無彩色の図書館
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無彩色の図書館

第一章 褪せたインクの香り

識(しき)は、息を殺して古い本の頁をめくった。

革の表紙はひび割れ、乾いたインクの香りが鼻腔をくすぐる。ここは学園の最奥に佇む、通称「禁書庫」。彼の住処であり、牢獄でもある。指先が触れた一行に、彼の視線が落ちる。

『星屑』

その二文字を認識した瞬間、世界が微かに軋む音を立てた。禁書庫の窓から見えていた夜空から、幾億の光の点が、まるで水に溶ける絵の具のように滲んで消えていく。今この瞬間、世界のあらゆる書物から、歌から、人々の記憶から、「星屑」という言葉はその意味ごと剥離した。夜空を見上げる恋人たちは、あの無数の輝きを何と呼べばいいのか、もう知らない。

「また一つ、世界から色を奪ったか」

背後からかけられた声は、氷のように冷たかった。教頭の御影(みかげ)だ。感情の読めない瞳で、彼は識を射抜く。

「お前の知識欲が、世界を無彩色に塗り替えていく。その罪の重さを、忘れるな」

識は何も答えず、本を閉じた。閉じた表紙からは、もうタイトルが消え失せている。ただの黒い革の塊だ。彼は知っていた。自分の持つこの呪われた能力――読んだ文字を、概念ごと世界から消滅させる力――が、どれほど取り返しのつかないことをしているのかを。だから彼は、この誰も訪れない図書館で、世界から隔絶されるように生きている。知識を得ることは、世界を喪失させること。そのジレンマが、鉛のように彼の心を沈ませていた。

第二章 不協和音のプレリュード

このエウノミア学園では、生徒の心に宿る「概念」が具現化する。そして、それが不安定になると「概念災害」を引き起こす。最近、その災害が頻発していた。

「ねえ、識。なんだか、最近ピアノの音が変なんだ」

中庭で会った奏(かなで)が、不安げに眉をひそめた。彼女は「音楽」という概念と深く結びついた生徒で、その指が紡ぐ旋律は、聴く者の心を癒す力を持っていた。しかし今、彼女の周囲には不協和音が漂っているようだった。

「鍵盤を叩いても、音が濁るの。まるで、意味のないただの振動みたいで……」

識の心臓が、冷たい手で掴まれたように痛んだ。

一週間前、彼は禁書庫で『調和』という言葉を読んでしまったのだ。

自分のせいだ。奏の音楽から美しさを奪ったのは、この俺なのだ。だが、それを彼女に告げることはできない。彼はただ、曖昧に微笑んでみせるしかなかった。

その夜、学園の廊下を歩いていると、壁にかけられた絵画の色が、まるで生命力を失ったかのように褪せていくのが見えた。誰かの「色彩」の概念が揺らいでいる。識が言葉を喰らうたびに、世界を構成する概念の基盤が少しずつ崩れ、その影響が、最も純粋な心を持つ生徒たちから現れ始めているのかもしれない。

第三章 沈黙のクレッシェンド

それは、突然訪れた。

学園全体を、耳鳴りのような静寂が支配した。生徒たちの話し声が、鳥のさえずりが、風の音が、全てその意味を失い、ただの空気の振動へと成り下がったのだ。奏の「音楽」の概念が、ついに暴走した。「沈黙の音」と呼ばれる概念災害だった。人々は口を開けても、言葉は音にならず、音は意味にならなかった。世界からコミュニケーションの基盤が奪われていく。

このままでは、世界が壊れる。

識は禁書庫へと走った。この災害を鎮めるには、概念の成り立ちが記されているという「原典」を読むしかない。それがどんな結果を招こうとも、もう躊躇う時間はなかった。

禁書庫の最深部、巨大な鉄の扉の前で、御影が静かに立っていた。

「行かせるわけにはいかない」

「どいてください! このままじゃ、奏が……世界が!」

「お前がそれを読めば、本当に全てが終わる。それは破壊の引き金だ」

御影の制止を振り切り、識は扉に手をかけた。重い金属の軋む音だけが、意味を失った世界にかろうじて響く。扉の向こうには、たった一冊、黒い革表紙の本が祭壇のように置かれていた。

第四章 最後の栞

識は震える手で「原典」を手に取り、その頁を開いた。

しかし、そこにあったのは無限に続くかに思える白紙だけだった。文字一つない。騙されたのか。絶望が識を包み込もうとした、その時。一冊の白紙の本の中から、はらりと何かが滑り落ちた。

それは、何も挟んでいない、ただの透明な栞だった。

拾い上げ、指で触れた瞬間。

奔流が、識の意識を呑み込んだ。これまで彼が消してきた、数えきれないほどの言葉たちが、幻影となって脳裏に瞬く。『愛』『希望』『悲しみ』『空』『友情』『絶望』『時間』――。

文字は消えても、その「意味の残滓」は、この「最後の栞」に薄い透明なインクで記録され続けていたのだ。言葉が持つ温かさ、重み、そして美しさが、奔流となって彼の魂を洗い流していく。

そして、その奔流の中に、御影の記憶が流れ込んできた。彼は敵ではなかった。彼は、この世界が概念で飽和し、新たな創造の余地を失った時に現れる「最後の読者」を導き、世界の「リセット」を見届ける、悠久の時を生きてきた守護者だったのだ。

概念災害の頻発は、世界の終焉が近いことを示す兆候。識の能力は呪いではなく、古い世界を解体し、新しい世界の礎を築くための、神聖な破壊の力。

「そうか……俺は、壊していたんじゃなかった。更地にして、いたのか……」

声にならない声が、識の口から漏れた。世界から意味を消し去ることは、新しい意味が生まれるための、壮大な儀式だったのだ。

第五章 無へと還る言葉たち

真実を知った識に、もはや迷いはなかった。彼は禁書庫に戻ると、残された全ての書物を、全ての文字を、凄まじい速さで読み始めた。

ページをめくるたびに、世界は急速にその輪郭を失っていく。

建物を指す言葉が消え、コンクリートの塊になる。空を指す言葉が消え、ただの上方にある空間になる。人々の顔から表情が消え、ただの肉の起伏になる。喜びも、怒りも、悲しみも、それを示す言葉がなければ、ただの心臓の鼓動の変化でしかない。

奏が引き起こした「沈黙の音」も、そもそも「音楽」や「沈黙」という概念そのものが消滅したことで、何の力も持たずに霧散した。人々は意味を失った世界で、ただ呆然と立ち尽くしている。

やがて、識は最後の一冊を手に取った。そのページに記された、最後の単語。彼はそれに静かに視線を落とす。

『言葉』

その二文字を読み終えた瞬間、世界は完全に停止した。

音も、色も、光も、闇も、形も、匂いも、あらゆる感覚、あらゆる意味が消失する。意識さえも溶けていくような、絶対的な「無」。しん、と静まり返った、どこまでも続く純白の空間が、そこにはあった。

第六章 最初の創声

完全な「無」の中に、二つの意識だけが漂っていた。識と、御影だ。

「よく、やり遂げた」

御影の声は、もはや音ではなく、純粋な意志として識に届く。

「これが、太古から繰り返されてきた『概念のリセット』だ。澱み、飽和した世界を一度洗い流し、新たな可能性の土壌を作るための儀式。そして君は、その大役を果たした」

識の目の前には、無限の空白が広がっている。それは終わりではなく、始まりのキャンバスだった。

「さあ、始めるのだ」と御影が促す。「君が、この新しい世界の最初の意味を定義するんだ」

識は、自らの手の中に「最後の栞」が握られているのを感じた。消えた言葉の墓標であったそれは今、新しい言葉を書き記すための「最初のペン」へと姿を変えていた。

何を、最初に綴るべきか。

彼は思考する。失われた世界の美しさを。奏が奏でた、あの不器用で、けれど優しい旋律の記憶を。御影が背負ってきた、永い孤独を。人々が、言葉を失う直前まで交わしていた、温かい眼差しを。

長い、長い沈黙の果てに。

識はゆっくりと、空白に向かってその指を動かし始めた。

そこに、たった一つの、温かい光のような概念を宿した、新しい世界の「最初の言葉」を、静かに紡ぎ出すために。

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