浮遊する家、沈みゆく私
第一章 軽くなる石
朝の光が薄いカーテンを透かし、私の顔に落ちてくる。目を開けるよりも先に感じたのは、指先の奇妙な強張りだった。シーツを握る指は、まるで乾いた小枝のようにごわごわとして、滑らかさを失っている。ゆっくりと瞼をこじ開け、己の手のひらを見つめた。そこには、見慣れない深い皺が幾筋も走り、まるで知らない老人の手を見ているかのようだった。
「また、進んでいる……」
かすれた声が喉から漏れる。慌ててベッドから降り、姿見の前に立った。そこに映っていたのは、目元に影を落とし、数本の銀糸が髪に混じる、疲れ果てた女だった。ほんの数ヶ月前まで、私の身体は二十代の瑞々しさを保っていたはずなのに。この家に流れる時間が歪み始めてから、私の肉体は急速に萎び、枯れていく。
床が、みしり、と微かに軋む。それは気のせいではない。この月代(つきしろ)の家そのものが、ほんの僅かずつ、大地からその根を離し始めている証拠だった。かつて、私たちの家族は、この土地で最も「重い」一族だった。何世代にもわたって積み重ねられた共有の歴史――記憶、経験、伝統――が、巨大な錨のように家を大地に繋ぎ止め、誰にも揺るがすことのできない安定を与えていたのだ。
朝食の席は、氷のように冷え切っていた。父も母も、まるで影のように気配を消し、黙々と匙を口に運ぶだけ。弟の蒼太は、食べ終えるや否や「ごちそうさま」と呟き、自分の部屋へと消えていく。食卓に残るのは、私と、この家の重さを一身に体現してきたはずの祖母・咲だけだった。
「陽向」
祖母の厳しい声が、静寂を破る。
「仏間の『重石』を清めておきなさい」
「はい、お祖母様」
仏壇の脇に鎮座する『家族の重石』は、月代家の歴史そのものだった。代々の当主が受け継いできた、黒曜石のように艶やかな手のひらサイズの石。家族の絆が深まり、歴史が刻まれるたびに、それは物理的な重さを増していく。私が子供の頃は、両腕で抱えてもびくともしないほどの重さがあった。
しかし、今、私がその石に触れた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
ひやりとした感触も、ずしりとした重みもない。まるで鳥の骨のように多孔質で、驚くほど軽い。片手で軽々と持ち上がった石は、私の掌の上で頼りなげに鎮座している。その表面はかつての光沢を失い、風化したようにざらついていた。家族の歴史が、絆が、この石から急速に抜け落ちている。家の浮遊と、私の老化。その原因が、この石の異変と分かちがたく結びついていることを、私は確信した。
第二章 地を離れる記憶
家の浮遊は、日増しに顕著になっていった。始めは床の微かな傾きだったものが、やがて窓の外の景色が明らかに変わることで、誰の目にも明らかになった。庭の桜の木の梢が、今では私の部屋の窓と同じ高さに見える。風が吹くたび、家全体が巨大な船のようにゆっくりと揺れ、壁や柱が悲鳴のような音を立てた。
「どうして黙っているの! このままじゃ、家が、私たちみんなが、バラバラになってしまう!」
私は、古いアルバムをテーブルに広げ、家族に訴えかけた。色褪せた写真の中では、祖父母も、若い頃の両親も、幼い私も蒼太も、皆が屈託なく笑っている。この頃の重石は、温かく、そして心地よい重さで満ちていた。
だが、父も母も、ただ困ったように微笑むだけ。彼らの瞳には、もはや過去を懐かしむ光は宿っていない。
「そんな昔の話、もううんざりなんだよ」
蒼太が吐き捨てるように言った。「古いだけの歴史なんて、重たい鎖と同じだ」
その言葉は、私の胸に鋭く突き刺さった。絆を取り戻そうとする私の努力は、空回りするばかりだった。家の中に満ちているのは、懐かしい土の匂いではなく、どこからか吹き込んでくる乾いた風の匂いだけだった。
夜、私は祖母の部屋の前に立った。
「お祖母様、本当のことを話してください。重石が軽くなっているのです。この家は歴史を失っています。一体、何があったのですか」
障子越しの祖母は、しばらく沈黙していたが、やがて静かに、しかし有無を言わせぬ力強さで答えた。
「月代の歴史は、この大地よりも重い。揺らぐことなど、ありはせぬ」
その声は震えていた。祖母は何かを知っている。この崩壊の中心にある、恐ろしい何かを。
その夜、私は家のきしむ音で目を覚ました。窓の外には、信じがたい光景が広がっていた。眼下に広がるのは、見慣れた街の灯りではなく、うねるように流れる雲の海だった。私たちの家は、もう完全に地上を離れ、夜空を漂流していた。月明かりが雲を白く照らし出し、幻想的でありながら、底知れない恐怖を掻き立てる。このままどこへ流されていくのか。私たちの根は、もうどこにもない。
第三章 罪の奔流
数日後、嵐が来た。風が唸りを上げ、浮遊する家を木の葉のように翻弄する。雷鳴が轟くたびに家は激しく揺れ、棚から食器が滑り落ちて甲高い音を立てて砕け散った。私たちは、ただ床にうずくまり、なす術もなくこの暴力的な揺れに耐えるしかなかった。
「もう嫌だ!」
蒼太が絶叫した。恐怖と、長年の鬱屈が入り混じった叫びだった。
「こんな重苦しいだけの家、いらない! 歴史なんて、伝統なんて、全部捨ててしまえばいいんだ! 俺は自由になりたいんだ!」
その言葉が、最後の引き金となった。
蒼太の叫びに応えるかのように、仏間に安置されていた『家族の重石』が、部屋全体を白く焼き尽くすほどのまばゆい光を放った。私は思わず駆け寄り、その石を手に取る。信じられないことに、石はもはや何の重さも持たず、私の掌の上で羽根のようにふわりと浮いていた。
そして、光の奔流と共に、石からおびただしい数の映像が溢れ出した。それは、私たちの知らない、知らされていなかった月代家の「真の歴史」だった。
豊かな土地。静かに暮らす小さな家族たち。そこに現れる、私たちの祖先。彼らは、力ずくで他の家族から土地を奪い、記憶を奪い、歴史を奪っていた。奪われた者たちの嘆き、悲しみ、呪詛。それらが凝り固まり、物理的な「重さ」となって、月代の繁栄の礎となっていたのだ。私たちが誇りにしてきた歴史の重さとは、他者の犠牲と抑圧の上に築かれた、罪の重さに他ならなかった。
「ああ……」
祖母がその場に崩れ落ちた。その顔は苦痛に歪み、深い皺から涙が止めどなく溢れていた。
「これが…我らが代々、隠し続けてきた罪の重さじゃ…」
祖母は、この忌まわしい歴史を石に封じ込めることで、一族を守ろうとしてきた。しかし、家の重苦しさに反発し、無意識に「解放」を願った蒼太の心が、その固い封印を解き放ってしまったのだ。
家族が「軽く」なることは、忘却ではなかった。それは、罪からの解放の始まりだった。
第四章 風と旅立つ者たち
真実が明かされた後、家の中を支配したのは、新しい種類の静寂だった。以前の冷たく断絶された沈黙ではない。共有された罪の意識と、解放への戸惑い、そして微かな安堵が入り混じった、複雑な静けさだった。
私の老化は、もう止まらなかった。鏡に映る自分は、日に日に祖母の姿に近づいていく。だが、不思議と心は凪いでいた。頬を刻む一本一本の皺が、偽りの歴史という重い皮膚を脱ぎ捨てた証のように思えた。
私は、羽根のように軽くなった『家族の重石』をそっと握りしめ、家族に向き直った。
「私たちは、もう地面には戻れないのかもしれない」
私の声は老人のようにしゃがれていたが、そこには確かな意志が宿っていた。窓の外を指さす。嵐は過ぎ去り、東の空が白み始めていた。
「でも、どこへだって行ける」
その言葉に、祖母は静かに頷き、その目から一筋の涙がこぼれ落ちた。父と母は、何年ぶりかにお互いの手を取り合っていた。蒼太は、私を真っ直ぐに見つめている。その瞳にはもう反抗の色はなく、共に未来を見つめる者の光があった。罪の重圧から解き放たれ、脆く、不確かではあるが、新しい形の絆が私たちの間に生まれつつあった。
家は、ゆっくりと、しかし確実に上昇を続ける。
私は皺の刻まれた手で窓を押し開けた。夜明けの冷たく澄んだ風が、勢いよく部屋に流れ込み、私たちの髪を、衣服を、そして心を撫でていく。身体は老い、住む家は根を失った。しかし、私の魂は、かつてないほど軽く、自由だった。
偽りの重さに縛られていた家族は、今、風になったのだ。どこまでも続く空へ、償いと再生の旅が始まる。私たちの行く先が天国なのか、それとも永遠の放浪なのかは、誰にも分からない。それでも、私たちは共にいる。それだけで、十分だった。