残像のディプロマ
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残像のディプロマ

第一章 色褪せたパレット

僕らの通うこの白亜の学園には、奇妙な戒律があった。生徒は皆、己が未来で捨て去るかもしれない夢や才能を具現化した「影」を伴っている。それは背後に纏わりつき、時に甘く、時に辛辣に、諦念の言葉を囁き続ける。卒業までにその「影」と決着をつけられない者は、この学園の門を二度と出ることはできない。

僕の影は、繊細な指で架空の鍵盤をなぞる「音楽家」の姿をしていた。それは僕が一度は夢見たピアニストの残滓。だが今となっては、その優雅な指の動きさえも、僕の才能の限界を嘲笑っているようにしか見えなかった。

その日、美術室の扉の隙間から、僕は見てしまった。クラスメイトの朝倉陽菜が、完成させたはずの油絵の前で、静かに肩を震わせているのを。彼女はコンクールで入賞するために、長年連れ添った「画家」の影を捨てたはずだった。堅実な未来を選んだ彼女の背後には、もう何もない。だというのに、彼女の瞳は空っぽのキャンバスよりも深い絶望の色を湛えていた。

その絶望が臨界に達した瞬間、僕の世界はぐにゃりと歪んだ。

気づけば僕は、数分前の美術室に立っていた。ただし、何かが違う。陽菜は絵筆を握っていない。代わりに、彼女は窓の外を眺め、友人たちと卒業旅行の話をしていた。その横顔は、元の世界で見た絶望とは無縁の、穏やかな光に満ちていた。これが僕の能力。他者の後悔が溢れる瞬間、その選択をやり直したパラレルワールドを強制的に追体験させられるのだ。

「これでよかったのよ」彼女は呟く。「絵なんて、しょせん自己満足だもの」

しかし、その言葉とは裏腹に、彼女の指先は無意識にパレットナイフの冷たい感触を探しているように見えた。

数分後、僕は元の世界に戻っていた。目の前で、陽菜が叫び声を上げていた。彼女はパレットナイフを握りしめ、完成したはずの自らの傑作を、黒い絵の具でめちゃくちゃに塗り潰していたのだ。剥き出しの狂気が、テレピン油の刺激臭と共にアトリエに充満する。

僕はその場から逃げ出した。自室に戻り、机の引き出しから自分用の「空白の卒業証書」を取り出す。まだ何も記されていない、真っ白な羊皮紙。だが、それに鼻を近づけると、あり得ないことに気づいた。

微かに、テレピン油の匂いがした。それは幻の香り。陽菜の後悔が刻みつけた、「記憶の残像」だった。

第二章 不協和音のチェロ

陽菜の一件は、学園内に重苦しい澱を落とした。「影」を捨て去ることが、必ずしも救いではないのかもしれない。そんな囁きが、生徒たちの間に幽霊のように漂い始めた。

僕の友人、月島蓮の様子がおかしくなったのは、その頃からだった。彼はかつて天才チェリストとして名を馳せたが、一度のコンクールでの失敗を機に、音楽から離れ、自らの「影」を捨てたはずだった。

「最近、また聞こえるんだ」

放課後の廊下で、蓮が青ざめた顔で僕に打ち明けた。

「誰もいないのに、チェロの音が。僕が失敗した、あのフレーズが……」

彼の背後、いるはずのない空間が陽炎のように揺らめき、弓を握る半透明の「影」の腕が浮かび上がるのが見えた。影は蓮の耳元で何かを囁いている。

その夜、僕は音楽室で蓮を見つけた。彼は、埃をかぶったチェロケースを前に立ち尽くしていた。その瞳に宿る後悔の色が濃くなっていく。――来る。

世界が反転する。僕は再びパラレルワールドにいた。目の前には、コンクールで演奏する若き日の蓮。彼は問題のフレーズを完璧に弾きこなし、ホールは万雷の拍手に包まれる。しかし、喝采の中心で頭を下げる彼の顔は、まるで能面のように無表情だった。彼は音楽を奏でる機械になったのだ。楽しむ心を、あのたった一度の失敗と引き換えに失って。

現実に戻った瞬間、蓮が絶叫と共にチェロを床に叩きつけようとしていた。

「お前には才能なんてない!」

彼の背後の「影」が、歓喜に満ちた声で叫ぶ。

「僕が、僕が証明してやる!」

僕は必死に彼に飛びつき、その腕を掴んだ。温かいはずの友人の腕は、氷のように冷たくなっていた。

その夜、僕の卒業証書からは、テレピン油の匂いに混じって、新たに松脂の香りが漂い始めていた。それは、奏でられることのなかった音楽の後悔の香りだった。

第三章 図書館の静寂と囁き

陽菜、そして蓮。彼らに起きたことは偶然ではない。消えたはずの影が、まるで亡霊のように蘇り、持ち主を破滅へと誘っている。そして僕が見るパラレルワールドは、本当に「やり直した」幸福な世界なのだろうか。むしろ、それは可能性を切り捨てた心の、歪んだ未来の姿のように思えた。

手がかりは、この卒業証書に残る「記憶の残像」だけだ。テレピン油と松脂の香り。どちらも、彼らが捨てたはずの夢そのものを象徴している。

僕は答えを求め、学園で最も古く、静かな場所――中央図書館へと向かった。埃と古い紙の匂いが満ちるその場所で、僕は書架の間に漂うように佇む一人の女性に出会った。司書の榊静先生。いつも物静かで、生徒たちの悩みを聞くのが上手いと評判の教師だ。

「何か、探しものかしら、水無月くん」

彼女の透き通るような声が、僕の思考を中断させた。

「学園の、古い記録を探しています。影についての……」

「影は、ただの過去ではないわ」榊先生は、一冊の古い本を指でなぞりながら言った。「それは、選ばなかった未来の可能性でもあるの。無理に捨て去ろうとすれば、反発するのは当然かもしれない」

その言葉に、僕は奇妙な違和感を覚えた。まるで彼女が、影自身の気持ちを代弁しているかのように聞こえたからだ。

僕は図書館の最奥、禁書区域に足を踏み入れた。そこで、創立当初の卒業アルバムを見つけ出す。ページをめくっていくと、一枚のセピア色の写真に目が釘付けになった。若き日の榊静。そして、彼女の隣には、僕らと同じように、はっきりとした「影」が寄り添っていた。ペンを握り、遠くを見つめる「詩人」の影が。アルバムの備考欄には、こう記されていた。『榊静 - 学園に留まる』。彼女こそが、この学園から出られなくなった、最初の生徒だったのだ。

僕が顔を上げると、いつの間にか榊先生が背後に立っていた。彼女の穏やかだった瞳の奥に、僕は見てしまった。何十年という時をかけて熟成された、深く、静かで、そして巨大な「後悔」の渦を。

世界が、三度、歪んだ。

僕は、若き日の榊先生が見た光景を追体験していた。彼女は自らの「詩人」の影を消し去るための禁断の儀式を行っていた。だが、それは失敗した。影は消えるどころか、彼女の絶望を喰らって増幅し、学園そのものに根を張る、巨大な意識体へと変貌してしまったのだ。彼女の後悔は、たった一つ。「影を消そうとしてしまったこと」そのものだった。

第四章 可能性の残滓

追体験から意識が浮上した僕を、榊先生の静かな瞳が見つめていた。もう、何も隠す必要はないと悟ったかのように。

「あなたが見ていた世界は、やり直しの過去ではないわ。あれは、影が持ち主に見せる『警告』。可能性を切り捨てた心が辿り着く、空虚な未来のビジョンなの」

彼女はすべてを語った。学園に縛られたあの日から、彼女は影を消し去るのではなく、それと対話し、共生する道を探し続けていた。最近の事件は、彼女の導きが生徒たちの強い拒絶に遭い、暴走してしまった結果だったのだという。影たちは、捨てられる苦しみから、持ち主に歪んだ未来を見せていたのだ。

「あなたの卒業証書が記憶の残像を記録するのは、あなたが他者の後悔だけでなく、その根源にある『捨てられた可能性』そのものに共感できるから。あなたは、影たちの声を聞けるのかもしれない」

榊先生は僕に問いかけた。

「水無月くん。あなた自身の影と、どう向き合う?」

僕は、ずっと背後で冷笑していた僕自身の「音楽家」の影に向き直った。その指は、まるで僕の心の迷いを嘲るかのように、不協和音を奏でている。

僕は深く息を吸い込んだ。卒業証書から漂う、テレピン油と松脂の香りを肺いっぱいに満たす。それはもう、後悔の香りではなかった。キャンバスに向かう情熱、弦を震わせる喜び。創造の瞬間の、どうしようもなく眩しい可能性の香りだった。

「お前を捨てるつもりはない」僕は影に語りかけた。「かといって、お前の言いなりにもならない。完璧な演奏なんてできなくていい。僕たちは、一緒に迷い、間違うんだ」

初めて、僕の影が嘲笑うのをやめた。その表情は静かで、どこか安堵しているようにさえ見えた。

榊先生は微笑み、学園の最後の真実を明かしてくれた。この学園から出られないという戒律は、罰ではなかった。多様な可能性の象徴である「影」の存在を理解できない外の世界から、影と共に生きる道を選んだ者たちを守るための、優しい檻。シェルターだったのだ。

僕は自分の「空白の卒業証書」を手に取った。そこには、まだ何の文字も記されていない。しかし、いくつもの記憶の残像が混じり合い、僕にしか聞こえない、未来の交響曲を微かに奏でていた。卒業の日はまだ遠い。僕はこの優しい檻の中で、僕だけの物語を、僕と僕の影の物語を、これから紡いでいくのだろう。

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