空白が紡ぐ始まりの詩
第一章 希薄な輪郭
カイの指先が、また透け始めていた。湯気の立つマグカップに伸ばした手は、まるで淡い水彩画のように向こう側の景色を滲ませ、確かな熱を感じる前に虚空を掴んだ。カップが床に落ちて割れる乾いた音だけが、彼がここに「いる」という事実をかろうじて繋ぎ止めている。
「希薄病」。それが、物心ついた頃からカイを苛む病の名だった。肉体はそこにある。視認もできる。しかし、その存在は常に不安定で、世界の輪郭から溶け出そうとする。自分の心臓の鼓動さえ、時折遠くで鳴る他人のもののように聞こえる。いつか完全に消え去るのではないかという静かな恐怖が、彼の呼吸を浅くしていた。
唯一の救いは、物語だった。誰かが紡ぐ言葉、その声の響きに耳を傾けている間だけ、彼の存在は確かな重みを取り戻す。希薄な輪郭は濃さを増し、冷え切った体に温かな血が巡る感覚が戻ってくるのだ。
だからカイは旅をしていた。忘れ去られた物語を記憶し、それを語り継ぐという「語り部」を探して。そして今、彼は「忘れられた谷」と呼ばれる、霧深い集落の小さな宿屋にいた。暖炉の火が頼りなく揺れる薄暗い部屋で、一人の女性と向かい合っていた。
「あなたが、語り部の…」
カイの声は掠れていた。女性はエリアナと名乗った。彼女の瞳は、まるで古い物語の深淵を覗き込んでいるかのように、静かで澄んでいた。彼女は黙って頷くと、カイの透けかかった手を見つめ、そして静かに語り始めた。
「昔々、空に浮かぶ島には、涙を真珠に変える竜が棲んでおりました…」
エリアナの声は、古びた弦楽器のように優しく、温かかった。その声の振動が空気を伝い、カイの鼓膜を震わせる。言葉の一つひとつが、彼の存在の隙間を埋めていくようだった。指先に確かな感触が戻り、テーブルの木目をなぞることができる。心臓が、今度ははっきりと自分のものとして力強く脈打っている。物語が終わる頃には、彼はただの青年として、そこに座っていた。
「ありがとう」カイは深く息をついた。「僕は、物語がないと…消えてしまうんです」
エリアナは驚いた顔も見せず、ただ悲しげに微笑んだ。「ええ、知っています。あなただけではありません。この世界そのものが、今、消えかけているのですから」
第二章 消えゆく色彩
エリアナと共に旅を始めて数日が経った。彼女が言う通り、世界は静かに色を失いつつあった。かつて旅人たちの間で謳われた「七色の風が吹く丘」は、今ではただの灰色がかった草原が広がるばかり。風は吹いても、そこに色はなかった。
「『風の織り手』の物語が忘れられたからです」エリアナは丘の上に立ち、寂しげに呟いた。「人々が物語を語らなくなった。すると、物語が支えていた世界の理が、こうして崩れていくのです」
彼女は懐から、古びた革表紙の本を取り出した。表紙には何の装飾もなく、中を開いてもただ真っ白な頁が続くだけだ。
『無限の空白頁を持つ書物』。
それが、彼女の一族が代々受け継いできた遺物だった。
「物語が完全に消え去る、その最後の瞬間にだけ…この頁に、その物語の『最後の文』が浮かび上がるのです」
その時、風が唸りを上げた。見ると、エリアナが持つ書物の頁がひとりでに捲れ、その中央にインクが染み出すように文字が浮かび上がった。
『――そして、最後の虹の糸を風に投げた。』
「『風の織り手』の…!」
エリアナは叫ぶと、その文を声に出して読み上げた。カイもまた、その言葉を必死に心の中で反芻する。すると、どうだろう。灰色の丘を渡る風の中に、ほんの一瞬、淡い赤や青の光の筋が混じり合った。それはすぐに消えてしまったが、確かに世界は物語に応えたのだ。
しかし、それはあまりにも儚い抵抗だった。一つの物語を救っても、また別の場所で新たな物語が死んでいく。忘却の病は、まるで世界を蝕む静かな疫病のように、確実に広がっていた。カイ自身の希薄病も、旅の疲れからか、以前より頻繁にその兆候を見せるようになっていた。エリアナが語る物語だけが、彼の命綱だった。
「なぜ、こんなことに…」カイは震える声で問うた。「誰かが意図的に物語を消しているとしか思えない」
エリアナは固く唇を結び、遠くの地平線を見つめた。「確かめなければなりません。全ての物語が生まれ、そして還る場所…『始まりの大書庫』で」
第三章 沈黙の図書館
『始まりの大書庫』は、天を突くほどの巨大な塔だった。しかし、その威容とは裏腹に、周囲には死のような静寂が満ちていた。埃の匂いと、乾ききった紙の匂い。二人が足を踏み入れると、無限に続くかのような書架の迷宮が広がっていた。だが、そこに並ぶ無数の書物の多くは、頁が真っ白に変色し、ただの紙の塊と化していた。
物語の墓場。カイはそう感じた。
「遅すぎたというの…?」エリアナの顔から血の気が引いていく。
彼らは書庫の最深部を目指した。そこには巨大なアトリウムがあり、天井からは星のない夜空のような光が降り注いでいた。中央には、台座に乗せられた一冊の巨大な本がある。それこそが、世界の全ての物語を記録するという原書『アカシャ』のはずだった。
だが、彼らがそこに見たのは、人でも怪物でもない。アトリウム全体が、まるで一つの生命体であるかのように、静かに脈動していたのだ。そして、思考に直接響くような、重く厳かな声が空間に満ちた。
《よくぞ来たれり、最後の語り部と、零号の器よ》
「誰だ!」カイは身構えた。
《我は世界。物語の調停者。この大書庫そのもの》
声は語る。物語は生命を生み、世界を豊かにしたが、それは同時に無限の矛盾と飽和を生んだ。増えすぎた物語は互いに干渉し、世界の法則を歪め、やがては自壊に至る。だから「剪定」が必要なのだと。忘却病は、世界自身が行うリセットのためのシステムだった。
《そして、そこの少年。お前の希薄病は病ではない。進化だ》
声はカイを指し示した。
《お前は、この飽和した世界から全ての物語を吸収し、無に還すために生まれた究極の器。お前という存在が完成し、消滅する時、世界は原初の『空白』へと初期化されるのだ》
カイは愕然とした。自分が、物語を喰らい、世界を終わらせるための存在?エリアナはカイの腕を掴み、その顔は絶望に染まっていた。自分の存在理由が、愛する物語を消し去ることだったという真実に、カイはただ立ち尽くすしかなかった。
第四章 最後の物語
カイは、自分の運命を受け入れていた。いや、受け入れるしかなかった。自分が消えることで、この緩やかな世界の死が終わるのなら。そして、新たな物語が生まれるための場所ができるのなら。それが、物語に生かされてきた自分にできる、唯一の恩返しなのかもしれない。
大書庫の脈動は、リセットの時が近いことを告げていた。カイの体は、内側から淡い光を放ち始めていた。存在が極限まで希薄になり、世界の法則から解き放たれようとしている証拠だった。
「やめて…!そんな運命、あってたまるものですか!」エリアナは涙ながらに叫んだ。彼女は『無限の空白頁を持つ書物』を固く握りしめ、何か物語を語ろうとする。だが、どんな偉大な英雄譚も、どんな悲しい恋物語も、この巨大な運命の前では無力に思えた。
「エリアナ」カイは穏やかに彼女の名を呼んだ。「最後に、一つだけ物語を聞かせてくれないか」
彼の声は、不思議なほど澄んでいた。
「英雄じゃなくていい。神様の話じゃなくていい。君が語ってくれる、僕たちの物語が聞きたい」
エリアナは息を呑んだ。カイとエリアナが出会い、共に旅をした、誰にも知られることのない、ささやかな物語。彼女は震える唇を開き、涙声で語り始めた。
「あるところに、自分の輪郭さえおぼつかない、希薄な少年がいました…」
霧深い谷での出会い。交わした言葉。色を失った丘で見た、束の間の虹。沈黙した大書庫で感じた恐怖と、それでも隣にいた温もり。エリアナが紡ぐ言葉の一つひとつが、光の粒子となってカイに降り注ぐ。彼の体は消えゆくどころか、今までで最も確かに、鮮やかに、その存在を輝かせ始めた。それは、燃え尽きる前の蝋燭が放つ、最も美しい光だった。
第五章 空白の頁に捧ぐ
カイの体から放たれる光は、やがて大書庫全体を飲み込んだ。世界中から忘れ去られ、消えかけていた無数の物語の断片が、蛍のように集まってくる。竜の涙、風の織り手、月夜に歌う人魚…それら全てが、カイという器に吸い込まれ、一つの巨大な光の奔流となっていく。
彼はエリアナに、あの『無限の空白頁を持つ書物』を差し出した。
「最初の言葉は、君が書いて」
それが、カイの最後の言葉だった。
彼の輪郭が光の中に溶け、やがてその光もまた、世界中に拡散していく。眩い閃光と、完全な静寂。エリアナが再び目を開けた時、大書庫は消え、彼女は夜明け前の清浄な空気が満ちる草原に立っていた。世界は、どこか生まれ変わったように新しかった。
手元には、託された書物があった。これまで何一つ記されることのなかったその最初の頁に、まるで夜明けの光が染み込むように、一つの文章が静かに浮かび上がっていた。
『初めに、言葉があった。』
それは、カイの言葉ではない。エリアナが語った物語でもない。これから始まる、全ての物語のための、最初の産声だった。
カイという物語は、世界から完全に消え去った。彼の名を知る者は、もうエリアナしかいない。だが、彼がその身を捧げて遺したこの無限の『空白』こそが、新たな世界の始まりなのだ。
エリアナは頬を伝う涙を拭うと、書物の隣に自分の万年筆を置いた。そして、浮かび上がったその一文の下に、自らの手で新たな言葉を書き連ねていく。
カイの物語を忘れないために。そして、これから生まれる無数の物語を、祝福するために。
彼女が紡ぎ始めた物語は、一人の希薄な少年が、世界で最も美しい空白になった、愛と喪失の物語だった。