澱に眠る心臓
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澱に眠る心臓

第一章 臓腑に響く古唄

朔(さく)の臓腑は、雄弁な墓標だった。彼の体は、過去の時間を溜め込む器として生まれついた。古い石畳の街路を歩けば、名もなき恋人たちの高揚が脈を打ち、古戦場の跡地に立てば、兵士たちの怒りが全身の筋肉を鋼のように硬直させる。それらはシンクロと呼ばれ、朔の内側で延々と鳴り響く、死者たちの古唄だった。そして歌が終わるたび、彼の内臓には疲労という名の微細な傷跡がひとつ、またひとつと刻まれていく。

「また、澱の濃度が上がっている」

インカムから聞こえる同僚、莉緒(りお)の声が、現実へと朔を引き戻した。彼は歴史保存局の調査員として、世界各地で異常発生する「時間の澱」を観測していた。それは粘性のある液体のようにも、揺らめく陽炎のようにも見え、触れた者に過去の幻影を見せる。

朔が立っているのは、かつて大洪水で水底に沈んだという廃都の中心だった。足元の敷石の隙間から、澱が気泡のようにぷくり、ぷくりと湧き出している。濃密な時間の匂いが鼻をついた。錆びた鉄と、湿った土、そして遠い昔に焼かれた香木の香り。

その時だった。

ぐ、と胃が鷲掴みにされたかのように収縮した。氷塊を呑み込んだような冷たさが食道を下っていく。だが、それに続くのは苦痛ではなかった。全身の力が抜け、心臓が凪いだ湖面のように静まりかえる。深い、深い絶望。しかしその底には、奇妙なほどの安堵感が広がっていた。初めて感じる感情の層だった。足がもつれ、朔はその場に膝をつく。

「朔! どうしたの?」

「……いや、大丈夫だ。ただ……今までとは違う」

震える指先が、澱の湧き出す石畳に触れる。その瞬間、彼の目の前に、ひび割れた石片が実体を持って現れた。そこには、既知のいかなる歴史にも存在しない、螺旋を描く奇妙な紋様が刻まれていた。

第二章 無音の砂時計

分析室の白い光が、石片の紋様を冷ややかに照らし出していた。

「どの文明データベースにも一致しない。まるで、歴史からスプーンで掬い取られたみたいに、痕跡が一切ないの」

莉緒はモニターを睨みつけながら言った。彼女の指がキーボードを叩く音が、朔の昂った神経をわずかに逆撫でする。

あの日以来、朔の体はあの「絶望と安堵」の感情に頻繁に共鳴するようになった。眠っている間も、食事をしている間も、予兆なくそれは訪れる。内臓に刻まれた古い傷が、新しい感情の波に呼応するかのように疼いた。まるで、彼の体が何かを思い出そうとしているかのようだ。

その夜、朔は夢を見た。星のない暗闇の中、ひとつの砂時計が静かに浮かんでいる。ガラスの中に満たされた極小の砂鉄が、重力に逆らうように下から上へと、ゆっくりと流れていく。しかし、耳を澄ましても、さらさらという音は一切聞こえない。完全な無音だった。夢の中の誰かが、その砂時計を彼に差し出し、何かを伝えようと唇を動かす。だが、声は聞こえない。

数日後、次の調査地である干上がった塩湖の底で、朔はそれを見つけた。白く結晶化した塩の層に半分埋もれるようにして、夢で見たのと寸分違わぬ『無音の砂時計』が転がっていた。恐る恐る手を伸ばし、それに触れた瞬間、朔の体内で何かが弾けた。そして、彼の指が触れたガラスの向こうで、逆流していた砂の動きが、ぴたりと止まった。

第三章 偽りの歴史

砂時計は、朔の世界を一変させた。莉緒の分析によれば、それは微弱ながらも未知のエネルギーを放ち続けているという。朔がそれに触れている間だけ、彼の脳波は異常なパターンを示し、そして彼は見るのだ。失われたはずの風景を。

空に浮かぶ水晶の回廊。幾何学模様を描いて流れる清らかな水路。街路樹の葉脈までもが淡い光を放つ、美しい都市の幻影。人々は穏やかな表情で語らい、その瞳には深い知性が宿っていた。朔は、彼らの日常に溶け込んでいくような感覚に陥った。子供の笑い声は心臓を温め、恋人たちの囁きは血流を速める。

だが、その美しい風景の空には、常に不吉な黒い亀裂が走っていた。

朔は確信していた。自分が感じ続けていた「絶望と安堵」は、この都市の住民たちが抱いていた感情そのものなのだと。彼らは避けられぬ滅びを前にしながら、何かを静かに受け入れ、そして、ひとつの決断を下そうとしていた。

「ありえない……」莉緒が呟いた。「これほどの文明が存在したなら、何かしらの痕跡が残るはずよ。地層にも、周辺の文化にも。なのに、何もない。完全に、白紙」

歴史は、偽られていた。あるいは、喰い尽くされていた。この美しき文明は、誰の記憶にも残らぬまま、時間の深淵へと葬り去られたのだ。

第四章 未来からの侵略者

朔は自室で、無音の砂時計を両手で強く握りしめていた。もっと深く。もっと奥へ。彼は意識を集中させ、自らの内臓に刻まれた無数の感情の層を潜り、その最も深い場所にある「絶望と安堵」の源泉へと手を伸ばした。

ガラスの冷たさが、皮膚を通して彼の記憶の核心を刺激する。

ビジョンが奔流となって押し寄せた。美しい都市が炎に包まれる。空の亀裂から現れたのは、見たこともない形状の兵器。時間を歪め、空間を切り裂く、恐るべきテクノロジー。未来から来た侵略者だった。彼らはこの文明が持つ、時間を安定させる技術を求めていたのだ。

抵抗、戦争、そして破壊。未来の技術と古代の叡智が衝突し、その余波は時間そのものに癒えぬ傷を刻み始めた。世界の理が、存在の根底から崩壊しようとしていた。

文明の生き残りである長老たちが、中央の神殿に集う。彼らの表情には、朔がずっと感じてきた絶望と、そして安堵が浮かんでいた。彼らは決断したのだ。

自らの文明、歴史、技術、そして人々の存在そのものを、時間の流れから完全に消去することを。未来の侵略者たちが手に入れた技術もろとも、この世界から抹消するために。それは、世界を救うための、究極の自己犠牲だった。

そして彼らは、最後の願いを託した。未来が再び同じ過ちを犯さぬよう、この文明の記憶と警鐘の全てを、特異な体質を持って生まれるであろう、遠い未来の一つの生命体に宿すことを。

朔は息を呑んだ。自分の体内で鳴り響いていた死者たちの歌は、彼らの声だったのだ。

第五章 生きた記録

「僕が……彼らの最後の記録、なんだ」

朔の告白を、莉緒は静かに聞いていた。彼女の瞳には、驚きと悲しみが入り混じった光が揺れていた。

「僕のこの体は、彼らの墓標であり、希望なんだ」

朔はすべてを理解した。彼は、失われた大文明が遺した、たったひとつの「生きた記録」だった。彼の内臓に刻まれた無数の傷跡は、消え去った幾億の魂そのものだった。世界各地で頻発する「時間の澱」の異常発生は、歴史の自己防衛本能だったのだ。未来で繰り返されようとしている破滅の兆候に対し、消されたはずの過去が、最後の力を振り絞って警告を発していた。

机の上に置かれた『無音の砂時計』。その上部の空間は、ほとんど空になっていた。逆流する砂が、もうすぐ終わりを告げようとしている。莉緒の分析によれば、砂が尽きる時、砂時計が発していた微弱なエネルギーは完全に消失する。それは、文明の最後の痕跡が、この世界から完全に消え去ることを意味していた。

だが、それは同時に、最後のチャンスでもあった。文明の記憶そのものである朔が、その瞬間に時間へと還ることで、未来の過ちを修正できるかもしれない。消された歴史のエネルギーを使い、時間の流れを正しい方向へと導く、一度きりの賭け。

「行かなきゃならない」

朔は立ち上がった。莉緒は彼の腕を掴もうとして、しかし、その手をそっと下ろした。彼女は涙を堪え、ただ強く頷いた。

第六章 澱に眠る心臓

そこは、世界の臍と呼ばれる大地の裂け目だった。古代文明が最後の儀式を行った場所。空気が歪み、巨大な「時間の澱」が紫色の渦を巻いている。世界のあらゆる過去と未来が、この深淵に流れ込んでいるようだった。

朔は渦の中心に立ち、無音の砂時計を強く胸に抱いた。ガラスの向こうで、最後の一粒、また一粒と、砂鉄が静かに上へと昇っていく。

「ありがとう、莉緒」朔は誰にともなく呟いた。「僕が生きた証は、君の記憶の中にだけ、残してほしい」

彼は目を閉じ、深淵へと一歩踏み出した。

彼の体が澱の渦に触れた瞬間、まばゆい光が迸った。朔の肉体が、まるで砂糖菓子のように、無数の光の粒子となって溶け始める。彼の内臓に刻まれてきた幾星霜の傷跡が、消え去った人々の喜び、悲しみ、怒りの魂として解放されていく。そして、彼の存在の核であった「深い絶望と奇妙な安堵感」が、時間の渦全体へと静かに、だが確かな力を持って広がっていった。

砂時計の、最後の砂が落ち切った。

世界を覆っていた不吉な時間の歪みが、まるで嘘のように霧散していく。失われた文明の痕跡も、朔という青年が生きたという事実も、この世界から完全に消え去った。ただ一人、莉緒の胸に刻まれた記憶を覗いて。

一年後。莉緒は、朔とよく待ち合わせをした街角のカフェに一人で座っていた。彼女の目の前のテーブルには、いつの間にか、一基の小さな砂時計が置かれていた。中は空っぽで、砂は一粒も入っていない。それはもう逆流することも、時を刻むこともない。ただ静かに、そこに在るだけだった。

莉緒はその冷たいガラスにそっと指で触れた。そして、誰にも聞こえない声で、そっと囁いた。

「あなたの心臓の音、忘れない」

その瞬間、ほんの一瞬だけ、空の砂時計が淡い光を放ったように見えた。

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