第一章 墨染の珠
柏木蒼十郎(かしわぎ そうじゅうろう)の世界は、音でできていた。それも、ただの音ではない。彼が父の形見である黒檀の算盤を弾く時に生まれる、珠と軸が触れ合う澄んだ音。その音の連なりが、彼にとっては万物を測る唯一の尺度だった。
蒼十郎は、海坂藩の勘定方である。彼の仕事は、帳簿の数字を追い、藩の財政に寸分の狂いもなきことを証明すること。だが、その手法は常軌を逸していた。彼は帳簿を前に算盤を構えると、目を閉じ、驚くべき速さで珠を弾き始める。指先から繰り出される音の連なりは、ある時は静かな小川のせせらぎのように、またある時は激しい嵐のように響き渡る。彼はその「音色」を聴くのだ。正しく記された数字は調和のとれた和音を奏で、嘘や偽り、隠された意図は、耳障りな不協和音となって彼の鼓膜を打つ。父が遺したこの「音算」の技が、蒼十郎を藩で最も有能、そして最も孤立した勘定方たらしめていた。
その日、蒼十郎は藩主・松平康親に密かに呼び出された。謁見の間には重苦しい沈黙が満ち、蝋燭の炎が藩主の苦渋に満ちた顔を揺らめかせていた。
「柏木、そなたにしか頼めぬ儀がある」
事の発端は、御金蔵から起きた不可解な金の消失事件だった。ここ三ヶ月で、三度にわたり千両箱が一つずつ、忽然と姿を消しているという。しかし、奇妙なことに、蔵の錠前は破られておらず、番人の誰も侵入者の気配に気づいていない。まるで金が霧となって蒸発したかのようだ。
「幽霊の仕業とでも言うのか…」家臣たちはそう噂し、怯えていた。
「幽霊ではない。人の仕業だ」藩主は断言した。「だが、敵は巧妙に痕跡を消している。帳簿上も、巧妙な操作が加えられ、事が発覚するまでに時を要した。そなたの耳で、この不協和音の源を探り当ててほしい」
蒼十郎は、ただ黙って頭を下げた。人の感情や忠誠心などという曖昧なものには興味がない。彼が信じるのは、算盤が奏でる数字の真実のみ。金が消えれば、必ずや帳簿のどこかに歪みが生まれる。その歪みこそが、彼にとっての犯人の声なのだ。
自室に戻った蒼十郎は、問題の期間の出納帳を広げた。墨の匂いが静かに立ち上る。彼は黒檀の算盤を膝に置き、そっと指を珠に添えた。冷たく、滑らかな感触。父の指が長年かけて磨き上げたその珠は、まるで生き物のように彼の指に馴染んだ。
目を閉じ、深く息を吸う。
カチリ、と最初の珠が弾かれた。静寂を破る、高く澄んだ音が響く。そこから、蒼十郎の指は舞うように動き始めた。カチ、カチカチ、シャラララ…。音の洪水が部屋を満たし、彼の意識は数字の羅列の奥深くへと潜っていく。支出、収入、繰越金…それぞれの数字が固有の音階となって彼の耳に届く。それは、一見すると完璧に調律された音楽のようだった。だが、蒼十郎の研ぎ澄まされた聴覚は、その完璧すぎる調和の中に、微かな、しかし確かな「ずれ」を感じ取っていた。
それは、まるで壮大な交響曲の中に一つだけ紛れ込んだ、調律の狂った楽器の音。ごく僅かな違和感。ほとんどの者には聴き取れないであろう、その不協和音は、藩の物流を一手に行う豪商・三国屋卯兵衛の名が記された箇所から、幽かに響いてくるのだった。
第二章 不協和音の在処
三国屋は、城下で最も羽振りの良い商人だった。米、塩、呉服から武具に至るまで、その商いは多岐にわたり、藩の経済は三国屋なしでは成り立たないとまで言われるほどだ。蒼十郎は三国屋の屋敷を訪れた。表向きは、定期的な会計監査という名目である。
通された帳場は、活気に満ちていた。丁稚たちが忙しなく駆け回り、大福帳をめくる音、算盤を弾く音が混じり合って、一種の喧騒の音楽を奏でている。
「これはこれは、柏木様。ようこそお越しくださいました」
奥から現れた三国屋卯兵衛は、歳は五十の頃合い、肉付きの良い体に高価な絹の着物をまとった、見るからに抜け目のない男だった。その笑顔は人懐っこいが、目の奥には底知れぬ光が宿っている。
蒼十郎は挨拶もそこそこに、帳簿の提出を求めた。三国屋は嫌な顔一つせず、分厚い帳簿の束を差し出す。蒼十郎は卓袱台にそれを広げ、懐から黒檀の算盤を取り出した。
周囲の喧騒が嘘のように遠のく。彼は再び、音の世界に没入した。
カチ、カチリ…。
指が踊り、黒檀の珠が歌う。彼は三国屋の帳簿の「音」を聴いた。藩へ納める物資の量、その単価、日付…。一つ一つの数字を、自らの算盤で音へと変換していく。しかし、いくら聴いても、そこに不協和音は見つからなかった。完璧なのだ。あまりにも完璧すぎるほどに。
「いかがでございますかな、柏木様」
いつの間にか隣に座っていた三国屋が、茶を勧めながら声をかけてきた。その声には、蒼十郎の能力を見透かしているかのような響きがあった。
「…見事な帳簿です」蒼十郎は感情を殺して答えた。「寸分の狂いもない」
「それが私どもの信用でございますから」三国屋は悠然と笑う。
その夜、蒼十郎は眠れずにいた。三国屋の帳簿は完璧だった。だが、その完璧さこそが、最大の不協和音なのだ。まるで、誰かが蒼十郎の「音算」を知っていて、その耳を欺くために完璧な偽りの旋律を用意したかのようだった。
ふと、父のことを思い出した。父もまた、藩の勘定方だった。そして、この黒檀の算盤を使い、藩の財政の不正をいくつも暴いてきたと聞く。しかし、父は十年前、山道で足を滑らせて死んだとされている。あまりに突然の、不可解な死だった。
父は死ぬ前、何かの大きな不正を追っていたのではないか。そして、そのために命を落としたのではないか。その疑念が、初めて蒼十郎の胸に現実的な重みを持ってのしかかってきた。
蒼十郎は再び御金蔵の出納帳に向き合った。今度は視点を変える。消えた金そのものではなく、その周辺の、ごく些細な物資の動きに集中した。藁、縄、油紙…通常ならば誰も気に留めないような消耗品の項目。彼は、それらの数字を丹念に音へと変えていった。
すると、聴こえてきた。
それは、これまで聴いたことのない、奇妙な音律だった。千両箱が消えたとされる日、決まって近隣の村々に配給される藁の量が、ほんの僅かだけ増えている。そして、その配給先の中に一つだけ、妙な場所があった。
「枯れ沢村」。
数年前に疫病が流行り、全員が死に絶え、廃村になったと公式に記録されている村の名前だった。
第三章 帳尻の向こう側
廃村に向かう金の流れ。それはあり得ないことだ。蒼十郎の心臓が、算盤の珠とは違う、不規則な音を立てて高鳴った。彼は誰にも告げず、一人で枯れ沢村へと向かった。
山道を抜けると、寂れた村の入り口が見えてくる。しかし、廃村のはずの村からは、微かに人の気配がした。朽ちかけた家々の向こうに、青々とした稲穂が風に揺れているのが見えた。こんな痩せた土地では育つはずのない、見慣れぬ品種の稲だ。
蒼十郎は息を殺して村に足を踏み入れた。すると、信じがたい光景が目に飛び込んできた。
村の広場では、数人の男たちが、西洋のものと思われる書物を広げ、議論を交わしている。蔵の一つは改造され、ガラス器具や薬草が並ぶ、さながら医学研究所のようだった。そして、その中心に立ち、指示を出しているのは、紛れもない三国屋卯兵衛だった。
さらに蒼十郎を驚かせたのは、その傍らに立つ、気品のある老女の姿だった。現藩主の母君、先代藩主の御簾中である。
「…そなたが、柏木蒼十郎か」
物陰に潜んでいた蒼十郎に、静かな声がかけられた。御簾中だった。彼女の瞳は、すべてをお見通しであるかのように、深く、そして悲しげだった。
蒼十郎はなす術もなく、彼らの前に引き出された。三国屋が、意外にも穏やかな顔で語り始めた。
「驚かれたかな、柏木殿。ここが、我らが盗んだ金の行き着く先だ」
彼らの口から語られた真実は、蒼十郎が築き上げてきた価値観を根底から揺るがすものだった。
数年前、この地を襲った疫病は、実は幕府が禁制とする異国の病だった。藩は、幕府の咎めを恐れて病の事実を隠蔽し、村を見捨てた。だが、先代藩主と三国屋は、密かに生き残った村人を匿い、治療法を探していたのだ。
消えた金は、盗まれたのではない。この村で、未来の飢饉に備えるための新しい稲作の研究や、未知の病に対抗するための医学研究の資金として「投資」されていたのだ。すべては、幕府に知られることなく、藩の、そしてこの国の民の未来を救うための、壮大な計画だった。
「帳簿の数字は正しい。だが、その正しさが常に民の幸せに繋がるとは限らぬ」御簾中は静かに言った。「我らは、帳尻の向こう側にある、人の命を勘定していたのじゃ」
蒼十郎は愕然とした。彼が追い求めていた「不協和音」。それは、不正や悪意の響きではなかった。未来を救おうとする者たちの、悲壮な覚悟が奏でる、あまりに人間的な音色だったのだ。
彼の信じてきた「数字の正義」とは何だったのか。帳簿の上で完璧な調和を保つことと、目の前で飢え、病に苦しむ人々を救うこと。どちらが本当の「正義」なのか。
黒檀の算盤が、彼の膝の上で、ただの重い木の塊に感じられた。
第四章 新たなる勘定
自室に戻った蒼十郎は、何日も算盤に触れることができなかった。耳にこびりついて離れないのは、珠の音ではない。枯れ沢村で見た、青々とした稲穂が風にそよぐ音、薬草をすり潰す音、そして未来を語る人々のひそやかな声だった。
彼は父の死の真相を悟った。父もまた、この計画に気づいていたのだ。そして、それを守るために、自らの命を犠牲にしたに違いない。父が遺した算盤は、不正を暴くためだけの道具ではなかった。それは、時に真実を隠し、守るべきものを守るためにも使われるべきものだったのだ。
数日後、蒼十郎は決意を固めた。彼は三国屋と御簾中のもとを訪れ、深く頭を下げた。
「私に、手伝わせていただきたい」
彼の申し出に、二人は驚きの色を見せたが、やがて静かに頷いた。
蒼十郎の新たな仕事が始まった。それは、これまでの彼の信条とは正反対のこと。すなわち、完璧な「偽りの帳簿」を作り上げることだった。
彼は持てる全ての技術を注ぎ込んだ。音算の能力を駆使し、どこからどう見ても、誰が聞いても、決して不協和音を奏でない、完璧な偽の数字の羅列を構築していく。それは、藩の財政を欺き、幕府の目をくらますための、壮大な虚構の交響曲だった。
カチ、カチリ…。
かつて冷徹な真実だけを奏でていた黒檀の珠は、今、多くの命を救うための、温かい嘘を紡ぎ出していた。彼はもはや、数字の奴隷ではなかった。人の未来を思い、そのために数字を使いこなす、真の「勘定方」へと生まれ変わったのだ。
数ヶ月後、蒼十郎が作り上げた偽の帳簿は、幕府から派遣された目付の厳しい監査を、何の問題もなく通り抜けた。藩は守られ、枯れ沢村の計画は、静かに、しかし着実に未来への根を伸ばし続けるだろう。
すべての仕事が終わった夜、蒼十郎は一人、縁側に座っていた。膝の上には、もうあの黒檀の算盤はない。彼はただ目を閉じ、夜の空気に耳を澄ませていた。
遠くの田から聞こえてくる、風が稲穂を揺らす音。サワサワと、優しく、そして力強いその音は、まるで生命そのものが奏でる音楽のようだった。
それは、彼の算盤が奏でるどの音よりも、豊かで、希望に満ちていた。
帳尻の向こう側にある、本当の豊かさ。蒼十郎は、その音を聴きながら、初めて心からの穏やかな笑みを浮かべた。彼の世界は、もう珠の音だけではできていなかった。