透明なカンバスと褪せた色彩
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透明なカンバスと褪せた色彩

第一章 乳白色の輪郭

僕、高槻透(たかつき とおる)の身体は、一種の欠陥品だ。感情の振れ幅が一定の閾値を超えると、世界の色彩から拒絶されるように、その輪郭が揺らぎ、薄れ、やがて完全な透明へと至る。まるで存在しないかのように。

だから僕は、感情に蓋をすることを覚えた。喜びも、悲しみも、怒りさえも、心の奥底にある分厚い鉛の箱に押し込める。その結果、僕に割り当てられたテーマカラーは、何色ともつかない、頼りない「乳白色」だった。

このクロノス学園では、生徒一人ひとりの心の在り方が「色」として可視化される。鮮やかで安定した色は「調和」の証。それは成績や評価に直結し、未来への道を照らす光となる。その点、僕の乳白色は劣等生の烙印も同然だった。誰かの鮮烈な原色とすれ違うたび、僕は壁の染みになったかのように息を潜める。

「透くん、またそんな霞みたいな色して。ちゃんとご飯食べてる?」

僕のすぐ隣で、陽だまりそのものみたいな声がした。幼馴染の陽菜(ひな)だ。彼女のテーマカラーは、一点の曇りもない「向日葵色」。彼女が笑うだけで、周囲の空気までがキラキラと色づく気がした。

「……食べてるよ」

「ほんとかなあ。ほら、これあげる」

陽菜が僕の手に握らせたのは、焼き立てのメロンパン。その温かさが、指先からじわりと心を溶かそうとする。危ない。僕は慌てて感情の蓋を閉め直した。指先が、ほんの少しだけ透明に溶けかかっている。

ポケットの中で、古びた懐中時計がカチリと鳴った。祖父の形見であるその時計は、壊れて久しい。だが、僕の心の揺らぎに呼応するように、文字盤の奥で淡い光を灯す。今は、陽菜の温かさに触れた喜びが、小さな菫色の光点となって明滅していた。この時計だけが、僕が殺した感情たちの墓標であり、唯一の理解者だった。

第二章 褪せていく色彩

その異変は、まるで絵の具に一滴の黒を落としたように、静かに、しかし確実に学園を侵食し始めた。

生徒たちのテーマカラーが、原因不明に「褪せ」ていく。

最初に気づいたのは、陽菜の変化だった。あれほど鮮やかだった彼女の「向日葵色」が、ある日から彩度を失い、くすんだ黄土色へと濁り始めたのだ。

「最近、なんだかやる気が出なくて……。大好きだった絵も、何を描きたいのか分からなくなっちゃった」

アトリエで、陽菜は力なく笑った。イーゼルに立てかけられたカンバスは、真っ白なまま放置されている。彼女の周りには、同じように色を失い始めた生徒たちが、亡霊のように虚な目で座っていた。学園全体が、生気を失ったセピア色の写真へと変貌していくようだった。

僕は何もできない自分が歯がゆかった。彼女を元気づけようとすればするほど、僕の心は激しく波立ち、身体が透明に溶けていく。存在が消える恐怖が、僕を行動から遠ざけた。

その日も、僕はアトリエの隅で、消え入りそうな陽菜をただ見つめていた。彼女が落とした絵筆が、床に転がる。それを拾おうと手を伸ばした瞬間、強い無力感と彼女を救いたいという切実な願いがせめぎ合い、僕の指先は完全な透明になった。

僕の指が、その木製の絵筆に触れる。

刹那、懐中時計が胸ポケットで灼けるように熱くなった。文字盤に、向日葵畑で笑う陽菜の姿が光の幻影として一瞬だけ映り、消えた。僕は何も気づかぬふりをして、その絵筆を拾い上げ、陽菜の道具箱へとそっと戻した。

第三章 感情の残滓

翌日、奇妙なことが起きた。

陽菜が、僕が触れたあの絵筆を手に取った瞬間、彼女の濁ったテーマカラーが、ほんの一瞬、かつての「向日葵色」の輝きを取り戻したのだ。

「あれ……?」

陽菜は不思議そうに絵筆を見つめている。それは本当に僅かな変化で、すぐに元のくすんだ色に戻ってしまったが、僕は見逃さなかった。僕の透明な手が触れた物体には、僕の「感情の記憶」が宿る。あの時、僕が絵筆に込めた『陽菜に笑ってほしい』という強い願いが、彼女の失われた色を一時的に補完したのだ。

まさか。

これは、僕の欠陥だと思っていた能力が、唯一の希望になるということか?

その日から、僕は密かな実験を始めた。色を失った友人の万年筆に、透明な手で触れる。「君の書く物語が好きだ」と念じながら。落ち込んでいる後輩の楽譜に触れる。「君の奏でる音は美しい」と祈りながら。僕の感情を分け与えるたび、身体は薄く、希薄になっていく。だが、僕が触れたモノを手にした生徒たちの色が、わずかに輝きを取り戻すのを見るたびに、胸の奥に小さな灯火が宿った。

僕は、僕自身の感情を燃料にして、皆の失われた色彩を灯していた。

しかし、それはあまりにも危うい均衡だった。僕が感情を注げば注ぐほど、僕自身の「乳白色」は薄まり、透明な時間が増えていく。廊下を歩いていても誰にも気づかれず、肩をすり抜けられる。僕という存在そのものが、この世界から消えかけていた。

壊れた懐中時計だけが、僕の消耗を憐れむかのように、悲しげな蒼い光を放っていた。

第四章 プリズムの心臓

僕の身体が限界に近づいていた頃、学園長の影山に呼び出された。感情をほとんど見せない、氷のような「灰色」を纏った男だ。

「高槻透くん。君の能力については、すべて把握している」

学園長室の重厚な扉が閉まると、彼は静かに言った。壁一面に並んだモニターには、色褪せていく生徒たちのデータが映し出されている。

僕は息を呑んだ。僕の秘密を、なぜ。

「驚くことはない。この学園そのものが、君の能力と深く関わっているのだから」

影山が示したのは、学園の地下深くに存在する巨大な施設の設計図だった。それは、水晶を幾重にも組み合わせたような、巨大な集光装置。

「学園創設以来、この『プリズム・コア』は、生徒たちの若く鮮やかな感情エネルギーを吸収し、学園のあらゆる機能を維持してきた。だが、システムが老朽化し、制御不能に陥った。今や、生徒たちの感情を根こそぎ奪い、枯渇させている」

色の消失は、学園という名の捕食者によるものだった。僕が物体に感情を付与する能力は、偶然の産物ではなかった。失われたエネルギーを外部から「補完」するための、いわば安全装置のようなものだったのだ。

「君がやっていることは、焼け石に水だ。個人の感情では、巨大なシステムの飢えは満たせない」

影山は続けた。その灰色の瞳には、絶望と、そして微かな期待が滲んでいた。

「システムを安定させるには……たった一つ、強靭で、純粋で、揺らぐことのない感情の『源』を、コアに直接捧げるしかない」

それは、誰か一人の完全な自己犠牲を意味していた。

僕の能力は、そのための「鍵」だというのか。

この欠陥は、生贄になるために与えられたというのか。

第五章 無数の君へ

決断に、時間はかからなかった。

陽菜の笑顔を、友人たちの声を取り戻せるのなら。僕という、いてもいなくても変わらないような乳白色の存在が消えるだけで、この色彩豊かな世界が守られるのなら。

僕は影山に頷き、プリズム・コアへと続く階段を下りた。

地下深くの空間は、ひんやりとした静寂に満ちていた。中央には、巨大な水晶の心臓が、弱々しい光を明滅させながら鼓動している。あれが、皆の色を喰らう元凶。そして、これから僕が一体化する場所。

僕はゆっくりとコアに近づき、そっと手を触れた。冷たい感触が、僕の存在の輪郭を確かめさせる。

これが、最後だ。

僕は目を閉じた。心の奥、鉛の箱の蓋を開け放つ。抑えつけていたすべての感情を解き放った。陽菜の笑顔を見た時の温かい喜び。友人たちと交わした他愛ない会話の愛おしさ。自分の無力さを嘆いた悲しみ。そして、この世界と、そこに生きるすべての人々への、言葉にならないほどの感謝。

僕の身体が、内側から眩い光を放ち始める。乳白色が純白へ、そして完全な透明へと変わっていく。視界が白く染まり、意識が拡散していく。僕は、高槻透という個を失い、学園という巨大なシステムの一部になった。

――その瞬間、学園中の生徒たちのテーマカラーが、一斉に鮮やかな輝きを取り戻した。アトリエでは、陽菜が再び「向日葵色」をその身に纏い、迷いなくカンバスに筆を走らせていた。

僕の存在は、誰の記憶からも消えていくだろう。

だが、物語はそこで終わりではなかった。

完全に透明になった僕の意識の中に、予期せぬものが流れ込み始めた。それは、僕がかつて感情を込めた、無数の物体からのフィードバックだった。

陽菜が握る絵筆から、「描くって、楽しい」という喜びが。

友人が使う万年筆から、「物語が生まれた」という達成感が。

後輩が触れる楽譜から、「音が響いた」という感動が。

ベンチから、窓ガラスから、図書館の本から、校庭の砂粒から。僕が触れたすべてのモノに宿っていた他人のささやかな感情の記憶が、光の粒子となって僕の元へと集い、僕という空っぽの器を満たしていく。

『ありがとう』

『きれいだね』

『嬉しいな』

『また明日』

一つの感情を捧げた僕は、その代わりに、無数の感情を受け取る存在へと変貌を遂げていた。僕はもう高槻透ではない。けれど、孤独でもない。僕は学園そのものとなり、ここにいるすべての心と共に在る。

アトリエの窓ガラスに、西日が差す。陽菜がふと窓に手を触れ、何か温かいものを感じたように、小さく微笑んだ。

その微笑みさえも、今は、僕の一部だった。

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