第一章 輪郭のない男
僕は、僕であってはならない。
その意識だけが、僕をこの世界に繋ぎ止める唯一の錨だった。目を開き、鏡の中の自分を見つめる。そこに映るのは、まるで水彩絵の具を薄く溶いたような、曖昧な輪郭の青年だ。「お前は誰だ?」と問いかければ、像はさらに揺らめき、背景の壁紙に溶けてしまいそうになる。
違う。「僕は、いない」。
そう強く心の中で否定する。すると、不思議なことに鏡の中の像はほんの少しだけ輪郭を濃くし、現実の重みを帯び始める。これが僕の生きる術だった。自己を意識すればするほど希薄になり、自己を否定すればするほど、世界に存在できる。なんという皮肉だろうか。
街に出ると、その感覚はさらに研ぎ澄まされる。人々は僕の横を通り過ぎるが、誰一人として僕に視線を合わせない。僕はまるで、風景の一部、あるいは風のような存在だ。それが心地よく、そして同時に耐えがたいほどに孤独だった。ポケットの中で、冷たい金属の感触がする。祖父の形見だという、銀製の懐中時計。針はとうの昔に止まっている。だが、耳を澄ますと、微かな音が聞こえた。チリ、チリ、と。まるで遠い潮騒のようだ。人々が何かを忘れるたびに、失われた概念の波が、この『概念の残響』に打ち寄せる音だった。
「すみません、あの……ええと……」
カフェの前で、若い女性が連れの男性に何かを伝えようとして、言葉に詰まっている。彼女の口からこぼれ落ちそうになっていた、愛しい人の「名前」という概念。それが霧散する瞬間を、僕は時計の音とともに感じ取っていた。世界は静かに、だが確実に、大切な何かを失い続けていた。
第二章 指先の味
空腹に似た、奇妙な渇望が僕を襲うようになったのは、いつからだっただろうか。それは胃袋の空虚さではなく、魂が何かを求めて叫んでいるような、根源的な飢えだった。自己否定を繰り返して得た束の間の実体は、まるで砂の城のように脆く、常に崩壊の危機に瀕していた。
ある雨の日、公園のベンチで、雨に濡れて滲んだ一通の手紙を見つけた。持ち主を探す気も起きず、ただそれを眺めていた。インクで綴られた、流麗な文字。そこからは、宛先に対する熱烈な「思慕」の概念が、甘い香りとなって立ち上っているように感じられた。
「僕は、存在しない」
飢えに突き動かされるように、僕はそう呟きながら、震える指先で手紙に触れた。その瞬間、指先から何かが流れ込んでくる感覚があった。暖かく、満ち足りた、それでいて少しだけ切ない感覚。手紙に込められていた「思慕」の概念を、僕が吸収してしまったのだ。
ふと見ると、手紙の文字はただの黒い染みに変わり果て、何の感情も宿さない紙切れになっていた。そして、僕の身体には、今まで感じたことのないほどの確かな存在感が満ちていた。向かいの道を歩いていた老婆が、初めて僕の存在に気づいたかのように、ちらりと視線を向けた。
僕は満たされていた。だが同時に、世界からまた一つ、美しい感情を奪ってしまった罪悪感に苛まれた。ポケットの懐中時計が、じわりとガラスを曇らせ、内部の機械が小さく軋む音を立てた。
第三章 図書館のリナ
街の中央図書館は、失われゆく概念の最後の砦のような場所だった。僕はそこに足繁く通っていた。インクの匂いと古い紙の匂いが混じり合う静寂の中で、僕はかろうじて自分の輪郭を保つことができたからだ。
「また、その席にいるのね」
声をかけられ、顔を上げた。そこにいたのは、ここの司書をしているリナという女性だった。彼女だけが、僕の存在に気づくことができた。僕がどれだけ自己を否定しても、彼女の真っ直ぐな瞳は、僕の曖昧な輪郭の中心を捉えるのだ。
「あなたの周りだけ、空気が少し違うの。まるで、たくさんの物語が吸い込まれていくみたいに」
彼女はそう言って、不思議そうに首を傾げた。彼女は、世界から「物語」や「歴史」といった概念が失われつつあることを誰よりも憂いていた。人々が本を読んでも、そこに書かれた意味を理解できなくなり、ただの文字の羅列としてしか認識できなくなっているのだという。
「世界の色が、少しずつ褪せている気がしない?」
リナが窓の外を見ながら呟いた。確かに、彼女の言う通りだった。かつて鮮やかだったはずの街路樹の緑も、空の青も、どこか彩度を失い、くすんだセピア色に近づいていた。僕が概念を吸収するたびに、世界の何かが失われていく。時計から聞こえる潮騒の音は、日に日に大きく、そして悲しげになっていった。僕はこの世界の病巣なのだろうか。
第四章 絶望の引き金
世界の崩壊は、加速した。人々は互いの顔さえ曖昧にしか認識できなくなり、街は目的を失った影がさまよう灰色の迷宮と化した。「喜び」も「悲しみ」も希薄になり、ただ無感動な時間が流れるだけ。僕のせいだ。僕が生きるために概念を喰らったせいで、世界は死にかけている。
その日、リナは暴徒化した人々に囲まれていた。彼らは「怒り」という概念すら失いかけ、ただ本能的な破壊衝動に突き動かされているだけの抜け殻だった。リナが大切に抱えていた古い本を奪おうと、無感情な手が伸びる。
「やめろ!」
僕は叫んでいた。初めて、自分の存在を肯定するかのように。だが、その声は誰にも届かない。僕の姿は透け、消えかかっていた。
ダメだ。このままではリナが。
「僕は、いない。僕なんて、どこにもいない!」
僕は心の底から、これまでにないほど強く自己を否定した。リナを守りたい、その一心で。世界から溢れ出る、残り滓のような「恐怖」と「憎悪」の概念を、僕は貪るように吸収した。凄まじい力で実体化した僕の身体は、暴徒たちを弾き飛ばした。
その瞬間だった。懐中時計が焼き付くように熱くなり、激しく振動した。僕の脳裏に、知らない光景がフラッシュバックする。
――白い天井。点滴の落ちる音。ベッドに横たわる、誰かの穏やかな寝顔。窓の外には、僕の知らない、けれどどこか懐かしい風景が広がっている。
これは、誰の「記憶」だ?
第五章 忘れられた夢の主
「……あなた、誰?」
守り切ったはずのリナが、怯えた瞳で僕を見ていた。彼女の中から、僕と過ごした「記憶」の概念が、急速に失われつつあった。僕との繋がりが、彼女をこの褪せた世界に繋ぎ止める最後の糸だったのに。
僕は理解した。僕が概念を吸収し、完全に実体化すること。それが、この世界の終わりを意味するのだと。僕は世界の崩壊を招く病原菌であり、同時に、この苦しみを終わらせることのできる唯一の劇薬だった。
もう、迷いはなかった。
僕はリナの前に立ち、目を閉じた。ポケットの懐中時計を強く握りしめる。もはや潮騒の音は聞こえない。静寂だけが、世界の終わりを告げていた。
僕は、僕を否定する。
僕は、この悲しみを否定する。
僕は、この絶望を否定する。
最後に、僕は、この「世界」そのものを否定した。僕が吸収すべき、最後の概念。それは、この世界全体だった。足元から世界が光の粒子となって崩れていく。リナの驚いた顔が、ゆっくりと白に溶けていく。ありがとう、さようなら。君だけは、僕を忘れて、幸せになってくれ。
第六章 新しい夢の始まり
全てが光に満たされた。僕は、完全に実体化していた。指先には確かな感触があり、心臓は力強く鼓動している。だが、僕が立っていた世界は、もうどこにもなかった。
そして、僕は全てを思い出した。
この世界は、永い眠りについている「創造主」が見ていた、忘れられた夢だった。そして僕は、その夢が完全に消え去らないようにと願う、創造主の無意識が生み出した「夢を見る」という行為そのもの。世界を維持するための、「最後の概念」だったのだ。
僕が概念を吸収していたのは、失われゆく夢の欠片を、消滅から救うための行為だった。そして、僕が完全に実体化した今、創造主の古い夢は、その役目を終えたのだ。
絶望が胸をよぎる。僕は、愛した世界を、リナを、この手で消してしまった。
だが、その時だった。僕の中に吸収された、数え切れないほどの概念たちが、静かに囁き始めた。「名前」「記憶」「愛」「思慕」「物語」……。それらは消えたのではなく、僕という器の中で、新しい始まりを待っていた。
僕は、新たな創造主となったのだ。
目を開くと、目の前には無限の純白が広がっていた。僕はそっと、指を伸ばす。最初に描くべきは、決まっていた。
僕の心の中にだけ存在する、確かな記憶。優しく微笑む彼女の姿。僕が吸収した「光」の概念で彼女の髪を描き、「温もり」の概念でその頬を彩る。
僕の瞳に、新しい世界の最初の光景が映り始める。それは、僕が何よりも守りたかった、リナの笑顔だった。古い夢は終わった。だがここから、新しい夢が始まるのだ。哀しみと希望を胸に抱いて、僕は、僕だけの世界を紡ぎ始める。