願望の滴、忘却の海
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願望の滴、忘却の海

第一章 零れ落ちる滴

霧島湊(きりしま みなと)は、雨の日の匂いが好きだった。古びた本の紙とインクの香りが満ちる店内で、窓を打つ雨音に耳を澄ませる。だが、彼にとっての雨は、空から降るものだけではなかった。

街を歩けば、無数の水滴が彼の周囲に降り注ぐ。それは他者の「願望」が具現化したものだ。子供の「お菓子が食べたい」というささやかな願いは、虹色にきらめく小さな粒となって弾ける。恋人たちの切なる想いは、温かい光を帯びた露として彼の肩にそっと触れた。湊には、そのすべてが見え、感じられた。願望が強いほど、水滴は大きく、重い。

最近、その雨の質が変わりつつあった。街を覆うのは、鉛のように重く、肌を刺すように冷たい滴。触れるだけで、心の奥底が凍てつくような痛みが走る。それは「消えたくない」という、悲痛な叫びそのものだった。

『無貌の飢餓』。

囁かれるようになった不吉な言葉。特定の職業の人間が、ある日忽然と姿を消す。人々の記憶からも、記録からも、まるで初めから存在しなかったかのように。街角で評判だった靴職人も、三代続いたパン屋の主人も、昨日までそこにいたはずの温もりごと、世界から綺麗に削り取られていた。彼らは皆、他者の願いを形にする者たちだった。湊は降りしきる絶望の雨の中で、世界の輪郭が静かに、そして確実に見失われていくのを感じていた。

第二章 虚ろなインク

湊の恩師だった老彫刻家もまた、『無貌の飢餓』に喰われた一人だった。埃の積もったアトリエを訪れると、鑿(のみ)の音も、石を削る匂いも、すべてが過去の幻のように色褪せていた。彼の作品を覚えていたはずの人間でさえ、その主題を思い出せないでいる。存在が、世界から剥がれ落ちていた。

湊は、主を失った空間を彷徨う。その片隅に、黒檀の軸を持つ一本の万年筆が、まるで彼を待っていたかのように静かに横たわっていた。恩師が「魂の相棒だ」と笑っていた、『虚ろな万年筆』。

店に持ち帰り、ペン先を上質な紙に滑らせてみる。だが、インクは一滴たりとも滲み出ない。代わりに、空虚な摩擦音だけが響いた。失望のため息をつき、「温かいコーヒーでも飲みたいものだ」と湊が思った、その刹那。

カタリ、と軽い音。目の前のテーブルに、湯気の立つマグカップが忽然と現れていた。琥珀色の液体が放つ豊かな香りに、湊は息をのむ。そして、万年筆を握っていた右手の指先が、一瞬、陽光に透けるガラスのように薄くなったことに気づいた。この万年筆は、インクの代わりに書き手の「存在の量」を代償に、想いを現実に紡ぎ出すのだ。

第三章 褪せる世界の輪郭

『無貌の飢餓』の進行は、まるで悪性の病だった。街の楽団は不協和音しか奏でられなくなり、高名な画家はキャンバスの前で色を識別できなくなり、広場の吟遊詩人は愛の言葉を紡げなくなった。創造性の灯火が、一つ、また一つと吹き消されていく。街から音が消え、色が褪せ、物語が失われていった。

「消えたくない」

「まだ、作りたいものがあるんだ」

湊の周りに降り注ぐ鉛の滴は、もはや豪雨となっていた。彼はその重みに耐えきれず、覚悟を決めて、一滴、また一滴とそれを飲み干し始めた。灼けつくような絶望が喉を通り、他人の苦しみが脳髄をかき乱す。だが、彼が滴を飲むたび、消えかけていた職人たちの存在が、蝋燭の炎のように僅かに揺らめき、持ち直すのが分かった。

それは、あまりにも高くつく献身だった。

代償として、湊自身の存在が急速に希薄になっていく。鏡に映る自分の姿は日に日に薄れ、まるで水彩画のように背景に溶け込んでいく。古書店の常連客でさえ、彼の目の前を素通りするようになった。自分の名前を呼ばれるまで、自分がそこにいることさえ忘れられている。彼は、世界の色彩を守るために、自らの輪郭を失っていく幽霊だった。

第四章 無貌の囁き

このままでは、自分も世界も共に擦り切れて消えるだけだ。湊は最後の賭けに出ることを決意した。彼は『虚ろな万年筆』を強く握りしめる。インクの代わりに、自らの存在そのものをペン先に込めて、ただ一言、強く念じた。

『無貌の飢餓』の正体を、知りたい。

世界が反転した。古書店の風景は砂のように崩れ落ち、彼は意識だけの存在となって、果てしない虚空に浮かんでいた。目の前には、銀河そのものを歯車として組み上げた巨大な機械、あるいは宇宙の心臓のように脈動する巨大な意志が鎮座していた。世界のコア。それが、直感的に理解できた。

『観測者よ。お前の存在は、世界の均衡を乱すバグだ』

声が、思考に直接響き渡る。世界のコアは、淡々と語り始めた。創造性とは、予測不能なカオスを生み出すエネルギーであり、世界の安定した存続を脅かすノイズに他ならないのだと。故に、世界は恒常性を維持するため、定期的にその源泉となる人間を刈り取り、システムをリセットしてきたのだと。『無貌の飢餓』とは、世界の秩序を守るための、冷徹で完璧な自己防衛機能だった。

第五章 最後の言葉

絶望が、湊の魂を深淵に突き落とした。個人の願いも、創造の喜びも、この巨大な意志にとっては処理すべきエラーデータでしかなかったのだ。人類の歴史が紡いできた芸術も物語も、すべては世界の安定を乱すノイズとして、いずれ消去される運命だった。

だが、その時。彼の内で、これまで飲み込んできた無数の願望の滴が、一斉に輝きを放った。

靴職人の「誰かの歩みを支える完璧な一足を作りたい」という実直な願い。

老彫刻家の「ただの石塊に、永遠の魂を吹き込みたい」という情熱。

楽団員の「この旋律で、聴く者の心を震わせたい」という純粋な祈り。

それらが、ノイズであるはずがなかった。それらは、この色褪せた世界に残された、最後の宝石だった。

湊は顔を上げた。希薄になった身体の奥底から、絞り出すように意志を固める。

「間違っているのは、お前の方だ」

彼の声は虚空に震えた。

「たとえ不安定でも、その予測できない輝きこそが、世界を本当に豊かにするんだ」

彼は再び『虚ろな万年筆』を構えた。今度は、この歪んだ世界の法則そのものを、根底から書き換えるために。

第六章 新しい海の始まり

存在の最後のひとかけらまでを、湊は万年筆のペン先に注ぎ込む。指先が完全に透き通り、世界との繋がりが切れかかっている。彼が紡ごうとしたのは、破壊でも否定でもない。世界と創造性が共存できる、新たな理(ことわり)。

『創造性は、存在を消費するのではなく、新たな存在を生み出す源となる』

その言葉を、万年筆が紙に触れるよりも早く、彼の魂が紡いだ瞬間──。

目の前に、眩い光景が広がった。彼が飲み干してきた無数の願望の滴が、彼自身の存在と溶け合い、一つの巨大な人影を形作っていた。それは未来の、あるいは別の可能性の、創造の化身となった彼自身の姿だった。その手には同じ万年筆が握られ、果てしない白紙の世界に、新しい星々を描き始めている。

ああ、そうか。

湊は穏やかに微笑んだ。これは消滅ではない。より大きな物語へと、自分が溶け込んでいくための儀式だったのだ。

彼の身体は光の粒子となり、ゆっくりと霧散していく。そして、その光はすべて、新たな世界を描き続ける未来の自分自身の姿へと、優しく吸い込まれていった。

世界が、静かに一度だけ瞬きをした。

再編された街角では、若い絵描きが鼻歌まじりにキャンバスへ向かい、カフェの片隅では、見知らぬ二人が一つの詩をきっかけに恋に落ちていた。人々が何かを創り出そうとするとき、その胸に宿る温かい衝動。それが、かつてこの世界にいた、一人の古書店の店主の記憶だとは、もう誰も知らない。

ただ、彼が飲み干した無数の願いの滴は、新しい世界の海となり、人々の創造の渇きを、永遠に潤し続けるのだった。


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