午後三時のハムスターと不本意なアリア
第一章 午後三時の交差点
アスファルトの匂いが、じりじりと熱を帯びて立ち上る。午後二時五十分。僕、水島アキラは、額の汗を拭いながら交差点の信号が変わるのを待っていた。周囲のざわめきが、まるで遠い世界のBGMのように聞こえる。誰もが腕時計を気にし、空の一点をぼんやりと見上げている。この街の人間にとって、午後三時は特別な意味を持つ。それは祈りの時間であり、同時に、一種の諦観に満ちた儀式の始まりを告げる合図でもあった。
僕の胸の内では、さっき部長に突き返された企画書の残骸が、黒い煙を上げて燻っていた。「君のアイデアには心がない」。その言葉が、耳の奥で不協和音を奏でる。駄目だ、考えるな。ネガティブな感情は毒だ。僕にとって、それは単なる比喩ではない。胃のあたりが奇妙に疼き、指先が勝手にリズムを刻み始める。深呼吸。大丈夫、まだ抑えられる。
カチリ、と青信号が灯る。人々はゆっくりと横断歩道を渡り始めるが、その足取りはどこか慎重だ。まるで舞台に上がる前の役者のように、自らの立ち位置を確認している。あと数分で、『彼』がやってくる。この世界の誰もが、その存在を疑うことのない、巨大で、透明で、そして圧倒的にふわふわな『彼』が。僕はこの日常の奇妙さが、時々、無性に悲しくなる。そして、その悲しみが、最も恐れるべき引き金になることを知っていた。
第二章 予期せぬアンサンブル
「だから、君は主体性というものが……」
部長の甲高い声が、僕の鼓膜を最後の砦であるかのように打ち破った。午後二時五十八分。僕の忍耐は、乾いた大地のようにひび割れ、そこからメロディが漏れ出した。
あ、まずい。
そう思った瞬間、僕の体は操り人形のように硬直し、次の瞬間にはしなやかな動きでターンを決めていた。オフィス街の真ん中で、僕の口が勝手に高らかなアリアを歌い始める。
「ああ、なんて理不尽な世界!企画書は紙くずとなり、僕の心はシュレッダーの中!」
周囲の視線が突き刺さる。驚き、困惑、そして若干の憐れみ。しかし、彼らの表情はすぐに別のものに変わった。敬虔な、それでいてどこか切迫した表情に。そう、時間だ。午後三時ジャスト。
街のあらゆる音が、ぴたりと止んだ。車のエンジン音、人々の話し声、遠くのサイレンさえも。その静寂を切り裂くように、空間が微かに揺らめき、巨大な影が交差点の向こうからゆっくりと姿を現す。全長三十メートルはあろうかという、半透明のゴールデンハムスター。人々が『ハム様』と呼ぶ存在だ。
人々は慌てて道を開ける。車はハザードを焚き、歩行者は壁際に身を寄せる。それがこの世界の絶対的なルール。しかし、僕の体だけが、その法則に逆らっていた。
「悲しみのステップは止まらない!部長の無理解が僕を躍らせる!」
僕はハム様の進路上で、華麗なタップダンスを披露していた。本人の意思とは裏腹に。人々は「おい、どけ!」「ハム様のお通りだぞ!」と叫ぶが、僕の足は止まらない。巨大なハムスターは、僕の奇妙なパフォーマンスの前で戸惑ったように、その大きな黒い瞳を瞬かせた。
第三章 舞い落ちるは誰が為の靴下
僕のミュージカルは、クライマックスへと向かっていた。感情のボルテージが最高潮に達したその時、空がにわかに曇り、ひらり、と何かが舞い落ちてきた。水玉模様の、小さな布切れ。それは僕の鼻先をかすめ、地面に落ちた。続いて、縞模様の長い布。チェック柄の四角い布。それは、どこかの誰かの家のベランダから飛んできたであろう、洗濯物の群れだった。
「おお、空よ!僕の嘆きに応えてくれるのか!この涙を拭うハンカチの雨を!」
僕の歌声に合わせて、一足の靴下がふわりと僕の頭に着地した。続いて、くたびれたトランクスが肩にかかる。その唐突な異物の感触に、僕の歌と踊りのテンポがわずかに狂った。ステップはもつれ、歌声は裏返り、パフォーマンスは前衛芸術の様相を呈し始めた。
人々は呆然と、その光景を見つめている。道を譲るべきハムスター、その進路を塞ぐように踊り狂う男、そして空から降り注ぐパンツと靴下。日常に差し込まれた、シュールで滑稽な一コマ。立ち往生していたハム様は、巨大な鼻先をくんくんと動かし、僕の周りをゆっくりと一周すると、やがて満足したかのように、すうっとその姿を薄れさせ、消えていった。
嵐が過ぎ去ったように、洗濯物の飛来が止み、僕の体から力が抜ける。ぜえぜえと肩で息をしながら、僕はアスファルトに散らばる他人の下着に囲まれ、立ち尽くしていた。
第四章 ハムスターの軌跡
あの日の騒動以来、僕は街の厄介者になった。「ハム様の道を塞いだ不届き者」。そんなレッテルを貼られ、僕は会社を辞めた。だが、自由になった時間のおかげで、僕は一つの疑問に没頭することができた。なぜ、僕のミュージカルは、ハム様の出現と完璧にシンクロするのか。
僕は市立図書館の薄暗い書庫に籠もり、古い新聞のマイクロフィルムを回し続けた。そして、ある事実に突き当たった。ハム様の目撃情報が初めて記録されたのは、今から五年と少し前。それは、僕がこの奇妙な体質になった時期と、不気味なほど一致していた。
さらに調査を進めると、ハム様には決まった散歩ルートがあることが分かった。毎日同じ時間に現れ、同じ道を通り、そして必ず、街外れの古いアパートの前で数秒間だけ動きを止めるのだという。まるで誰かに挨拶でもするかのように。僕の胸に、確信に近い予感が芽生えた。全ての答えは、そこにある。僕は震える手でアパートの住所をメモし、図書館を飛び出した。
第五章 夢見る少年のクレヨン
そのアパートの一室のドアを開けると、クレヨンの甘い匂いがふわりと鼻をかすめた。部屋の壁には、子供が描いたであろうハムスターの絵が、所狭しと貼られている。迎えてくれた若い母親は、僕を訝しげに見ながらも、事情を話すと静かに頷いた。
「あの子……ハルキが、大きなハムちゃんの夢を見るようになったのが、ちょうど五年くらい前なんです」
部屋の奥で、小さな男の子が画用紙に向かっていた。ハルキ君、と呼ばれたその子は、僕を一瞥すると、またすぐに手元のクレヨンに視線を落とした。
母親は語った。ハルキ君は毎晩のように、巨大なハムスターが街を散歩する夢を見るのだと。夢の中で、彼はハムスターの背中に乗り、空を飛ぶこともあるらしい。そして、その夢の話を周囲にした日から、本当に街に『ハム様』が現れるようになったのだ、と。
僕のミュージカルのことも、彼女は知っていた。「あの子が夢の中で、時々『変な歌が聞こえる』って言うんです。ハムちゃんのお散歩を邪魔する、悲しい歌だって」。その言葉に、僕の中で全てが繋がった。僕のネガティブな感情が発するノイズが、彼の純粋な夢の世界に混線し、現実世界に不本意なミュージカルとして投影されていたのだ。
「でも」、と母親は少し寂しそうに微笑んだ。「最近、ハルキ、ハムちゃんの絵をあまり描かなくなったんです。興味が、恐竜とかロボットに移っちゃって……」
僕は、壁に貼られた少し色褪せたハムスターの絵を見つめた。その大きな黒い瞳が、僕に何かを語りかけているような気がした。
第六章 静寂の午後三時
その日は、突然やってきた。
午後二時五十九分。街はいつものように息を殺し、来るべき瞬間に備えていた。人々は道端に寄り、車は路肩に停止する。しかし、僕の心は不思議なほど穏やかだった。あの理不尽だった部長の顔を思い出しても、胸の奥でメロディが生まれる気配はなかった。
時計の針が、午後三時を指す。
一分が過ぎた。
三分が過ぎた。
何も起こらない。空間は揺らめかず、巨大な影は現れない。ただ、車の排気ガスと、遠くで鳴り響く広告の音声だけが、いつも通りの日常を告げていた。人々は顔を見合わせ、首を傾げ、空を見上げる。そこには、ありふれた青空が広がっているだけだった。
交通渋滞もなく、スムーズに流れていく車列。当たり前のように横断歩道を渡る人々。それは、この世界の誰もが忘れていた、『普通』の光景だった。だが、その完璧なまでの正常さに、誰もが言いようのない喪失感を覚えていた。まるで、人生という劇から、最も重要な登場人物が、何も告げずに降板してしまったかのように。がらんとした交差点に、ぽっかりと大きな穴が空いていた。
第七章 空っぽのステージにアンコールを
ハム様が消えて、一ヶ月が経った。街はすっかり『退屈な日常』を取り戻した。僕の体が勝手に歌い出すことも、もう二度となかった。
最初は、その平穏を誰もが歓迎した。時間通りに物事が進む効率的な世界。だが、すぐに人々は気づき始めた。午後三時になると、無意識に空を見上げてしまう自分に。何もない交差点に、何か途方もなく大きな存在がいたような、幻の気配を感じてしまう自分に。
やがて、囁き声が聞こえるようになった。
「次は、巨大なペンギンがいいな。タキシードを着て、優雅に歩くんだ」
カフェのテラスで、老婦人がそう言って笑った。
「いや、空飛ぶクジラさ。潮の香りを運んでくるんだぜ」
公園のベンチで、学生が友人に熱っぽく語っていた。
失われた共通幻想の代わりに、人々は新たな幻想を求め始めていた。それは滑稽で、どこか愛おしい光景だった。彼らは気づいていない。自分たちの集合的な想像力が、いつか本当に世界を書き換えてしまう可能性を。
僕はもう歌わない。踊ることもない。だが、がらんとした交差点を見つめながら、静かに思う。もし、いつかこの街の人々の願いが天に届き、新たな奇跡がこの場所に生まれるとしたら。その時、僕の足は、喜びや希望に満ちた、全く新しいメロディを奏で始めるのかもしれない。不本意ではない、僕自身の意思で。
その日まで、僕はこの空っぽのステージで、世界のアンコールを待ち続けよう。