メメント・グラフィティ

メメント・グラフィティ

0 4864 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 忘却科の劣等生

私立碧葉(へきよう)学園の生徒である僕、水瀬湊(みなせみなと)は、エリート校の生徒という響きとは程遠い、いわゆる「劣等生」だった。この学園には、普通の高校には存在しない特殊な必修科目がある。――「忘却術」。それは、不要な記憶、特に精神を蝕むトラウマや悲しみを、意思の力で意識下から完全に消去するための技術だ。卒業生たちは、その冷静沈着な判断力を買われ、社会のあらゆる中枢で活躍することが約束されていた。忘れることは、ここでは美徳であり、強さの証なのだ。

そして僕は、その科目が絶望的に苦手だった。

「水瀬君。今月の実習評価、またD判定だ」

白一色の無機質な忘却実習室で、担当教官である白川先生が溜息混じりに告げる。壁も床も、目の前の机も、すべてが記憶を漂白するかのような純白。ここでは、目を閉じて瞑想し、指定された些細な記憶――例えば、「三日前の昼食の味」や「先週見た映画の結末」――を、頭の中から綺麗に霧散させる訓練を繰り返す。優秀な生徒は、まるでハードディスクのデータを削除するように、淀みなく記憶を消し去っていく。

だが僕には、それができなかった。消そうとすればするほど、記憶は鮮明な色彩と手触りを伴って蘇ってくる。三日前のナポリタンの、ケチャップの甘酸っぱい香り。映画の主人公が流した、一筋の涙の煌めき。僕にとって記憶とは、消しゴムで消せる鉛筆の跡ではなく、石に刻まれた碑文のようなものだった。

「君は過去に執着しすぎている。特に……その『姉君』の記憶にね。それが枷となって、他の記憶の忘却をも妨げている。卒業したければ、その最も重い記憶を、まず手放すことから考えなさい」

白川先生の言葉は、僕の胸を鋭く抉った。姉さん。三年前に病気で死んだ、僕のたった一人の家族。陽だまりのような笑顔、僕の頭を撫でてくれた手の温もり、病室で最後に交わした、掠れた声の「ありがとう」。それを忘れろと? まるで、自分自身を半分殺せと言われているようなものだった。

「……できません」

「ならば、君はここで永遠に留年することになる」

冷たく言い放たれた言葉に、僕は唇を噛むしかなかった。教室に戻る廊下で、僕は一人の女生徒とすれ違った。朝比奈陽詩(あさひなひなた)。忘却術で常にトップの成績を収める、学年一の優等生だ。色素の薄い髪が窓からの光を吸い込んで、まるで後光のように見えた。彼女は、どんな辛い記憶も、まるで水に流すように忘れられるという。その凪いだ湖面のような瞳と目が合った瞬間、僕は得体の知れない恐怖と、ほんの少しの憧れを感じていた。どうして君は、そんなにも静かでいられるんだ?

第二章 凪のような少女

忘却術の才能がない僕に、朝比奈陽詩は時折、声をかけてくれるようになった。きっかけは、僕が図書館で忘却術に関する古い文献を読み漁っていたことだった。

「水瀬君は、真面目だね」

背後からかけられた声は、彼女の佇まいそのもののように、静かで透き通っていた。振り向くと、陽詩が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。

「忘れるのが、苦手なんだ。君みたいに、上手くできなくて」

自嘲気味に言うと、彼女は僕の隣の椅子に静かに腰掛けた。本のページを繰る彼女の指先は、雪のように白く、儚げだった。

「忘れるのは、技術じゃないよ。……優しさ、かな。自分と、周りの人に対する」

「優しさ?」

「うん。辛い記憶を抱え続けていたら、人は前に進めないから。大切な人を悲しませてしまうかもしれないから。だから、忘れてあげるの。それは、未来への贈り物なんだよ」

彼女の言葉は、まるでどこか遠い国の詩のように聞こえた。僕には到底理解できない哲学。だが、彼女と話していると、がんじがらめになっていた心が少しだけ解けるような気がした。僕たちは放課後、時々二人で話すようになった。彼女はいつも穏やかで、僕のくだらない話にも静かに耳を傾けてくれた。けれど、彼女自身の過去について尋ねると、決まって困ったように微笑み、「ごめんね、もう忘れちゃった」と答えるだけだった。彼女の中には、過去という名の引き出しが存在しないかのようだった。

ある雨の日、僕たちは学園の奥にある、今は使われていない旧資料室に迷い込んだ。雨漏りの音が、ぽつり、ぽつりと静寂にリズムを刻んでいる。埃っぽい書架の隙間で、僕たちは一つのファイルを見つけた。それは、『メモリア・プロジェクター』と題された、古ぼけた研究記録だった。

「記憶……投影装置?」

設計図らしきものと、数枚の報告書。それは、人の記憶を外部のスクリーンに映像として投影する、夢のような機械の記録だった。報告書には「被験者の深層意識とのリンクにより、共有不可能な主観的体験の客観的再現を試みる」とある。しかし、プロジェクトは『被験者の精神的負荷が甚大である』という理由で、数年前に凍結されていた。

「すごい……。これがあれば、僕の見てきたものを、君にも見せられるかもしれない」

僕は興奮して言った。姉さんの笑顔を。僕が何故、記憶を手放せないのかを。言葉では伝えきれない、あの温かい世界を。陽詩は、設計図を眺める僕の横顔を、じっと見つめていた。その瞳の奥に、初めて見る、読み取れない微かな揺らぎが宿っていることに、その時の僕はまだ気づかなかった。

第三章 投影された真実

卒業試験が間近に迫っていた。最終課題は、やはり『最も執着する記憶の完全忘却』。僕にはもう、時間が残されていなかった。白川先生の言葉が、脳裏をよぎる。このままでは、僕は碧葉学園という名の白い牢獄から出られない。

僕は決意した。姉さんの記憶を、忘却しよう。でも、その前に。一度だけでいい。僕が大切にしてきたこの宝物を、陽詩に見てほしい。僕が何を失い、何を得ようとしているのかを、唯一心を開いた彼女にだけは、分かってほしかった。

その夜、僕たちは旧資料室に忍び込んだ。月の光が、埃っぽい室内に銀色の筋を描いている。幸いなことに、メモリア・プロジェクターの試作機は、分厚いシートを被せられたまま、部屋の隅に眠っていた。僕たちは協力して機械を起動させる。古めかしい装置が低い唸りを上げ、レンズが鈍い光を放ち始めた。

僕はヘッドセットを被り、意識を集中する。姉さん。姉さんとの、最後の一年間の記憶。

壁に、光の粒子が舞い始めた。それはやがて像を結び、僕の記憶の世界を色鮮やかに再現していく。夏、二人で線香花火をした縁側。ぱちぱちと爆ぜる小さな火花と、姉さんの浴衣の柄。秋、落ち葉の絨毯を踏みしめて歩いた公園。僕の手を引く、少しだけ冷たい姉さんの手。そして、冬。真っ白な病室。細くなった腕で、僕の頬に触れた姉さんの、最後の微笑み。

「……綺麗」

陽詩が、ぽつりと呟いた。彼女は、壁に映し出された僕の聖域を、食い入るように見つめている。僕は安堵した。伝わった。僕の宝物が、彼女にも伝わったんだ。

だが、その時だった。僕は映像の中に、ある違和感を見つけた。どの記憶の片隅にも、公園の木陰にも、病室の廊下の向こうにも、ぼんやりとした人影が映り込んでいる。それは、まだ幼い、見覚えのある少女の姿だった。

「……陽詩?」

なぜ、君が僕の記憶の中にいるんだ?

投影された映像が、僕の混乱に呼応するように激しく揺らぐ。その瞬間、陽詩が静かに口を開いた。その声は、いつもの凪いだ響きを失い、か細く震えていた。

「水瀬君、ごめんなさい」

彼女は僕の目を見つめて、衝撃的な真実を告げた。

「私が……私が忘却科の優等生なのは、元々、執着するような過去を持っていないから。忘れるべき記憶なんて、何一つ持っていないからなの」

「……どういう、ことだ?」

「私は、人間じゃない。私は、あなたの『忘れたい』という強い願いが生み出した、記憶の幻。あなたの願望の集合体なの」

頭を殴られたような衝撃だった。陽詩の正体。それは、姉を失ったあまりの辛さに、僕自身が無意識のうちに切り離し、擬人化した「忘却への渇望」そのものだった。彼女の穏やかさも、忘れることを肯定する優しさも、すべては僕が「こうありたい」と願った理想の姿。彼女が忘れるのが得意だったのではない。固執する過去を持たない、空っぽの存在だったからだ。僕が彼女に惹かれたのは、僕が僕自身の一部に恋をしていたに過ぎなかったのだ。

第四章 忘れないという選択

目の前の少女が、僕自身の心の影だと知った時、世界から音が消えた。陽詩と過ごした放課後も、交わした言葉も、僕の中に芽生えた淡い想いも、すべては僕一人の、巨大な独り言だったというのか。絶望が、足元から僕を飲み込もうとしていた。

僕の表情を見て、陽詩は悲しげに微笑んだ。それは、僕が今まで見た彼女のどの表情よりも、人間らしい感情に満ちていた。

「でも、無駄じゃなかったでしょう? 私と過ごした時間は。あなたは一人で、出口のない悲しみに囚われていた。私は……あなたが、あなた自身と向き合うための、時間稼ぎだったのかもしれない」

彼女の言葉が、凍りついた僕の心を静かに溶かしていく。そうだ。彼女がいたから、僕は自分の弱さと向き合えた。忘れたいと願いながら、忘れられない自分を肯定しようともがけた。彼女は、僕が作り出した幻かもしれない。だが、彼女に救われた僕の心は、本物だ。

「私を忘れることが、あなたの本当の卒業試験。私という『忘れたい願望』そのものが消えれば、あなたは初めて、お姉さんの記憶を、ただ悲しいだけの重荷としてではなく、温かい力として抱きしめて生きていけるはず」

彼女はそう言って、僕に選択を委ねた。僕が「忘れること」を完全に受け入れれば、彼女という存在は役目を終え、僕の中に吸収されて消えるのだろう。それが、この学園が求める「卒業」の形。

僕はゆっくりと首を横に振った。涙が、頬を伝う。

「……忘れない」

声が震えた。でも、はっきりと告げた。

「忘れないよ。姉さんのことも。そして、君と過ごした時間のことも。全部、僕のものだ。辛いことも、悲しいことも、君という幻に恋をした愚かさも。全部抱えて、それでも僕は、前に進む」

それが、僕が見つけた答えだった。忘れることが強さじゃない。忘れられない弱さごと、すべてを引き受けて生きていくことこそが、僕にとっての本当の強さだ。

僕がそう決意した瞬間、陽詩の身体が、ふわりと光の粒子に変わり始めた。メモリア・プロジェクターの光とは違う、もっと優しくて、温かい光。僕の「忘れたい」という願いが消えたことで、彼女の存在意義が失われたのだ。

「ありがとう、水瀬君」

輪郭が薄れていく中で、彼女は最後に微笑んだ。

「忘れないでいてくれて、ありがとう」

その言葉を最後に、朝比奈陽詩という名の幻は、完全に光の中に溶けて消えた。後には、月の光が差し込む、静かな資料室だけが残された。

僕は忘却科の劣等生のまま、碧葉学園を卒業した。結局、僕は忘却術を一つも身につけられなかった。けれど、学園の門をくぐる僕の足取りは、驚くほど軽やかだった。空はどこまでも青く、吹き抜ける風が心地よかった。僕は、忘れることを学べなかった。その代わりに、何一つ失うことなく、記憶と共に生きる覚悟を学んだのだ。

ふと、制服のポケットに硬い感触が当たったのに気づく。取り出すと、それは一枚の小さなカードだった。いつの間に、誰が。そこには、陽詩のものによく似た、でも少しだけ違う、僕自身の筆跡でこう書かれていた。

『忘れないでいてくれて、ありがとう』

僕はそのカードを強く握りしめた。失った悲しみも、出会えた喜びも、すべてが今の僕を作っている。僕は、僕の物語のすべてを抱きしめて、新しい世界へと、力強く一歩を踏み出した。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る