第一章 目覚めの吐息、色褪せた世界
「ねえ、リア。今日はどんな夢を見てるの?」
朝、薄絹のような光が差し込む部屋で、母の優しい声が耳に届いた。しかし、その声はいつもよりも少し遠く、そしてはっきりと、リアの意識を揺り起こした。リアはまぶたを開け、ぼんやりとした視界に、虹色の粉が舞う光景を捉えた。それは、毎夜、窓から流れ込み、人々が吸い込むことで、終わりなき鮮やかな夢を紡ぎ出す『夢の粉(ユメノコ)』だ。この世界の誰もが、夜の間に咲く『夜光花』から放たれるこの粉を吸い込み、現実と非現実の区別がつかないほどの鮮明な夢の中で生きていた。夢こそが彼らの生命力であり、創造性の源なのだ。目覚めて現実を完全に認識してしまうと、二度と夢を見ることができなくなり、生命力が急速に失われるという言い伝えがあった。
リアもまた、これまでずっとそうだった。毎朝、夢の続きを語り合うことが、この集落の日常であり、文化だった。昨夜の夢は、空を泳ぐ魚たちと、歌うように咲き誇る花々のパレードだった。いや、それは一昨日の夢だったかもしれない。どれもが現実のように鮮やかで、同時に、ぼんやりと霞がかっていた。
だが、今朝は違った。リアの脳裏には、夢の断片が一つも残っていなかった。代わりに、ひどく乾いた喉の痛みと、シーツのざらつき、そして母の顔のわずかな皺が、あまりにも鮮明に、現実として迫ってきた。
「夢……見てないわ」
声に出すと、自分の声が耳障りなほどはっきりと響いた。母は驚いたように、リアの額に手を当てる。ひんやりとした感覚が、これまでのどんな夢よりも「本物」だと感じられた。
「まあ、どうしたの? 悪夢でも見たの? 私のリアは、いつも素敵な夢ばかり見る子だったのに……」
母の言葉は、まるでリアの存在そのものが奇妙な出来事であるかのように響いた。リアは窓の外を見た。集落の家々は、夢の粉で色付けされたように、パステルカラーの光を放っていた。人々は眠たげな目をこすりながら家を出て、夢の中で見た奇妙な生物や、ありえない出来事について楽しげに語り合っている。
リアには、その全てが、まるで薄い膜を通して見ているかのように、どこかぼやけて、そして何よりも「静か」に感じられた。これまで感じていた世界の喧騒、鮮烈な色彩、奔放な感情が、今、リアの中ではまるでフィルターをかけられたかのように、色褪せて見える。
その日以来、リアの日常は完全に変化した。彼女は夢を見ることができなくなった。夜光花の夢の粉を吸っても、何も感じない。人々が語り合う壮大な夢の話も、リアには意味不明な、でたらめの羅列にしか聞こえなかった。
「リア、あのね、昨日の夢で私が作った空飛ぶ船がね、空から金貨を降らせたのよ! あなたも見たかしら?」
友人のリラの瞳は、夢の余韻でキラキラと輝いている。しかしリアには、リラが夢の中でどれほど巨大な船を作ったのか、どれほど多くの金貨を降らせたのか、想像することすらできなかった。空飛ぶ船? 金貨? そんなものは、この世界の法則ではありえない。リアが知覚する「現実」は、常に重力に縛られ、金貨は土から生まれるわけではない。
リアは自分の感覚がおかしいのか、それとも世界がおかしいのか、分からなくなった。人々はリアを、「悪夢に取り憑かれた子」と呼び、徐々に距離を置き始めた。彼らにとって、リアの「現実」を認識する目は、恐ろしく、不理解なものだったのだ。リアの存在は、彼らの永続する甘い夢を脅かす「異常な夢」として、排斥され始めた。
第二章 現実の影、夢の淵
リアは集落を離れ、一人で森の奥へと足を踏み入れた。夢を見ない自分は、もはや集落には居場所がないと感じたからだ。夢の世界では、森の木々は色とりどりに輝き、動物たちは空を飛び、言葉を話す。しかし、リアの目には、森はただの緑と茶色の塊で、木々は地面に根を張り、鳥はただ鳴いているだけだった。それは、これまでリアが見てきた夢の森とは似ても似つかぬ、「現実の森」だった。
森の奥深くに進むにつれ、リアは奇妙なものを発見した。それは、古びた石碑だった。表面には、リアには解読できない古代の文字が刻まれている。石碑の傍らには、他の夜光花とは異なる、奇妙に歪んだ花が咲いていた。その花からは夢の粉ではなく、わずかに熱を帯びた、透明な粒子が放出されていた。
リアは手を伸ばし、その粒子に触れた。指先から脳へと、凍てつくような、しかしどこか懐かしい感覚が走り抜けた。その瞬間、リアの頭の中に、いくつもの断片的な映像がフラッシュバックした。それは、絶望的な表情を浮かべた人々、荒廃した大地、そして夜空に浮かぶ巨大な瞳のようなもの。
混乱するリアの耳に、静かな声が響いた。
「よく来たな、目覚めし者よ」
振り向くと、そこに立っていたのは、ぼろぼろの外套をまとった老人だった。その瞳は、リアと同じように、夢の余韻に揺れることなく、ただ真っ直ぐにリアを見つめていた。
「あなたは……?」
「私はアルト。この世界の『夢見の番人』だ」
アルトはそう言って、リアを促した。リアは彼の案内で、石碑のさらに奥深く、地底へと続く洞窟へと降りていった。洞窟の壁には、同じ古代の文字がびっしりと刻まれている。
「この世界は、遠い昔、滅びかけた現実から逃れるために作られた」
アルトの声が、洞窟の湿った空気に響く。
「かつて、我々の祖先は、終わりのない苦痛と絶望に満ちた世界に生きていた。彼らはその現実から目を背け、永遠の安らぎを求めた。そこで、当時の賢者たちが、この『永続する夢』の世界を創造したのだ」
アルトは、壁に描かれた絵を指差した。それは、人々が巨大な装置のようなものに囲まれ、安らかな表情で眠っている様子だった。
「夜光花は、その夢を維持するための装置だ。その花から放たれる『夢の粉』は、人々の意識を夢の中に繋ぎ止め、絶滅寸前の魂を繋ぎ止めている。誰もが幸福な夢を見続け、現実の苦痛を知らずに生きる。それが、この世界の全てだ」
リアは息を呑んだ。自分が生きてきた世界が、全て「夢」だったというのか。そして、自分だけが、その夢から覚めてしまった。
「あなたも……目覚めたの?」リアは震える声で尋ねた。
アルトは静かに頷いた。「ああ。私も、何十年か前にあなたと同じように目覚めた。そして、この世界の真実を知った。以来、私は『夢見の番人』として、世界の均衡を保つために、この場所でひっそりと生きている」
リアは、自分がどれほど孤独だったかを知り、同時に、自分だけがおかしいわけではなかったことに安堵した。しかし、アルトの次の言葉が、リアの心を深い闇へと突き落とした。
第三章 夢の終焉、現実の断片
「リア、君の目覚めは、この世界にとって、重大な意味を持つ」
アルトは深く息を吐き、重々しい口調で語り始めた。
「この『永続する夢』は、人々が現実を完全に忘れ去り、夢の中に意識を集中させることで、かろうじて維持されている。夢の粉の作用は、現実への意識を薄れさせることで、魂の崩壊を防ぐものだ。しかし、君のように現実を強く認識する者が現れると、その強烈な『現実への渇望』が、夢の世界の構造に亀裂を生じさせる」
リアの背筋に冷たいものが走った。
「つまり……私の存在が、この世界を壊すというの?」
「そうだ。君の意識は、他の者たちの夢の連鎖に波紋を広げ、夢の粉の効力を弱め、いずれは世界全体を『現実』へと引き戻してしまうだろう。そして、この世界の住民は、遥か昔の祖先と同じように、現実の絶望に直面し、魂が滅びてしまう」
リアは耳を疑った。自分が感じている「現実」は、世界を破滅へと導く「悪夢」だというのか。これまで、自分の孤独と引き換えに見つけた真実が、こんなにも恐ろしいものだとは。自分が「目覚めた」ことは、果たして祝福だったのか、それとも呪いだったのか。
アルトは、リアの動揺を見守るように静かに言った。
「かつての賢者たちは、この『永続する夢』を創造する際、万が一、誰かが目覚めてしまった時のために、最後の手段を残した。それは、目覚めし者が、再び『永劫の夢』の核と一体化することで、世界の均衡を再構築する方法だ。しかし、それは君の全ての現実の記憶を消し去り、二度と目覚めることのない存在となることを意味する」
リアの心臓が激しく脈打った。自分の存在が、この世界の存続を脅かしている。そして、その原因を取り除くためには、自分がこれまで手に入れた「現実」を全て手放し、再び夢の中に身を投じなければならない。それは、死にも等しい選択だった。
彼女は、自分が初めて触れた土の冷たさ、風の匂い、そして母の顔の皺までもが、鮮明な現実として脳裏に焼き付いている。それらを失うことは、もう一度、夢の曖昧な世界へと引き戻されること。しかし、もしそうしなければ、この世界の全ての人が、自分と同じ絶望を味わうことになる。
リアは震える指で、石碑の古代文字に触れた。そこからは、かつての祖先たちの悲しみと、それでも希望を捨てずに作り上げた、この夢の世界への強い願いが伝わってくるようだった。自分一人の「現実」と、世界中の人々の「夢」。どちらが本当に大切なものなのか、リアには分からなかった。だが、彼女の心の中には、自分が目覚めて初めて感じた「現実」の重さと、アルトから聞かされた祖先たちの「絶望」が、重くのしかかっていた。
第四章 現実の架け橋、夢の守護者
リアは決意した。自分の存在が世界を滅ぼすのなら、自分自身がその世界を守る盾となろう。たとえそれが、再び夢の中へと戻る道であったとしても。しかし、彼女はただ夢に埋没するつもりはなかった。彼女は、自分が唯一知覚した「現実」を、完全に手放すことなく、その中で新たな役割を見出すことを選んだ。
アルトは、リアを夢の核へと案内した。それは、洞窟の最深部に安置された、巨大な夜光花の原種だった。その花は、この世界の全ての夜光花と繋がっており、絶え間なく夢の粉を放出し続けていた。
「この花と一体化するのだ。そうすれば、君の意識は世界を流れる夢の奔流となり、均衡を取り戻すだろう」
アルトの言葉に、リアはゆっくりと頷いた。彼女は巨大な夜光花の元へと歩み寄る。その花からは、あまりにも甘く、あまりにも鮮烈な夢の粉が、霧のように立ち上っていた。一歩踏み出せば、再び全てが曖昧な夢の中へと溶けていく。
リアは目を閉じた。脳裏に、初めて目覚めた日の、母の優しい声、シーツのざらつき、そして森の中で感じた土の匂いが蘇る。これらは、彼女が手に入れた、かけがえのない「現実」の記憶だった。
「私は、忘れない」
リアは心の中で強く誓った。自分が見つけた現実を、失うことはない。たとえ夢の中に戻ったとしても、その記憶だけは、魂の奥底にしまい込んでおこうと。
彼女は、夜光花の巨大な花弁にそっと触れた。途端、全身を甘美な光が包み込み、リアの意識は、世界を構成する夢の奔流へと吸い込まれていった。それは、途方もなく広大で、色彩豊かで、そして同時に、全てが曖昧な空間だった。個としての意識が薄れ、世界全体と一体化していく感覚。
しかし、リアは完全に溶けきることはなかった。彼女の心の中に秘められた「現実の記憶」が、夢の奔流の中で、微かな抵抗を見せたのだ。それは、この世界を成り立たせている「虚構」の中で、唯一の「真実」として存在し続けた。
世界は再び均衡を取り戻した。人々は変わらず、甘く鮮やかな夢を見続け、生命力に満ち溢れていた。しかし、時折、風に乗って、あるいは不意に差し込む光の中に、リアの「現実の記憶」の断片が、世界をかすめるようになった。それは、ある者にとっては、理由もなく胸を締め付ける切ない感覚となり、またある者にとっては、これまで見たことのない新しいアイデアや、創造性豊かなひらめきとなった。
リアはもはや、個人としての姿を持たない。彼女は、世界のどこかで、夢の奔流の中に溶け込みながらも、微かに、それでも確かに、自分の「現実」の記憶を抱きしめている。彼女は、夢の世界の守護者となり、同時に、その夢の奥底に「現実」という真実の種を蒔き続けた。
夢と現実の狭間で、永遠に。