第一章 蒼い残像
大学からの帰り道、僕、水無月健太(みなづき けんた)のスマートフォンがけたたましく鳴った。ディスプレイに表示された「父」という二文字に、胸がざわりと冷える。滅多に電話などかけてこない父からの着信は、決まって悪い知らせの予兆だった。
「健太か。母さんが倒れた。すぐに戻ってこい」
父の声は、受話器越しでも分かるほど硬く、感情が削ぎ落とされていた。僕は言葉を失い、雑踏の真ん中で立ち尽くした。
母が入院した病室は、消毒液の匂いと、機械の単調な電子音で満たされていた。ベッドに横たわる母は、まるで蝋人形のように青白く、僕が知っている快活な姿の面影はなかった。医師は首を捻り、「原因不明の極度の衰弱」とだけ告げた。身体に異常は見当たらないのに、生命の炎だけが静かに消えかかっているのだという。
父は病室の隅の椅子に座り、窓の外を虚ろに見つめているだけだった。僕たちの間には、昔から分厚く冷たい壁がある。父は厳格で、無口で、僕が彼に何かを求めても、ほとんど応えてくれた記憶がない。その壁は、母という緩衝材を失った今、より一層、高くそびえ立って感じられた。
数日後、見舞いを終えて帰ろうとした僕の耳に、か細い声が届いた。
「……あの海を…返して……」
母だった。閉じられた瞼を震わせ、うわ言のように呟いている。海? 母は海が好きだっただろうか。僕の記憶にある母は、インドア派で、日焼けを嫌っていたはずだ。
その瞬間、僕の脳裏に、まるで他人の記憶が流れ込んでくるかのような鮮烈なイメージが閃いた。
抜けるような青い空。肌を焼く陽光。白い砂浜を裸足で駆ける、小さな女の子の甲高い笑い声。潮の香りと、波の音。それは僕のものではない、まったく知らないはずの、しかし懐かしささえ感じる光景だった。
「母さん?」
呼びかけても、母は再び静かな眠りに落ちていくだけだった。病室の静寂の中、僕は自分のこめかみにじっとりと滲んだ汗を感じていた。母の謎の言葉と、僕の頭にこびりつく蒼い残像。家族という当たり前の日常が、音もなく崩れ始めていた。
第二章 開かない扉
母の状態は一向に良くならず、僕は大学を休学し、実家に戻ることにした。父との二人暮らしは、息が詰まるようだった。食事の時も会話はなく、食器の触れ合う音だけが気まずく響く。父は母の不在を悲しむ素振りすら見せず、ただ黙々と日常をこなしているように見えた。その無関心さが、僕の心を苛んだ。
母を救う手がかりは、あの「海」の記憶にあるに違いない。僕は実家の中を漁るように調べ始めた。古いアルバムをめくっても、家族で海に行った写真は一枚も見当たらない。母の日記は、数年前のあるページでぷっつりと途絶えていた。
諦めかけた時、屋根裏部屋の奥で、埃をかぶった段ボール箱を見つけた。中に入っていたのは、僕が生まれる前の写真ばかりだった。若き日の父と母。そして、その二人に抱かれた、見知らぬ小さな女の子。写真の中の彼女は、僕が脳裏で見た、あの海辺で笑っていた少女と瓜二つだった。
「……美咲(みさき)」
その名前を、僕は知っていた。僕が生まれる前に、病気で亡くなった姉だ。家族の間ではタブーのように語られることのなかった存在。写真はどれも、父が今では考えられないほど優しい笑顔を浮かべているものばかりだった。
僕はその写真を手に、リビングで新聞を読んでいた父に詰め寄った。
「父さん、これ、誰だか分かるよね。美咲姉さんのこと、どうして今まで何も話してくれなかったんだ。母さんが言ってた『海』って、姉さんと何か関係があるんじゃないのか!」
父は新聞から目を上げ、僕の持つ写真を冷たく一瞥した。
「お前には関係ない。その箱は元に戻しておけ」
「関係なくない! 家族だろ!」
僕の叫びは、父の纏う硬い沈黙に吸い込まれて消えた。父は再び新聞に目を落とし、僕をいないものとして扱った。その背中は、まるで固く閉ざされた扉のようだった。
僕は悔しさと無力感に苛まれながら、かつて美咲姉さんの部屋だったという、今は物置になっている部屋に足を踏み入れた。窓から差し込む月明かりが、古い家具のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせる。その片隅に、小さな木製のオルゴールが置かれているのを見つけた。蓋を開けてネジを巻くと、澄んだ、しかしどこか物悲しいメロディーが流れ出した。
その音色に導かれるように、再びあのビジョンが僕を襲った。
今度はもっと鮮明だった。美咲姉さんの視点だ。目の前には、しゃがみ込んで僕に笑いかける若い母の顔。母の手には、タコさんウィンナーが入ったお弁当箱。「おいしい?」と尋ねる母の声。潮風に混じる母の優しい匂い。それは、僕が決して体験するはずのない、愛に満ちた記憶だった。全身が総毛立ち、僕はその場にへたり込んだ。これは、ただのデジャヴではない。僕の身体の中に、確かに「誰かの記憶」が存在しているのだ。
第三章 記憶の相続人
オルゴールがもたらした鮮明な記憶。僕は確信していた。母を蝕んでいるものの正体も、父が隠している秘密も、全てはこの「記憶」に繋がっているのだと。僕はもう一度、父と対峙することを決意した。今度は、逃がさない。
夜、書斎で一人、ウイスキーグラスを傾ける父の前に、僕は静かに立った。
「僕が見たんだ。姉さんの記憶を。海で遊んだ記憶と、母さんの手作り弁当を食べた記憶だ。これは一体どういうことなんだ、父さん」
僕の言葉に、父の肩が微かに震えた。グラスを持つ手が止まり、長い沈黙が流れる。やがて、父は重いため息をつくと、観念したように顔を上げた。その目には、僕が初めて見る、深い疲労と悲しみの色が浮かんでいた。
「……我々の家系には、古くからの習わしがある」
父は、絞り出すように語り始めた。
「それは、家族が死に瀕した時、その者の最も幸福だった記憶を、残された家族が一つずつ受け継ぐ、『記憶の相続』という儀式だ」
僕は息を呑んだ。小説の中の話のような、あまりに非現実的な告白だった。
「美咲が亡くなる時、俺たちはその儀式を行った。故人を永遠に忘れないため、その魂の一部を家族の中に留めておくための、我々なりの愛の形だった」
父の話は続く。父が相続したのは、美咲が「初めて父に肩車をされて喜んだ記憶」。母が相続したのは、僕も見た「手作りのお弁当を美味しそうに食べた記憶」。そして、まだ赤ん坊だった僕には、美咲の「家族三人で初めて海へ行った日の記憶」が、無作為に与えられたのだという。
「じゃあ、母さんが倒れたのは……」
「そうだ」父は僕の言葉を遮った。「母さんは、美咲を想うあまり、相続した記憶に心を囚われすぎた。美咲の幸福な記憶は、いつしか母さん自身の精神を蝕む猛毒になった。自分の記憶と美咲の記憶の境界が曖昧になり、心が耐えきれなくなったんだ。母さんが呟いていた『海を返して』は、お前に相続された、家族最後の幸福な記憶を、せめて自分のものにしたいという、悲痛な叫びだったんだ」
衝撃的な事実に、僕は立っていることさえままならなかった。父の厳格さと沈黙は、無関心ではなかった。それは、美咲の記憶という呪いから僕を守ろうとする不器用な盾であり、そして彼自身もまた、愛する娘の記憶に苛まれ続ける苦しみの表れだったのだ。
「記憶は美しいだけじゃない。時には重すぎる枷になる。俺たちは美咲を愛するあまり、その思い出の中に閉じ込められてしまったんだよ」
父の顔を、一筋の涙が伝った。僕が生まれて初めて見る、父の涙だった。僕たちの間にあった分厚い壁が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。
第四章 僕たちの物語
父の告白は、僕の世界を根底から覆した。けれど、不思議と絶望はなかった。むしろ、点と点が繋がり、家族という名の複雑なパズルの全体像が、ようやく見えたような気がした。僕たちは、バラバラの記憶の断片を抱え、それぞれが孤独に苦しんでいたのだ。
僕は一つの決意を固めた。
「父さん、母さんの病室へ行こう。三人で」
夜の病院は、しんと静まり返っていた。眠る母のベッドを、僕と父は囲むようにして立った。
「母さん、聞こえる?」
僕は、母の冷たい手を握りしめ、ゆっくりと語り始めた。
「僕が持ってる、美咲姉さんの記憶の話をするよ。それは、すごく晴れた日で、海の水は冷たかったけど、太陽がキラキラしてて……」
僕は、脳裏に焼き付いた蒼い残像を、一つ一つ言葉にして紡いでいった。砂の感触、波の音、父と母の笑い声。それはもはや、僕のものではない記憶ではなかった。僕の言葉を通して、それは僕自身の体験として、温かい熱を帯びていく。
すると、隣に立つ父が、途切れ途切れに続けた。
「……その日、美咲を初めて肩車したんだ。あいつ、怖がるかと思ったら、キャッキャと笑ってな。俺の髪をめちゃくちゃに掴んで……空を飛んでるみたいだって、言ってたな……」
父の声は震えていた。僕たちは、それぞれの記憶を差し出し、一つの物語を再構築していくように語り合った。僕の「海の記憶」と、父の「肩車の記憶」。それは、同じ一日の出来事だったのだ。
その時だった。母の閉じた瞼から、そっと涙が溢れ落ちた。そして、微かに唇が動いた。
「……タコさん…ウィンナー……あの子、好きだったから……」
母もまた、僕たちの物語を聞いていた。心の中で、自身の持つ「お弁当の記憶」を重ね合わせていたのだ。
僕たちは顔を見合わせた。相続された記憶は、個人が抱え込む重荷ではなかった。それは、家族で分かち合うための、絆の欠片だったのだ。一人が背負うには重すぎる悲しみも、三人で分かち合えば、それは温かい思い出の物語に変わる。
奇跡のように、その日を境に母は少しずつ回復に向かい始めた。まだ時間はかかるだろう。けれど、母の顔には確かな生気が戻っていた。
退院の日、僕たちは病院の屋上から、遠くに広がる街を眺めていた。父は、僕の肩にそっと手を置いた。それは、記憶の中の父が美咲にしたように、不器用で、けれど確かな温もりを持つ手だった。
僕は心の中で、会ったことのない姉に語りかける。
美咲姉さん、君の記憶は、もう僕たちを縛る呪いじゃない。それは、僕たち家族を繋ぐ、たった一つの物語になったんだ。だから、もう寂しくないよ。
見上げた空は、僕が何度も夢で見た、あの日の海の蒼さにどこまでも似ていた。家族とは、血の繋がりだけではない。痛みも、喜びも、そして記憶さえも分かち合い、共に新たな物語を紡いでいく存在なのだと、僕は確信していた。