で、最後まで健太には心を開いてくれなかった男。その父が遺した唯一のものが、書斎の奥に鎮座する桐の箱だった。中には、父が生涯をかけて生成した、数十個の記憶晶が納められている。それは父の人生そのものであり、健太にとっては触れることの許されない、重苦しい遺言だった。

母を救うには、失われた記憶を補う、強靭で純度の高い記憶晶が必要になるという。特に、強い情動、とりわけ「愛」に満ちた記憶は、劣化を食い止める防波堤になりうる、と医師は言った。健太の胸にある、まだ若く未熟な記憶晶では、母の崩壊を繋ぎ止めるにはあまりに非力だった。

選択肢は一つしかない。ずっと目を背けてきた、父の記憶に触れること。あの冷たい男の記憶に、母を救うほどの「愛」など宿っているのだろうか。健太は疑念とわずかな希望を胸に、桐の箱の重い蓋に、震える手をかけた。箱を開けると、月光を吸い込んだかのように青白く光る、大小様々な結晶が静かに横たわっていた。まるで、凍てついた星々の欠片のようだった。

第二章 偽りの面影

最初の記憶晶は、冷たかった。健太が指先でそっと触れると、視界が真っ白になり、次の瞬間には父、聡の感覚が洪水のように流れ込んできた。若い頃の父が見た、大学の研究室。埃と薬品の匂いが鼻をつき、古い本のインクの香りがする。彼は一心不乱に記憶晶の研究に打ち込んでいた。その横顔は、健太が知る厳格な父とは違う、情熱に燃える青年のものだった。

一つ、また一つと、健太は父の記憶を追体験していく。そこには、健太の知らない父がいた。初めて美佐子と出会った公園の、木漏れ日の暖かさ。彼女の笑顔を見て、胸に灯った柔らかな光。結婚式の日の、緊張で汗ばむ掌の感触。健太が生まれた日、小さな手を握りしめ、こらえきれずに零した涙の熱さ。

「嘘だ…」

健太は思わず声を漏らした。彼の記憶の中の父は、いつも難しい顔で書斎に籠もり、家族の団らんにも滅多に顔を出さない、冷たい人間だったはずだ。だが、この記憶晶が語る聡は、不器用ながらも深く家族を愛し、その愛をどう表現すればいいか分からずに、ただ静かに見守っていた男の姿だった。

父の記憶晶は、どれも澄んだ青色をしていた。それは、父が抱えていたであろう、孤独や苦悩の色にも見えた。なぜ父は、これほどの愛情を内に秘めながら、それを健太に伝えようとしなかったのか。母にさえ、その全てを見せていたようには思えなかった。父と母の間には、何か健太の知らない、分厚い壁のようなものがあったのではないか。

その間にも、美佐子の症状は悪化の一途をたどっていた。ある朝、彼女は健太を見て、「どちら様ですか」と怯えたように尋ねた。健太の心は、鋭いガラスの破片で抉られるように痛んだ。焦りが募る。父の記憶の中に、この状況を打開する鍵があるはずだ。彼は箱の底で、ひときわ大きく、そしてひときわ暗い青色を放つ記憶晶を見つけ、迷わずそれに手を伸ばした。これが父の人生の核心に違いない、と直感しながら。

第三章 愛の代償

その記憶晶に触れた瞬間、健太は激しい衝撃と共に、十数年前の病院の白い廊下に立っていた。聡の視点から、彼はガラス越しに集中治療室を見ている。中には、小さな呼吸器をつけた幼い自分が眠っていた。原因不明の熱病。健太自身の記憶晶が、生まれつき極端に脆く、生命活動そのものに耐えきれず、自己崩壊を始めていたのだ。

「先生、私の記憶晶をこの子に。私の全てを捧げます」

聡の隣で、若き日の美佐子が懇願していた。彼女の声は震えていたが、その瞳には鋼のような決意が宿っていた。医師は首を横に振る。「奥さん、正気ですか。記憶晶は、その人の魂そのものです。大部分を移植すれば、あなたは…あなたの記憶は深刻なダメージを受け、いずれは…」

「構いません。この子が生きられない世界で、過去の思い出だけを抱えて生きていくなんて、私には地獄です」

聡の絶望が、健太の全身を貫いた。彼は妻を止めようとした。だが、彼女の愛は、彼のどんな言葉よりも強かった。手術は行われた。美佐子は、自らの人生の記憶が詰まった結晶の半分以上を、息子である健太に与えたのだ。健太が今、当たり前のように享受している日常、友人との笑い声、読んだ本の物語、その全てを支える記憶の土台は、母が自らの魂を削って与えてくれたものだった。

そして、父、聡が残したこの最後の記憶晶は、その後の彼の苦悩の記録だった。彼は、いつか記憶が崩れ始める妻を、たった一人で支えることを誓った。健太にこの重すぎる真実を背負わせないために。彼が書斎に籠もっていたのは、妻の記憶劣化を食い止めるための研究に、人生のすべてを捧げていたからだった。彼が健太に厳しく、そして距離を置いていたのは、いつか自分が死に、真実を告げなければならなくなった時、息子が母を支えられる強い人間に育ってほしいという、悲痛な願いの表れだったのだ。

無口な父の背中は、冷たかったのではない。あまりに重い秘密と、妻への愛を一人で背負い、押し潰されそうになっていただけだった。健太は、父の記憶の中で、声を殺して泣いた。両親の愛の、その想像を絶する深さと、それに気づきもしなかった自分の愚かさに、全身が引き裂かれそうだった。

第四章 受け継がれる光

書斎の静寂の中、健太は自らの胸に手を当てた。そこには、母から受け継いだ、強く温かい記憶晶が脈打っている。それはもう、母だけのものではない。父の記憶を追体験し、家族の愛の真実を知った今、健太自身の人生と混じり合い、新たな光を放ち始めていた。青く澄んだ父の色と、陽だまりのように暖かい母の色が溶け合った、夜明けの空のような色をしていた。

彼は決意した。

リビングへ行くと、美佐子は窓の外をぼんやりと眺めていた。彼女の瞳には、もう誰の姿も映っていない。健太は静かに母の隣に座り、その皺の刻まれた手を優しく握った。

「母さん」

美佐子は、不思議そうに健太の顔を見つめた。

「俺だよ。健太だよ。母さんが、命をかけて守ってくれた息子だよ」

健太は、自分の胸から、光り輝く記憶晶を取り出した。それは、彼がこれまで生きてきた証。母と父から受け継いだ愛の結晶。これを母に還すのだ。たとえ、それで自分の記憶の一部が失われることになったとしても、構わなかった。母がくれた命と記憶で、今度は自分が母を救う番だった。

「これは、母さんと父さんの、そして俺の記憶だ。もう一度、母さんに光をあげる」

彼はその記憶晶を、そっと母の胸に押し当てた。結晶が柔らかな光に包まれ、ゆっくりと母の体内に溶けていく。結果がどうなるかは、誰にも分からない。母の記憶が完全に戻る保証はない。だが、健太の心は不思議なほど穏やかだった。

記憶とは、過去を保存するためのただの記録媒体ではない。それは、誰かに愛を伝え、未来を照らし、世代を超えて受け継がれていく光そのものなのだ。たとえ母が健太を思い出せなくても、この光は母の中で生き続ける。そして、健太の中にも、両親から受け継いだ愛は永遠に消えない。

やがて光が収まった。美佐子は、まだぼんやりとした表情のままだった。だが、彼女はゆっくりと健太の手を握り返し、かすかに、本当に微かに、こう呟いた。

「…あたたかい」

その一言だけで、十分だった。健太の頬を、涙が静かに伝った。それは、悲しみの涙ではなかった。父の記憶の底で感じた涙と同じ、熱くて、優しい、愛の味がした。空には、父の記憶晶のように青く澄んだ、新しい朝が始まろうとしていた。

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