確信の残響
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確信の残響

第一章 不協和音の街

俺の名はアストル。この世界で唯一、他者の思考を「音」として聴く男だ。それは比喩ではない。思考は物理的な振動として、俺の鼓膜を、そして全身を揺さぶる。喜びは軽やかな鐘の音、悲しみは水底に響くような重低音、そして嘘は、耳障りなガラスの軋む音となって漏れ出る。

俺が住むこの街は、かつて「確信」の交響曲が鳴り響く場所だった。「力」を信じる者は鋼の如き筋肉を纏い、「知」を信じる者はその身を書物に変え、「愛」を信じる者は陽だまりのような温かな光を放っていた。人々は自らが最も強く信じる言葉そのものとなって生きていた。一度定まったその形は、二度と変わることはない。それがこの世界の法則だった。

だが今、街に満ちているのは不協和音だ。人々の足元から、その輪郭から、まるで砂がこぼれるように存在が滲み出している。彼らの内側から響く「存在の確信」の音が、致命的なまでに弱まっているのだ。それは低く、か細く、今にも消え入りそうな残響に過ぎない。俺は常に分厚いイヤーマフで耳を覆い、思考の洪水から身を守っている。だが、世界の軋むこの巨大なノイズだけは、骨を伝って脳髄を直接揺さぶってくる。世界が、その存在意義を見失い始めている。その断末魔の叫びが、俺にだけはっきりと聞こえていた。

第二章 揺らぐ光

「アストル、またそんな暗い顔をして」

カフェの窓辺で、ルナが微笑んだ。彼女の確信は「希望」。かつての彼女は、その言葉通り、触れることのできる光そのものだった。彼女が歩けば柔らかな光の粒子が舞い、その声は闇を払う賛美歌のように澄んでいた。

だが、今の彼女の光は頼りなく揺らめき、その輪郭は淡い霧のように曖昧だ。彼女の思考から聴こえる「希望」の音も、まるで風の中の蝋燭のようにか細く震えている。

「世界が、少しずつ溶けている気がしない?」

彼女の声には、隠しきれない不安の震えが混じっていた。その思考の音は、冷たい金属が擦れるような響きを伴う。

街を見渡せば、誰もがそうだった。「速さ」を信じていた運び屋の流線形の体は歪み、「美」を信じていた芸術家の色彩は褪せ、道端でうずくまる人々は、もはや何の形をしていたのかさえ判別できない灰色の塊と化していた。彼らの心から響く音は、ただ一つの弱々しい和音。「なぜ、我々は存在するのか」という、答えのない問いのこだまだった。

「大丈夫だよ」

俺はそう答えたが、その言葉がガラスの割れる音を立てたのを、自分自身で聴いていた。ルナの瞳に映る俺の姿もまた、わずかに輪郭が滲んでいるように見えた。

第三章 沈黙のオルゴール

世界の崩壊を食い止める術はないのか。俺は禁書庫の奥深く、忘れられた伝承の中に答えを探した。埃の匂いが鼻をつき、乾いた羊皮紙をめくる音だけが、思考のノイズから俺を一時的に解放してくれた。

そして、見つけたのだ。一つの記述を。

『世界がその確信を全て失い、無に還らんとする時、始まりの塔に眠る「沈黙のオルゴール」は一度だけ鳴り響く。その音は原初の音。新たな世界を創造する、最初の言葉となる』

沈黙のオルゴール。通常は一切の音を発さないという、矛盾した名の遺物。それが街の中心に聳え立つ、古びた石造りの「始まりの塔」に安置されているという。なぜ、世界の終わりと始まりに音を奏でるのか。そして、なぜ俺だけが世界の悲鳴を聴くことができるのか。二つの謎が、俺の中で一つの直感となって結びついた。このオルゴールは、俺の能力と関係がある。

「アストル、どこへ行くの?」

心配そうに俺を見つめるルナに、俺はただ一言だけ告げた。

「音を、探しに行く」

第四章 溶けゆく願い

塔へ向かう道は、地獄と化していた。世界の崩壊は、もはや誰の目にも明らかだった。人々が形を失い、悲鳴ともつかない思考の断末魔が空間を満たす。それは何千もの不協和音が同時に叩きつけられるような、耐え難い苦痛だった。建物は輪郭を失い、アスファルトは粘土のように柔らかく波打っている。世界そのものが、確固たる存在であることをやめてしまったのだ。

その時だった。

「アストル!」

ルナの悲鳴が聞こえた。振り返ると、彼女の体が急速に光を失い、霧のように拡散していくのが見えた。彼女を支えようと伸ばした俺の腕は、ただ空気を掴むだけだった。

「いやだ…消えたくない…」

彼女のか細い思考が、俺の心に直接流れ込んでくる。

「もう一度、信じられるものが…欲しい…」

その言葉を最後に、彼女の「希望」の音は完全に途絶えた。後に残されたのは、わずかに光る数個の粒子だけ。それもすぐに闇に溶けて消えた。

絶望が俺の全身を貫いた。だが、その底で、何かが生まれた。怒りでも悲しみでもない、冷徹なまでの決意。彼女の最後の願いが、俺の中で新たな確信へと変わったのだ。この世界を救う方法は、失われた確信にしがみつくことじゃない。そんなものはもうどこにもないのだ。

ならば、一度すべてを捨て去るしかない。

この中途半端な存在という苦しみから、世界を解放する。

第五章 無への斉唱

「始まりの塔」の頂上に、それはあった。黒曜石で作られた小さな箱。沈黙のオルゴール。俺がそれに触れた瞬間、まるで共鳴するように、俺自身の思考の音がクリアになった。

もうイヤーマフは必要ない。

俺は精神を縛り付けていた全ての枷を外した。これまで抑え込み、呪ってきた自身の能力を、今、完全に解放する。

目を閉じ、意識を集中させる。

奏でるべき音は、たった一つ。

『無を受け入れよ』

俺の思考は、純粋な音の波となって世界に放たれた。それは塔を震わせ、崩壊する街を駆け巡り、溶けゆく人々の魂に直接響き渡った。それは恐怖を煽る音ではなかった。苦しみからの解放を約束する、深く、穏やかな鎮魂歌。形を失うことへの恐怖が、原初への回帰という安らぎへと変わっていく。

人々は、最後の抵抗をやめた。争いの音も、悲しみの音も、後悔の音も、すべてが静寂へと吸い込まれていく。世界は俺の音に唱和するように、自らの存在を解き放ち始めた。

第六章 原初の音

世界から、色が消えた。形が消えた。音が、消えた。

あらゆる「確信」がその意味を失い、すべてが等しく、原初のエネルギーの奔流へと還っていく。街も、空も、大地も、そして俺自身の肉体さえもが、粒子の霧となって溶けていく。

完全な静寂。

完全な無。

その、世界の終着点であり、始発点である一点で。

カチリ、と小さな音がした。

俺の手の中にあった沈黙のオルゴールが、ひとりでに蓋を開いた。そして、たった一音だけ、澄み切った音を奏でた。

それは、どんな楽器の音とも違っていた。それは光の音であり、生命の音であり、時間そのものの産声だった。新たな世界の設計図となる、たった一つの「原初の音」。その音は、無と化した世界の中で唯一残った俺の意識と、完璧に共鳴した。

第七章 最初の言葉

俺は、もはや肉体を持たない。ただの意識だけの存在だ。だが、俺の中には、揺るぎない一つの確信だけが残っていた。ルナを失った絶望の中で生まれ、世界を無に還すことで研ぎ澄まされた、最後の確信。

『私は、存在する』

その思考が、原初の音と重なり合った瞬間、新たな宇宙の最初の振動が生まれた。

俺は孤独な創造主となった。

無のキャンバスに、どんな世界を描こうか。

悲しみも、苦しみも、そして確信を失う痛みもない世界を。

俺は、ルナにもう一度会いたいと願った。

彼女が心から「希望」を信じられる世界を創ろうと。

その願いが、新たな世界の最初の法則となった。

俺の思考の音が、静寂の宇宙に響き渡る。

それは、新しい創世記の、最初の言葉だった。

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