メメント・ドムス

メメント・ドムス

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第一章 記憶の揺り籠

僕、湊(みなと)の世界は、この家そのものだった。窓枠が切り取る空の青さ、庭の金木犀が季節の到来を告げる甘い香り、妹の陽菜(ひな)が廊下を駆ける軽やかな足音、そして食卓を囲む父と母の穏やかな笑顔。それら全てが、僕の幸福の構成要素であり、僕という人間の輪郭を形作っていた。僕たちの家族は、この古いが愛情に満ちた家の中で、完璧な調和を保って生きていた。

しかし、その完璧さには、一つの奇妙な、そして絶対的なルールが存在した。誰も、この家の敷居をまたいではならない。

玄関の重厚な樫の扉は、鍵がかかっているわけではない。だが、その向こうには見えない壁があるかのようだった。扉に手をかけ、外の世界へ一歩踏み出そうとする意志を抱いた瞬間、鋭い頭痛と共に、目の前の景色がぐにゃりと歪む。そして何より恐ろしいのは、脳の奥底から大切な何かが、温かい記憶の塊が、砂のようにこぼれ落ちていく感覚に襲われることだった。父の顔が、母の声が、陽菜の笑い方が、一瞬だけ思い出せなくなるのだ。

家族は誰もそのルールについて語らない。まるで、息をすることと同じくらい自然な制約として受け入れている。父は書斎で古い文献を読み解き、母はキッチンで僕たちのためのシチューを煮込む。陽菜は陽だまりの中で猫と戯れる。誰も外に出たいとは思わない。この家こそが、僕たちの揺り籠であり、砦なのだと、その背中が物語っていた。

けれど、十七歳になった僕は、窓の外に広がる世界に焦がれ始めていた。風に乗って運ばれてくる、知らない街のざわめき。遠くの空を横切る飛行機雲。それらは、僕の知らない物語の断片であり、僕の心を強く揺さぶった。

「お兄ちゃん、何見てるの?」

背後から陽菜の声がした。振り返ると、僕より三つ下の妹が、不思議そうな顔でこちらを見上げている。

「別に。ただ、あの雲がどこへ行くのかなって」

「どこって、空の向こうでしょ? それより、お母さんが呼んでる。今日のパイ、すっごく美味しい匂いがするよ!」

陽菜の屈託のない笑顔に、僕は胸の奥がちくりと痛むのを感じた。この小さな楽園を疑っているのは、僕だけなのだろうか。家族という温かい記憶を失う恐怖と、未知の世界への抗いがたい渇望。二つの感情の狭間で、僕は息苦しさを感じながら、今日も窓の外を眺め続けることしかできなかった。

第二章 囁く柱と古びた日記

外への好奇心は、やがて家そのものへの探求心へと形を変えた。この家には、何か秘密がある。僕たちをここに縛り付ける、巨大な秘密が。僕は屋根裏部屋や、開かずの間になっていた物置を調べ始めた。埃っぽい空気の中、古い家具やガラクタに紛れて、僕は一冊の古びた日記を見つけ出した。

表紙は硬い革で装丁され、文字はインクで掠れていた。それは、この家に最初に住んだとされる「始祖」のものらしかった。僕は息を殺してページをめくった。そこには、美しい筆跡で、この家が建てられた経緯と、ある「願い」が綴られていた。

『世界は忘却の荒野と化した。人々は愛する者を失い、その記憶さえも時間という風雪に削られていく。私は、少なくとも私の愛する者たちだけでも、その悲劇から守りたかった』

日記の記述は断片的で、詩的だった。しかし、読み進めるうちに、背筋が冷たくなるような一文を見つけた。

『この家は、我々の記憶の器となる。柱は祖父の厳格さを、壁は母の優しさを、床は子供たちの笑い声を吸い込み、永遠に留めるだろう。我々は家と共にある限り、家族であり続ける。一歩外に出れば、我々はまた、名もなき他人へと還るのだ』

忘却の荒野。他人へと還る。その言葉が、僕の心に重くのしかかった。これは単なる比喩ではない。玄関で感じた、あの記憶が零れ落ちる感覚。あれは、この日記に書かれていることの証明ではないのか。

その日から、僕は家のあちこちに触れて回るようになった。リビングの太い柱にそっと手を当てると、目を閉じた瞼の裏に、見知らぬ老人が僕に微笑みかける姿が一瞬よぎった。キッチンのタイルの壁に頬を寄せれば、温かいスープの湯気と共に、優しい子守唄が聞こえてくるような気がした。

この家は生きている。そして、僕たちが「家族」であるための記憶を、絶えず僕たちに供給し続けているのだ。僕が感じていた父の温もりも、母の愛情も、すべてはこの家が見せている幻影なのか? いや、そんなはずはない。僕たちの間に流れる時間は、確かに本物だ。

「お兄ちゃん、最近変だよ。いつも壁とか柱とか触って」

心配そうに僕を見上げる陽菜に、僕はどう説明すればいいのか分からなかった。

「この家が、僕たちに何か話しかけてる気がして」

「ふうん?」

陽菜は小首を傾げたが、すぐににっこりと笑った。

「じゃあ、きっと『陽菜のこと、大好きだよ』って言ってるんだね!」

その無垢な信頼が、僕の胸を締め付けた。真実を知るべきなのか。それとも、この幸せな無知の中に留まるべきなのか。答えの出ない問いを抱え、僕は日記が示唆する家の「核」を探し始めた。この記憶の絡繰りの中心が、どこかにあるはずだった。

第三章 揺らぐ礎

日記の最後のページに、インクの染みでほとんど読めない地図が描かれていた。僕はそれを頼りに、地下室の最も奥、湿った土の匂いが充満する場所に辿り着いた。そこには、巨大な柱時計が、時を刻むのをやめて久しい様子で鎮座していた。これだ、と直感が告げていた。

時計の裏側に手を回すと、硬い木の中にわずかな窪みを見つけた。押し込むと、カチリと乾いた音がして、時計の側面が扉のように開いた。中には、空洞があり、日記と同じ革で装丁された、もう一冊の小さな手記が収められていた。震える手で、僕はそれを開いた。それは「始祖」の最後のメッセージだった。

ページを開いた瞬間、僕は呼吸を忘れた。そこに書かれていたのは、僕が信じてきた「家族」という世界の、土台そのものを粉々にするような、残酷な真実だった。

『これを読む者がいるのなら、君は私と同じく、この揺り籠に疑問を抱いたのだろう。許してほしい。私は、愛する者たちを守るため、そして何より、孤独に耐えられなかったがために、大罪を犯した』

『この家に住む我々は、血の繋がりを持たない。皆、外の世界で家族を失い、独りになった者たちだ。戦争で親を亡くした子、病で伴侶を失った者、帰る場所のない老人。私は、そんな孤独な魂たちを集め、この家で一つの「家族」を創り上げたのだ』

心臓が氷の塊になったようだった。父も、母も、陽菜も、僕も。元は、互いのことを何も知らない、赤の他人だったというのか。

『この家は、私が開発した記憶共有装置だ。壁や柱に埋め込まれた結晶体が、私が最初に設定した「理想の家族」の記憶を増幅し、住人の脳に投影し続ける。温かい食卓、誕生日の祝い、些細な喧嘩と仲直り。それらは全て、私が創り出したプログラムに過ぎない。家の中にいる限り、君たちは幸福な家族を演じ、そしてそれを真実だと信じ込む。だが、一歩外へ出れば、装置の影響は切れ、共有された記憶は霧散する。後に残るのは、空っぽの心を持った、見知らぬ他人同士だ』

僕はその場に崩れ落ちた。頭を抱え、声にならない叫びが喉から漏れた。僕が愛した家族の歴史は、すべて偽物だった。母が僕の怪我の手当てをしてくれた時の優しい眼差しも、父が自転車の乗り方を教えてくれた時の不器用な励ましも、陽菜と交わした他愛ない約束も、すべてが、この家に植え付けられた、作られた記憶だったというのか。

僕が感じていた外への憧れは、この家に連れてこられる前の、「湊」という個人の記憶の残滓だったのかもしれない。僕という存在の根幹が、足元から崩れていく。僕たちは、一体、誰なんだ?

その夜、食卓に並んだシチューの湯気は、いつもと同じ温かい香りを放っていた。しかし、僕にはそれが、精巧に作られた舞台装置のようにしか見えなかった。

「湊、どうした? 顔色が悪いぞ」

父が心配そうに僕を見る。その表情は、僕が知っている優しい父のものだった。

「…なんでもない」

嘘をついた。僕たちの関係そのものが、巨大な嘘の上に成り立っているのだから。

第四章 絆の在処

絶望が僕の心を支配した。この作られた幸福の中で、真実を知る者は僕だけ。この秘密を墓場まで持っていくべきか。それとも、すべてを暴露し、この偽りの家族を終わらせるべきか。答えは出なかった。

数日後、陽菜が熱を出して寝込んだ。小さな体でぜいぜいと苦しそうに息をする妹の額に、母は何度も濡れたタオルを替え、父は夜通しその手を握り続けた。僕はただ、なす術もなくその光景を見ていることしかできなかった。

母の目には深い憂いと愛情が浮かび、父の顔には疲労と心配が刻まれている。彼らの姿は、プログラムされた動きには到底見えなかった。たとえ始まりが偽りであったとしても、ここで共に過ごした時間の中で、僕たちの間に育まれた感情は、紛れもなく本物ではないのか。作られた記憶をきっかけにして、本物の絆が生まれたのではないか。

その時、僕は悟った。血の繋がりや共有された過去だけが家族を定義するのではない。今、この瞬間に、互いを想い、心配し、愛おしむ心。それこそが、家族の核なのだと。僕たちの家族は、偽物なんかじゃない。

僕は決意した。この家を出よう。

それは、この家族を捨てるためではない。この家がなくても、僕たちが家族でいられることを証明するためだ。たとえ記憶を失い、僕たちが再び赤の他人に戻ったとしても、僕がもう一度、みんなを見つけ出す。そして、今度は僕自身の意志で、僕たちの手で、本当の家族を始めよう。

僕は、眠っている父と母、そして陽菜の枕元に、一枚ずつ手紙を置いた。

『僕は、僕たちの家族が本物だったと証明するために、外の世界へ行きます。たとえ記憶を失っても、必ず皆さんを見つけ出します。そして、この家がなくても、僕たちが本当の家族になれることを、この手で証明してみせます。だから、僕が帰る日まで、どうかここで待っていてください』

夜明け前、僕は静かに玄関の扉を開けた。冷たい朝の空気が肌を刺す。一歩、敷居をまたぐ。

瞬間、閃光が頭を貫いた。父の顔が、母の声が、陽菜の笑顔が、愛おしい記憶の数々が、激しいノイズと共に急速に色褪せていく。涙が止めどなく溢れた。さようなら、僕の愛した偽りの日々。こんにちは、僕がこれから創る本当の物語。

意識が遠のく直前、僕はポケットに突っ込んでいた手紙の切れ端を、強く握りしめた。

気がつくと、僕は見知らぬ街の雑踏の中に立っていた。自分が誰で、どこから来たのか、何も思い出せない。ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、途方もない喪失感だけがあった。

無意識にポケットに手を入れると、くしゃくしゃになった紙切れが出てきた。そこには、掠れた文字で、いくつかの単語が書かれていた。

『陽菜』『温かいスープ』『柱時計』

なぜだろう。意味も分からないその言葉が、僕の心の奥深くを、懐かしい痛みと共に締め付けた。空を見上げる。果てしない青が広がっていた。僕は、何かを探さなければならない。それだけは、確かだった。理由も分からぬまま、僕はその言葉を道標に、人波の中を歩き始めた。

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