第一章 色褪せた絵本
神保町の古書街の片隅に佇む『暁書房』の空気は、カナタにとって唯一の安息だった。古い紙とインク、そして微かな黴の匂いが混じり合った独特の香りは、外界の喧騒から彼を守る結界のように感じられた。彼は、ここで働くことで、世界との間に適切な距離を保っていた。
カナタには秘密があった。物、特に長く人に愛された物に触れると、持ち主の記憶や感情が、奔流のような「色」として流れ込んでくるのだ。喜びは燃えるようなオレンジ、悲しみは深く沈む藍色、愛情は陽だまりのような黄金色。あまりに鮮烈な色の洪水は、彼の心をひどく疲れさせるため、人と深く関わることを無意識に避けて生きてきた。古書は、持ち主の手を離れたことで、その色が少しだけ落ち着いている。それが、彼がこの場所を選んだ理由だった。
その日、店のドアベルが、からん、と乾いた音を立てた。入ってきたのは、背を丸めた小柄な老婆だった。丁寧に使い込まれたであろう布製のバッグを抱え、彼女はカナタの前に一冊の絵本をそっと置いた。
「これを…買い取っていただけますでしょうか」
掠れているが、芯のある声だった。
絵本の名は『星屑のランタン』。夜空色の地に、銀の箔押しで星とランタンが描かれた、美しい装丁の本だった。カナタが何気なくその表紙に指を触れた瞬間、彼は息を呑んだ。
流れ込んできたのは、色ではなかった。
いや、かつては鮮やかな色であっただろう残滓が、まるで陽に晒され続けた古い写真のようにセピア色に変色し、所々が白く抜け落ちて、ほとんどモノクロームと化していたのだ。指先に伝わるのは、色の「死」の気配。記憶そのものが、静かに生命活動を停止しようとしているかのような、不気味な静けさだった。楽しい記憶も、悲しい記憶も、その輪郭を失い、ただの灰色の濃淡に成り果てていた。
こんな現象は初めてだった。持ち主が物を手放したとしても、記憶の色は残る。忘却が進んでも、色の彩度が落ちる程度だ。しかし、これは違う。記憶の存在そのものが、根源から消えかかっている。
「お客様、この本は…」
カナタが思わず問いかけると、老婆――サキと名乗った――は、寂しそうに目を伏せた。
「ええ、とても、とても大切な本でした。でも、もう、私には…」
言葉を濁し、彼女は深く頭を下げると、足早に店を出て行った。
カウンターの上で、絵本はただ静かに横たわっている。しかしカナタの目には、その内側で、かつて豊かだったはずの世界が、砂の城のように崩れ落ちていく様が見えるようだった。彼は、初めて他人の「記憶の死」を目の当たりにし、胸の奥を突き刺すような、鈍い痛みと強烈な好奇心に囚われていた。
第二章 星屑の道標
『星屑のランタン』は、買い取り棚の隅で静かにその身を横たえていた。だが、カナタの心は少しも休まらなかった。あの色褪せた記憶の残像が、瞼の裏に焼き付いて離れないのだ。彼は衝動的に、絵本を手に取った。
ページをめくると、物語は、迷子になった小さな星が、ランタンの灯りを頼りに帰り道を探すという、素朴で優しい話だった。しかし、カナタが集中すると、文字の連なりの向こうに、消えかかった記憶の断片が見えた。公園のベンチ、二人分の影、見上げた夜空。微かに残る暖色の残滓から、誰かと過ごした幸せな時間であったことが窺える。だが、その隣には、どうしようもなく深い、くすんだ青が広がっていた。
カナタは、他人の感情に踏み込むことを、これまで何よりも恐れてきた。だが、この消えゆく記憶を前にして、彼の内側で何かが変わろうとしていた。これは、ただ見過ごしていいものではない。そんな確信があった。
手がかりを探してページを丁寧に調べていると、最終ページに古い半券が挟まっているのを見つけた。『武蔵野天文台 特別観望会』。日付は三十年も前のものだ。これだ、とカナタは思った。彼は店主に事情を話し、半日だけ休みをもらうと、電車を乗り継いでその天文台へと向かった。
郊外にひっそりと佇む天文台は、時が止まったような場所だった。資料室で古い記録を調べさせてもらうと、驚くべきことが分かった。サキは、夫と共にこの天文台の常連で、特に『星屑のランタン』の作者が講演に来たその日の観望会を、何よりも楽しみにしていたという。資料写真には、大きな望遠鏡を嬉しそうに覗き込む、若き日のサキと、その隣で優しく微笑む夫の姿が写っていた。
カナタは、サキが認知症か何かで、大切な夫との思い出を失いかけているのだと推測した。だから、思い出の品である絵本を手放すことで、辛い現実から逃れようとしているのではないか。記憶が消える前に、何か自分にできることはないか。これまで他人の色から逃げてきた彼が、初めて、他人の色を守りたいと強く願っていた。それは、彼自身の内側に灯った、小さなランタンの光のようだった。
第三章 塗り替えられた夜空
カナタは、サキの住所を買い取り伝票から探し出し、彼女のアパートを訪ねた。ためらいながらチャイムを鳴らすと、扉の向こうから、あの静かな声が聞こえた。
「どなた様…あら、古本屋の…」
サキは驚いた顔でカナタを見つめた。カナタは絵本を差し出し、天文台で知ったことを正直に話した。夫との大切な思い出が詰まった本を手放してはいけない、と。
すると、サキは力なく微笑んだ。
「思い出せるものなら、そうしたい。でもね、もう夫の顔も、一緒に見上げた星空の美しさも、靄がかかったようにぼんやりとしか…。思い出そうとすればするほど、大事なものから指の間をすり抜けていくようなの。だから、この本が私の代わりに覚えていてくれたら、と…」
その言葉に、カナタの胸は締め付けられた。彼は決意した。たとえ禁じ手に触れることになろうとも。
「サキさん、少しだけ、この本に触れていてもいいですか」
彼は絵本を受け取ると、両手で強く抱きしめた。そして、意識を極限まで集中させる。――自分の記憶を、この本に注ぎ込む。
カナタは、幼い頃に両親と見た花火の記憶を呼び起こした。夜空に咲く大輪の、燃えるようなオレンジ。家族と手を繋いだ温もり、陽だまりのような黄金色。彼自身の最も幸福な色の記憶を、能力を使って抽出し、色褪せた絵本の世界へと、そっと流し込んだ。それは彼の生命力を削る行為だった。全身が痺れ、目の前が白くなる。
すると、奇跡が起きた。カナタの手の中で、絵本が淡い光を放ち始めたのだ。モノクロームだった記憶の世界に、カナタが注いだ暖かな色がじんわりと染み渡っていく。
「ああ…」サキが感嘆の声を漏らした、その時だった。
彼女はハッとしたようにカナタを見つめ、震える声で言った。
「ありがとう…。でもね、お願い。あの子の記憶まで、消してしまわないで」
「え…? あのお子さん、とは…?」
夫のことではないのか? カナタの思考が停止した。
サキは、涙を浮かべながら、ゆっくりと語り始めた。
「この絵本は、夫との思い出の品であると同時に…。幼くして、星になってしまった、たった一人の息子との、最後の思い出の品なの」
衝撃の事実に、カナタは言葉を失った。
「夫の記憶は、まだここにあります。でも、あの子のことは…思い出すのが、あまりに辛くて…。いつしか私は、悲しみに蓋をするように、あの子の記憶を心の奥底に封じ込めてしまった。忘れようと、していたのね…」
色褪せていたのは、忘却ではなかった。耐え難い悲しみから心を守るための、自己防衛だったのだ。カナタが光を灯そうとしていたのは、夫との幸せな記憶の層の下に、固く閉ざされていた、息子の記憶だった。良かれと思ってしたことが、彼女の最も深い傷に触れてしまったのだ。
第四章 星屑のランタンが灯る場所
絶望がカナタを襲った。自分は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。だが、顔を上げた彼の目に映ったのは、静かに涙を流しながらも、穏やかに微笑むサキの姿だった。
「ううん、違うの。あなたは、思い出させてくれた」
サキは、光を放つ絵本にそっと手を重ねた。
「あの子のこと、忘れちゃいけない大切な宝物なのに、いつの間にか、悲しいだけの記憶だと思い込んでいた。でも、違ったのね。あなたが灯してくれた光のおかげで、思い出せたわ。あの子の笑った顔。私の膝の上でこの絵本を読んでとせがんだ、小さな手の温もり。あの子と過ごした時間は、短くても、こんなに…こんなに、暖かかったのね」
カナタは、絵本の内側に広がる色の変化に気づいた。彼が注いだ暖かなオレンジと黄金色が、サキの記憶の底にあった深い悲しみの藍色と混じり合っていた。そして、それは単なる混色ではなかった。二つの色が互いを打ち消すのではなく、寄り添い、溶け合うことで、これまで見たことのない、切なくも美しい、薄紫――ラベンダーのような神々しい色合いへと昇華されていたのだ。
それは、悲しみを知るからこそ生まれる、深く、そして優しい愛情の色だった。
カナタは悟った。自分の能力は、ただ記憶の色を見るだけのものではなかった。凍てついた感情に光を灯し、忘れられた温もりを繋ぎ、人の心を癒すためにあるのだ。他人の感情に触れることの本当の意味を、彼はこの時、初めて知った。それは恐れるべきものではなく、分かち合うべき、尊い輝きだった。
数日後、暁書房のドアベルが鳴った。サキだった。彼女は晴れやかな顔で、カウンターに置かれた『星屑のランタン』を指さした。
「この本を、買い戻しに来ました。これはもう、手放してはいけない、私の宝物だから」
彼女が絵本を手に取ると、その表紙からは、穏やかで優しい、あの美しいラベンダー色の光が満ち溢れているのがカナタには見えた。
それ以来、カナタは世界の見え方が変わった。古書店に持ち込まれる一冊一冊の本が、単なる商品ではなく、誰かの人生そのものの結晶に見えるようになった。そこには、喜び、悲しみ、愛情、後悔、希望…無数の人々の、色とりどりの記憶が眠っている。
彼はもう、その色を恐れない。むしろ、愛おしく感じていた。一冊の本にそっと手を触れる。そこに広がる未知の色の世界に、彼は静かに微笑んだ。自分の仕事は、この小さなランタンのような物語たちを、それを必要とする次の誰かへと、繋いでいくことなのだ。星屑のように無数に存在する記憶の灯りを、この場所で守り続けていく。それが、彼が見つけた、新しい世界の歩き方だった。