メメント・グラデーション

メメント・グラデーション

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第一章 色褪せたプリズム

僕らの通うこの丘の上の学園には、一つの奇妙な掟があった。卒業するためには、高校三年間で最も価値のある記憶を一つ、学園に「提出」しなければならない。提出された記憶は、その生徒の脳から完全に消去される。まるで、最高の思い出を卒業証書の対価にするかのように。

「なあ湊、お前は何を提出するか決めたか?」

卒業を一ヶ月後に控えた放課後、埃っぽい光が舞う旧視聴覚室で、友人の健太が尋ねてきた。僕は窓枠に腰掛け、色褪せた街並みを眺めながら肩をすくめた。

「さあな。どうせ消えるんだ。去年の夏休み、暇つぶしに行ったつまらない映画の記憶でも提出しておくさ」

「馬鹿言え。そんなもの、システムに弾かれるに決まってるだろ」

健太の言う通りだった。学園の「記憶提出システム」は、提出される記憶の「感情価」を測定する。喜び、悲しみ、感動、愛情。そうした強い感情の振れ幅が一定基準に満たない記憶は、「価値なし」と判定され、受理されないのだ。卒業できない生徒の末路は誰も知らない。ただ、毎年数人が「留年」という名の失踪を遂げるだけだ。

僕にとって、それは滑稽な儀式に過ぎなかった。記憶なんて、脳が作り出すただの電気信号の残滓だ。それに価値を見出し、執着すること自体が非合理的だと思っていた。親の都合で転校を繰り返してきた僕にとって、一つの場所に固執する感傷など持ち合わせていない。この学園での三年間も、通り過ぎる風景の一つに過ぎなかった。

だから、僕は焦っていた。僕の高校生活には、システムが満足するほどの「価値ある記憶」など、どこにも見当たらなかったからだ。

数日後、僕は試しに、健太の言う通り「つまらない映画の記憶」を提出ターミナルに入力してみた。案の定、ディスプレイには冷たい赤い文字が浮かび上がった。

『感情価、基準値以下。受理できません』

その無機質な文字列が、僕の三年間そのものを否定しているように見えて、初めて胸の奥に冷たい焦りが流れ込んだ。卒業まで、あと三週間。僕は、卒業資格を得るために、「失っても惜しくない、それでいて価値のある記憶」を、意図的に作り出さねばならないという矛盾した状況に追い込まれたのだ。それはまるで、乾いた心で感動的な詩を書けと言われているようなものだった。

第二章 シャッター音の残響

「価値ある記憶」を求めて彷徨う僕の目に留まったのは、写真部の望月千尋だった。彼女は、いつも古いフィルムカメラを首から下げ、世界のすべてを切り取るかのようにファインダーを覗き込んでいる。彼女なら、「記憶」というものの価値を、僕とは違う次元で理解しているかもしれない。打算的な考えだった。彼女と親しくなり、手頃な思い出を作り、それを差し出してこの学園から去る。計画は完璧なはずだった。

「何を探してるの?」

屋上で夕焼けを撮っていた彼女に、僕はそう声をかけた。彼女はファインダーから目を離し、不思議そうに僕を見つめた。琥珀色の瞳が、沈みゆく太陽の光を吸い込んで、静かに揺らめいていた。

「探してるんじゃない。残してるの」と彼女は言った。「消えてしまうから、残すの。光も、時間も、記憶も」

その日から、僕は何かと理由をつけて千尋と過ごすようになった。彼女は、僕が今まで気づかなかった世界の色彩を教えてくれた。雨上がりのアスファルトの匂い、校舎の壁を伝う蔦の葉脈の繊細な模様、夕暮れの教室に差し込む光が作る長い影のグラデーション。彼女の隣にいると、無味乾燥だったはずの世界が、五感を通して鮮やかに流れ込んでくるようだった。

彼女はよく、亡くなった兄の話をした。兄もこの学園の卒業生で、写真が趣味だったこと。彼女が持つカメラは、兄の形見であること。

「私にはね、絶対に消したくない記憶があるんだ」

ある日、現像室の赤いランプの下で、彼女はぽつりと言った。

「兄が最後に撮ってくれた、私の笑顔の写真。その時のこと、全部覚えてる。風の匂いも、兄の笑い声も。もし、あれを提出しろって言われたら、私は卒業できなくてもいい」

その真剣な眼差しに、僕は言葉を失った。記憶を失うことを、これほどまでに恐れる感情を、僕は理解できなかった。だが同時に、彼女のその強い想いに、どうしようもなく惹きつけられている自分に気づいていた。

そして、運命の夜が来た。ペルセウス座流星群が極大を迎えるという夜、僕らは二人で学校の裏山に登った。満天の星空から、光の筋がいくつも、いくつも降り注ぐ。千尋はカメラを構えるのも忘れ、空を見上げていた。その横顔は、僕が今まで見たどんな景色よりも美しかった。

「綺麗だね、湊くん」

彼女が微笑んだ瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。ああ、これだ。この記憶だ。この星空の煌めき、夜風の冷たさ、隣にいる彼女の温もり、そして胸を満たすこの高揚感。これならば、システムも文句なく受理するだろう。僕はついに「卒業するための記憶」を手に入れたのだ。喜びと、そしてほんの少しの寂しさを感じながら、僕は流れ星に手を合わせた。

第三章 アーカイブの心臓

卒業式を三日後に控えた日、僕は意気揚々と記憶提出ターミナルの前に立っていた。千尋と見た、あの流星群の夜の記憶。それを差し出すことに、もはや躊躇いはなかった。失うのは惜しい。だが、これは僕がこの学園で得た、紛れもない「価値ある記憶」だ。

僕はターミナルに意識を接続し、あの夜の光景を思い浮かべた。システムが僕の記憶をスキャンし、感情価を測定していく。

『感情価、基準値クリア。高価値記憶と認定。関連記憶情報を照会します』

ディスプレイに文字列が流れる。見慣れないプロセスだったが、気に留めなかった。しかし、次に表示された情報に、僕は凍りついた。

『関連対象:望月 隼人(8年前の卒業生)』

『提出記憶:妹(千尋)と過ごした最後の誕生日の記憶』

『特記事項:対象(湊)と望月千尋の接触は、上記提出記憶の感情パターンとの高い共鳴性が確認されたため、システムが介入・誘導した可能性を記録する』

望月隼人。千尋の亡くなった兄の名前だ。意味が分からなかった。システムが、僕と千尋の出会いを誘導した? なぜ?

パニックに陥る僕の脳内に、情報が奔流のように流れ込んできた。それは、この学園の、このシステムの、隠された核心だった。

この学園は、単なる教育機関ではなかった。それは、生徒たちから集めた「最も価値ある記憶」をエネルギー源として機能する、巨大な生体アーカイブだったのだ。集められた記憶は、学園の生命維持装置であり、その知性の源泉だった。そして、システムはより効率的に高価値の記憶を集めるため、過去に提出された記憶と共鳴する感情を持つ生徒同士を無意識下で引き合わせ、新たな「価値ある記憶」が生まれるよう仕向けていた。

千尋の兄が提出した「妹との最後の記憶」。その記憶が持つ強い愛情や切なさが、僕の中にあった潜在的な孤独感と共鳴した。だからシステムは僕を千尋に引き合わせたのだ。僕があの夜、千尋に感じた特別な感情も、すべてはシステムによってお膳立てされた、記憶を生産するための筋書きだったのかもしれない。

僕の価値観が、音を立てて崩壊した。合理主義、自己決定、そうした僕が信じてきたものすべてが、巨大なシステムの掌の上で踊らされていたに過ぎなかった。何より僕を絶望させたのは、千尋のことだった。彼女が命懸けで守ろうとしている兄との思い出。その記憶の片鱗が、今もこの学園のどこかで生き続け、僕らを操っていたという事実。僕が彼女との記憶を提出することは、彼女の尊厳を踏みにじる行為に他ならなかった。

僕は、ターミナルへの接続を強制的に遮断した。床に崩れ落ち、荒い息を繰り返す。卒業など、どうでもよくなった。僕が考えていたのはただ一つ。どうすれば、この残酷なシステムから、千尋の心を、彼女の大切な記憶を守れるのかということだけだった。

第四章 空白のグラデーション

卒業式当日。僕は再び、記憶提出ターミナルの前に立っていた。僕が選んだ道は、卒業でも、逃亡でもなかった。それは、僕なりの、このシステムに対するささやかな反逆だった。

僕は千尋との流星群の記憶ではない、別の記憶をシステムに差し出した。

それは、「記憶に価値などないと思っていた合理主義者の僕が、望月千尋という一人の少女と出会い、システムの真実を知り、絶望し、それでも彼女を守りたいと願い、この決断に至るまでの、この数ヶ月間の葛藤の記憶」そのものだった。

僕という人間が、根底から覆された変化の記録。僕の内面で起きた、最も激しく、最も価値のある革命の記憶だ。

システムは沈黙した。おそらく、前例のない提出物だったのだろう。感情価の測定が、異常なほど長い時間に感じられた。やがて、ディスプレイに静かな緑色の光が灯った。

『…最高価値記憶と認定。受理します』

意識が遠のく。僕が「湊」という人間になった、その設計図とも言える部分が、ごっそりと抜き取られていく感覚。なぜ自分がここにいるのか。なぜこんなことをしているのか。その理由が、急速に色褪せていく。

気がつくと、僕は卒業生でごった返す校門の前に立っていた。胸には卒業証書が抱えられている。空はどこまでも青く、世界は何も変わらずにそこにあった。

「湊くん!」

振り向くと、千尋が駆け寄ってきた。その笑顔を見て、僕の胸に理由の分からない温かい感情が込み上げた。なぜだろう。彼女の顔を見るだけで、何か大切なものを守り抜いたような、そんな満たされた気持ちになるのは。

「卒業、おめでとう」と彼女は言った。「湊くん、なんだか…少し顔つきが変わったね。柔らかくなったっていうか」

僕は自分の胸に手を当てた。そこには、ぽっかりと穴が空いているようだった。彼女を大切に思う気持ちはある。でも、なぜそうなったのか、その根源的な理由が思い出せない。まるで、結論だけが残された、数式のようだ。

僕は空を見上げた。記憶を失うことは、自分の一部を失うことだと思っていた。だが、違ったのかもしれない。提出した記憶は消えても、その記憶によって形作られた今の僕自身は、ここにいる。

「何を忘れたのかは、もう思い出せない」

僕は、隣で微笑む千尋に聞こえないくらいの声で呟いた。

「でも、何を失くしたくなかったのかは、今なら分かる気がする」

空白を抱えたまま、僕は新しい世界へと一歩を踏み出した。失った記憶のグラデーションが、これからの僕の人生を、きっと誰よりも深く、豊かな色で彩ってくれるだろうと信じて。

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