第一章 残響の食卓
キッチンの換気扇が低く唸る音に混じって、その声は聞こえた。
「おかえりなさい、健太さん。今日は早かったのね」
「ああ、ただいま、美咲」
壁に向かって答える俺、水島健太(みずしまけんた)の姿は、傍から見れば狂人のそれに近いだろう。だが、五歳になる息子の陽太(ようた)は、ランドセルを放り投げるなり、何もない空間に向かって満面の笑みで叫んだ。
「ママ、ただいま! 今日ね、お絵かきで金色の星をもらったんだよ!」
「まあ、すごいわ、陽太。頑張ったのね」
鈴を転がすような、優しく澄んだ声。一年前に交通事故でこの世を去った妻、美咲の声だ。
この世界では、強い想いを遺して亡くなった人間の「声」が、エコーとしてその場所に留まることがある。それは科学では解明できない、一種の現象だった。エコーは姿もなければ、物に触れることもできない。ただ、生前の人格と記憶を宿した「声」だけが、まるでそこにいるかのように家族との対話を続ける。しかし、永遠ではない。記憶の残滓であるエコーは、通常一年ほどで徐々に薄れ、言葉を失い、やがて完全に消滅する。それが、この世界の常識であり、残酷な猶予期間だった。
美咲のエコーが発現してから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
「パパ、手、洗ってくる!」
陽太が洗面所へ駆けていく。その背中を見送りながら、俺は再びキッチンに声をかけた。
「今日の夕飯、どうしようか。陽太のリクエストはハンバーグなんだが」
「ハンバーグ、いいわね。玉ねぎはしっかり炒めてあげて。甘くなるから」
「分かってるよ」
そんな会話が、俺たちの日常だった。美咲を失った絶望の淵で、このエコーがどれほどの救いになったことか。陽太は母親の声を失わずに済み、俺は妻との対話を続けられた。まるで、彼女がまだ、この家のどこかに息づいているかのように。俺たちは、この奇妙で儚いバランスの上で、家族であり続けていた。
しかし、最近、その完璧な均衡に微細な亀裂が入り始めていることに、俺は気づかないふりをしていた。
夕食の最中、陽太が今日の出来事を夢中で話している時だった。
「それでね、ユイちゃんがね、僕の絵を見て『すごーい』って言ってくれてね、それでね…」
「そう、よかったわね、陽太。よかったわね…」
美咲の声が、わずかに同じ言葉を繰り返した。俺の心臓が小さく跳ねる。気のせいだ、と自分に言い聞かせる。だが、食事が終わる頃には、また。
「ごちそうさまでした。おいしかったわ。おいしかった…」
その声は、テープが伸びてしまったかのように、ほんの少しだけ間延びして聞こえた。俺は黙って食器を重ねる。陽太は何も気づいていない。無邪気に笑っている。その笑顔が、時限爆弾のタイマーのように見えて、俺は目を逸らした。終わりは、静かに、だが確実に近づいていた。
第二章 ひび割れた日常
決定的な出来事は、幼稚園からの電話で訪れた。陽太が友達と喧嘩をしたという。迎えに行くと、しょんぼりと俯く陽太と、困惑した表情の若い女性教諭、そして腕に絆創膏を貼った男の子とその母親が待っていた。
話を聞けば、原因は些細なことだった。その男の子が「陽太くんのママ、運動会に来なかったね」と言ったのに対し、陽太が「ママはいつもおうちにいるもん!」と叫び、揉み合いになったらしい。
「うちの子も、悪気はなかったんだと思うんですけれど…」
相手の母親が申し訳なさそうに言う。俺はひたすら頭を下げた。
帰り道、陽太は黙り込んでいた。いつもは賑やかな帰り道が、重い沈黙に支配される。
「陽太」
俺が声をかけると、陽太は小さな声で呟いた。
「…ぼく、嘘ついてない。ママは、おうちにいるもん」
その言葉が、鋭いガラスの破片のように胸に突き刺さった。俺は陽太に、この世界の「エコー」という現象をどう説明すればいいのか分からなかった。ママは声だけなんだ、と。もうすぐその声も消えてしまうかもしれないんだ、と。そんな残酷な真実を、この小さな背中にどうして告げられるだろうか。
「…ああ、そうだな。ママは、おうちにいるな」
そう答えるのが精一杯だった。俺は陽太を守るためと称して、美咲のエコーが存在するこの歪んだ日常に、息子ごと閉じ込めていたのだ。
その夜、事件は起きた。
俺が風呂から上がると、リビングから陽太の泣き声が聞こえた。慌てて駆けつけると、陽太がリビングの何もない空間に向かって、必死に何かを訴えていた。
「ママ、なんで? なんでお返事してくれないの? ママ!」
俺は息を呑んだ。リビングはしんと静まり返っている。いつもなら「どうしたの、陽太?」と優しい声が返ってくるはずの空間が、完全な沈黙を守っていた。
「美咲…? 美咲!」
俺が叫んでも、返事はない。ただ、部屋の隅の空気清浄機が、無機質な音を立てているだけだった。
終わってしまったのか? 前触れもなく?
絶望が全身を駆け巡った、その時だった。
「…………どう、したの…?」
か細く、ノイズが混じったような声が、不意に響いた。それは明らかに、以前の美咲の声とは違っていた。音程が不安定で、言葉の輪郭がぼやけている。
陽太は「ママ!」と顔を上げたが、その声の異変に気づいたのか、不安げに俺を見上げた。
「大丈夫よ…大丈夫…だから…大丈夫…」
壊れたレコードのように、エコーは同じ言葉を繰り返す。俺の不安をなぞるように、ただ空虚に響く。それはもはや、美咲の意志ある言葉ではなかった。ただの音の残響。記憶の断片。
俺は陽太を強く抱きしめた。その小さな体が小刻みに震えている。
「パパ…ママ、変だよ…」
「大丈夫だ。大丈夫だから」
俺は、今にも消えそうな妻のエコーと同じ言葉を繰り返していた。このひび割れた日常を、必死で繋ぎ止めようとしながら。
第三章 カセットテープの告白
それから数日、美咲のエコーは著しく劣化した。まともな会話は成立せず、俺や陽太の言葉に反応して、生前の口癖だった単語を途切れ途切れに返すだけになった。「…きれいね…」「…ありがとう…」「…あいしてる…」。その一つ一つが、彼女の存在が砂のようにこぼれ落ちていく音に聞こえた。俺は無力感に苛まれ、仕事も手につかなくなった。
その夜、エコーはついにほとんど言葉を発しなくなった。俺が何を話しかけても、微かな息遣いのような音が返ってくるだけだった。もう、終わりだ。一年という猶予期間の、本当の終わり。俺はソファに崩れ落ち、顔を覆った。止めどなく涙が溢れる。二度目の、妻の喪失だった。
その時、子ども部屋から陽太が何かを大事そうに抱えて出てきた。それは、俺も見覚えのある、古ぼけたポータブルカセットプレーヤーだった。
「パパ、これ…」
陽太が俺に差し出す。
「ママがね、前に言ってたんだ。『パパがすごく悲しくなったら、これを聞かせてあげて』って。『一番大事な声が入ってる』って」
生前の美咲が、陽太にそんなことを? 俺は全く知らなかった。自分の死を予感していたとでもいうのか? 俺は震える手でプレーヤーを受け取り、再生ボタンを押した。
ジー、というノイズの後、スピーカーから流れ出したのは、紛れもなく美咲の声だった。しかし、それは俺の知らない、少し若い、そして涙で震えている声だった。
『お母さん…聞こえる? 私、美咲だよ…今日ね、大学に合格したんだよ。お母さんが応援してくれてた、あの大学…』
お母さん? これは、俺たちの結婚前に亡くなった、美咲の母親…つまり義母との対話?
テープの中の美咲は、泣きながら誰かに語り掛けていた。
『…エコー、もうすぐ消えちゃうんでしょ…? 嫌だよ、いなくならないでよ…! 私、お母さんの声がないと、頑張れないよ…』
俺は愕然とした。美咲もまた、俺と同じように、大切な家族のエコーとの別れを経験していたのだ。彼女は、母親のエコーが消える直前の最後の声を、必死でこのテープに録音していたのだ。
テープからは、さらに途切れ途切れの、老いた女性の声が聞こえてきた。義母のエコーの声だろう。
『…みさき…だいじょうぶ…あなたは、つよ…い、から…あいして…るわ…』
それが、義母の最後の言葉だった。テープの中で、若い美咲の嗚咽が響く。俺は、妻が一人で抱えていた巨大な悲しみの正体を、この時初めて知った。彼女は、俺が知らないところで喪失を乗り越え、その痛みを抱えたまま、太陽のように笑っていたのだ。
テープが終わりに近づいた時、不意に音が途切れ、数秒の無音の後、再び声がした。今度は、俺のよく知る、ここ数年の、妻・美咲の声だった。穏やかで、愛情に満ちた声。
『これを聴くのが、健太さんなのか、それとも大きくなった陽太なのか、私には分かりません。もしかしたら、誰も聴くことなく、このテープは忘れ去られるのかもしれない。でも、もし、私の愛する誰かが、どうしようもない悲しみの中にいるのなら、これだけは伝えたくて』
俺は息を詰めて、その言葉に耳を澄ませた。
『声は、消えます。姿も、温もりも、いつかは記憶の彼方にいってしまうかもしれない。でも、大丈夫。愛された記憶は、決して消えないから。それはあなたの中に光として残って、これからの道を照らしてくれるから。だから、顔を上げて。私は、あなたの中にいる』
それは、俺や陽太個人に向けられた言葉ではなかった。かつて自分が母親から受け取った愛を、未来の誰かに繋ごうとする、普遍的で、あまりにも強い愛のメッセージだった。
第四章 声なき朝
テープを聴き終えた翌朝、家は完全な静寂に包まれていた。
美咲のエコーは、跡形もなく消えていた。
キッチンに立っても、「おかえりなさい」の声はしない。陽太が「ママ、おはよう!」と叫んでも、優しい返事はない。空虚な空間が、ただそこにあるだけだった。
だが、俺の心は不思議と穏やかだった。昨日までの、胸を掻きむしるような絶望はない。代わりに、温かい光が心の中心を灯しているような、不思議な感覚があった。
リビングで立ち尽くす陽太の小さな肩が、震えているのが見えた。俺はゆっくりと歩み寄り、その小さな体を後ろから抱きしめた。
「陽太」
「…ママ、いないね」
「ああ。もう、いない。声も、聞こえない」
陽太の体温が、服越しにじんわりと伝わってくる。
「でもな、陽太。ママは、パパと陽太の心の中にいるんだ。ずっと、一緒だ」
俺は、美咲がテープに残した言葉を、自分自身の言葉として息子に伝えていた。陽太はこくりと頷き、俺の腕に小さな手を重ねた。涙は流していなかった。あいつは、俺よりずっと強いのかもしれない。
俺はカセットプレーヤーを棚の奥深くにしまい込んだ。もう、あのテープを聴くことはないだろう。聴かなくても、大丈夫だ。美咲の最後のメッセージは、声としてではなく、一つの確かな力として、俺の中に根付いていたから。
窓を開けると、ひんやりとした朝の空気が流れ込んできて、淀んでいた家の中の空気を洗い流していくようだった。
家族とは、何なのだろう。共に食卓を囲み、言葉を交わすことだけが家族なのか。違う。きっと、そうじゃない。
声がなくても、姿が見えなくても、受け取った愛を胸に抱き、その愛を次の誰かに手渡そうとすること。そうやって見えない光のバトンを繋いでいくことこそが、「家族」というものの本質なのかもしれない。
美咲の声はもう聞こえない。だが、彼女が遺した愛は、エコーとなって俺と陽太の心に響き続けている。俺は陽太の手を強く握った。さあ、朝ごはんにしよう。声なき朝は、新しい日常の始まりだった。