空っぽの標本箱

空っぽの標本箱

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第一章 空っぽの標本箱

私立時織(ときおり)学園には、奇妙な卒業条件があった。それは、三年間で得た最も価値のある記憶を一つ選び出し、「記憶標本」として学園に献納すること。生徒たちは卒業が近づくと、自らの思い出を査定するように語り合い、特別な輝きを放つ記憶を探し始める。

放課後のラウンジは、そんな生徒たちの熱気に満ちていた。琥珀色の光が差し込む窓辺で、友人たちが互いの記憶を披露し合っている。

「私はやっぱり、県大会で逆転シュートを決めた、あの三秒間かな」

「僕は、初恋の子に告白して、砕け散ったあの夕焼け」

彼らの手元では、語られた記憶が淡い光の粒子となり、やがて手のひらサイズのガラス細工のような「記憶標本」へと結晶化していく。成功した標本は、その記憶の感動の度合いに応じて、複雑で美しい輝きを放つのだ。

その輪から少し離れた席で、水瀬櫂(みなせ かい)は冷めた紅茶を眺めていた。彼の心は、空になったティーカップのように空虚だった。

(価値ある記憶、か)

くだらない、と櫂は思う。まるで人生に値札を付けるような行為だ。そもそも、自分には献納に値するような、きらびやかな記憶など一つもない。平凡な毎日、可もなく不可もない成績、浅く広いだけの友人関係。彼の三年間は、どこを切り取っても色褪せたモノクロ写真のようだった。

「水瀬くんは、もう決めた?」

不意に声をかけられ、櫂は顔を上げた。そこに立っていたのは、クラスでも太陽のような存在感を放つ、相田陽菜(あいだ ひな)だった。彼女の周りだけ、空気が春めいているような錯覚に陥る。

「……まだだ」

「そっか。みんなすごいよね。私、まだ自分の記憶がうまく結晶にならなくて」

陽菜は困ったように笑うが、その表情には一片の曇りもない。櫂は、彼女のような人間が、思い出に困ることなどあるはずがないと思っていた。その屈託のなさが、櫂の劣等感を静かに刺激する。

「お前なら、いくらでもあるだろ。文化祭の主役だった記憶とか、ボランティアで感謝された記憶とか」

棘のある言い方だと自覚しながら、口から出てしまった。しかし陽菜は気にした様子もなく、首を横に振る。

「そういうのじゃ、ダメみたいなんだ。本当に、本当にたった一つの、特別なものじゃないと」

彼女の眼差しが、ふと遠くを見つめる。その瞳に宿る真剣な光に、櫂は少しだけ気圧された。

その夜、学園で奇妙な噂が広まり始めた。厳重に管理されているはずの地下の「記憶保管庫」で、献納されたはずのない、持ち主不明の『未来の記憶』が見つかった、と。そして、その靄(もや)のような不確かな記憶の断片は、なぜか水瀬櫂の未来を指し示しているらしい、という尾ひれまでついて。

櫂は自室のベッドの上で、その馬鹿げた噂を頭から追い払おうとした。だが、胸の奥で冷たく疼く空虚さが、得体の知れない期待と混じり合って、彼の眠りを浅くしていった。自分には価値ある過去がない。ならば、未来にそれを求めるしかないのだろうか。空っぽの標本箱を抱えたまま、櫂は暗闇の中で静かに身じろぎした。

第二章 誰かの未来の残滓

『未来の記憶』の噂は、櫂を学園のはぐれ者のようにした。好奇の視線、あるいは憐れむような視線が、廊下を歩くだけで背中に突き刺さる。彼はますます殻に閉じこもり、誰とも目を合わせずに過ごすようになった。

そんな櫂に、構わず話しかけてくるのは陽菜だけだった。

「ねえ、水瀬くん。記憶保管庫、行ってみない?」

昼休みの中庭。サンドイッチを頬張りながら、彼女はとんでもないことを言い出した。

「馬鹿か。あそこは卒業を控えた生徒でも、許可なく入れない」

「でも、噂のせいで水瀬くん、困ってるでしょ?原因を突き止めれば、きっと……」

「余計なお世話だ」

櫂は吐き捨てるように言って、その場を立ち去ろうとした。陽菜の純粋な善意が、今の彼には眩しすぎて痛い。

「待って!」

陽菜は彼の腕を掴んだ。その手は驚くほど熱を持っていた。

「私、探してるの。ずっと昔に失くしちゃった、すごく大切な記憶を。もしかしたら、そこにあるかもしれない。手がかりだけでもいい。お願い!」

必死な声だった。いつも明るい彼女からは想像もつかない、切実な響き。櫂は掴まれた腕を見つめた。陽菜の瞳は潤み、本気で何かに縋っているのがわかった。彼は、その瞳から逃れられなかった。

結局、櫂は陽菜と共に、立入禁止の札が下がる地下保管庫への扉の前に立っていた。古い指導教官の一人、森山先生に事情(の、一部)を話すと、先生は「探求心もまた、記憶の源泉だ」と謎めいた言葉を残し、一度だけ、と目を瞑ってくれたのだ。

重い鉄の扉を開けると、ひんやりとした、古書の匂いと微かなオゾンの匂いが混じった空気が流れ出してきた。保管庫の中は、プラネタリウムのように幻想的な空間だった。数え切れないほどの「記憶標本」が棚に並べられ、それぞれが内側から星屑のような光を放っている。卒業生たちが遺していった、人生の輝きの集積だ。

「すごい……」

陽菜が感嘆の声を漏らす。だが、櫂の目は別のものに釘付けになっていた。部屋の中央に、一つだけ異質なものが浮かんでいた。それは結晶化に失敗したかのような、輪郭のぼやけた灰色の靄。噂の『未来の記憶』だ。

二人がそれに近づくと、靄はまるで意思があるかのように揺らめき、櫂の目の前で像を結ぼうとしては、霧散した。

――公園の錆びたブランコ。泣いている小さな女の子。差し出される、一つのガラス玉。

断片的な映像が、ノイズ混じりに流れ込んでくる。それは未来の光景には見えなかった。むしろ、ひどく懐かしい、色褪せた過去の風景。

「これ……」

櫂が呟いたその時、靄はふっと形を失い、床に落ちて消えた。まるで役目を終えたかのように。

「今の、何だったんだろう」陽菜が不安げに言う。

櫂は答えられなかった。ただ、胸の奥に小さな棘が刺さったような、奇妙な痛みを感じていた。あれは、誰の記憶なのだろう。そしてなぜ、自分にだけ見えたのだろうか。

第三章 忘れられたビー玉の輝き

保管庫での一件以来、櫂の頭の中では、あの断片的な映像が繰り返し再生されるようになった。錆びたブランコ、少女の泣き顔、そしてガラス玉。それは、彼自身の記憶の引き出しの、一番奥で埃をかぶっていた風景によく似ていた。あまりに些細で、取るに足らない、忘れていたはずの幼い日の出来事。

卒業献納の最終面談の日が来た。櫂は結局、献納すべき記憶を見つけられないまま、森山先生の前に座っていた。手元にあるのは、空っぽの標本箱だけだ。

「水瀬。君の箱は、まだからのようだな」

森山先生は、責めるでもなく、静かに言った。

「……俺には、献納できるような価値のある記憶なんて、ありませんでした」

自嘲気味に答える櫂に、先生はゆっくりと問いかけた。

「価値とは、誰が決めるものかね? 劇的な勝利や、感動的な再会だけが記憶ではない。時織学園の卒業条件の、本当の意味を、君はまだ理解していないようだ」

先生は立ち上がり、古い書棚から一冊の分厚いファイルを取り出した。それは「棄却記憶録」と記されていた。

「これは、献納されようとして、『価値なし』と判断された記憶の記録だ。この学園の本当の卒業条件はね、水瀬くん。自分の記憶を差し出すことじゃない」

森山先生の言葉が、櫂の思考を揺さぶった。

「真の卒業とは、『他人の忘れられた、あるいは価値がないと棄却された記憶を一つ見つけ出し、それに君自身の言葉で新たな価値を与え、語り直す』ことなのだよ」

衝撃の事実に、櫂は息を呑んだ。では、生徒たちが標本を作っていたのは、すべてそのための練習だったというのか。

「あの『未来の記憶』の噂も、我々が流したものだ。持ち主を失い、行き場をなくした記憶の断片は、時に未来の可能性のように揺らめいて見える。我々は、誰かがその声なき声に気づいてくれるのを待っていた」

先生はファイルのページをめくり、一枚の記録用紙を櫂に見せた。そこには、一つの棄却された記憶の詳細が書かれていた。

【申請者:相田陽菜(入学前仮申請)】

【記憶内容:幼い頃、公園で迷子になり泣いていた時、見知らぬ男の子がくれた青いビー玉の思い出】

【棄却理由:相手が誰かも分からず、その後の人生に影響を与えたとは認め難い。主観的価値に留まる】

櫂の全身に鳥肌が立った。あの靄が見せた映像。泣いていた少女。差し出されたガラス玉。それは、陽菜が失くした記憶であり、同時に、櫂が忘れていた記憶そのものだった。

櫂は幼い頃、引っ越す前の街の公園で、泣いている女の子に、ポケットに入っていたお気に入りのビー玉を一つあげたことがある。名前も知らない、一度きりの出会い。彼にとっては、数ある子供時代の出来事の一つでしかなく、価値など考えたこともなかった。

だが、陽菜にとって、それは暗闇の中で差し伸べられた、一筋の光だったのだ。彼女はその記憶を宝物のように思っていたが、数年前に遭った軽い事故のせいで、その光景だけを靄がかかったように思い出せなくなっていた。彼女が探していたのは、失われた記憶の温かさだった。

「彼女は、その記憶を失くしてしまった。だから、献納することができない。卒業が危ぶまれている」

森山先生の言葉が、櫂の胸に突き刺さる。

自分の空虚さ、何者でもなさ。それは、誰かにとっての「特別」を、自分自身が見過ごしてきた結果だったのかもしれない。価値がないと切り捨てた記憶こそが、誰かが必死に探し求めていた宝物だった。

櫂は、震える手で自分のポケットを探った。そこには何もない。だが、確かに感じた。あのビー玉の、ひんやりとして滑らかな感触を。

第四章 君と僕の卒業証明

櫂は面談室を飛び出し、陽菜を探した。彼女は、中庭のベンチに一人で座って、空を見上げていた。その横顔は、いつもの太陽のような明るさを失い、どこか儚げに見えた。

「相田」

櫂が声をかけると、彼女は驚いたように振り返った。

「水瀬くん……。私、やっぱりダメみたい。思い出せない」

諦めが滲む声だった。櫂は彼女の隣に静かに座り、息を整えた。そして、自分の言葉で、ゆっくりと語り始めた。

「……あれは、雲一つない、夏の日だったと思う。古びた公園の、象の形をした滑り台の影で、一人の女の子が泣いていたんだ。膝を擦りむいて、心細そうに」

陽菜が、はっとしたように櫂を見る。

「俺は、どう声をかけていいか分からなくて、ただポケットに入ってたものを差し出した。それは、ただの青いビー玉だった。太陽の光を透かすと、中に小さな渦が見える、安物のガラス玉だ」

櫂の言葉が、風景を描き出す。それはもはや、彼一人の記憶ではなかった。

「女の子は、泣き止んで、そのビー玉を受け取った。そして、一度だけ、小さく笑ったんだ。俺は、その顔を見たらなんだか安心して、すぐに家に帰った。それだけだ。名前も知らない。二度と会うこともない。俺にとっては、それだけの、何でもない一日だった」

櫂が語り終えると、彼の目の前に、淡い光が集まり始めた。それはやがて、一つの美しい標本へと結晶化した。中心には、深い青色の輝きが渦を巻いている。まるで、宇宙を閉じ込めたビー玉のように。

櫂が「価値がない」と捨てていた記憶は、陽菜という他者の視点と結びつき、誰の記憶よりも強く、鮮やかな輝きを放っていた。

陽菜の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「……そうだったんだ。あたたかくて、キラキラしてた。ずっと、その光を探してた」

彼女は失われた記憶そのものではなく、その記憶が与えてくれた温もりを取り戻したのだ。彼女の微笑みは、いつもの太陽のような明るさを取り戻していた。

卒業式の日。櫂と陽菜は、並んで校門をくぐった。多くの卒業生が、誇らしげに自分の「記憶標本」のレプリカを胸に飾っている。だが、櫂の手元には何もない。彼の献納した記憶は、今や陽菜の心の中で輝いているのだから。

「私の記憶、返してくれなくていいの?」

陽菜が、悪戯っぽく笑いながら言った。

「いいんだ。俺が持っていても、ただのビー玉だった。君がいたから、宝物になったんだ」

櫂は、初めて心の底からそう言えた。

空っぽだと思っていた自分の人生。その何気ない一コマが、誰かの心を照らす光になっていた。特別な人間になる必要なんてなかったのだ。価値とは、誰かが決めるものではなく、誰かと分かち合うことで生まれるものなのだと、彼は知った。

手にした卒業証書は、ただの紙切れに過ぎない。櫂が本当に得たのは、過去を慈しみ、何でもない日常の中に輝きを見出す、新しい眼差しだった。

春の柔らかな日差しの中、櫂は空っぽだったはずの自分の心が、確かな温もりで満たされているのを感じていた。それは、誰かから与えられたものではなく、自らが見つけ出し、価値を与えた、本物の輝きだった。

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