フライデー・ナイト・ダック・フィーバー
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フライデー・ナイト・ダック・フィーバー

第一章 金曜日の変身

僕、桜井湊(さくらい みなと)には秘密がある。極度に緊張すると、僕をとりまく重力が気まぐれを起こすのだ。プレゼンの前には体が鉛のように重くなり、床に足跡がめり込む。満員電車では逆に体がふわりと浮き、吊り革を握る手に全体重がかかる。厄介な体質だった。

だから、僕は金曜日が嫌いだ。

この世界では、毎週金曜日は「動物変身デー」と定められている。遺伝子調整法の産物で、人々は週に一度、ランダムな動物の姿で過ごすことが義務付けられている。ストレス緩和と多様性理解のため、というのが政府の公式見解だが、僕にとっては新たなストレスの種でしかない。どんな姿になるか分からないという不確実性が、僕の交感神経を容赦なく刺激するのだ。

その日の朝も、僕はベッドの上で毛布を固く握りしめていた。頼む、せめてハムスターか、物陰に隠れやすいネズミであってくれ。そんな切実な祈りが通じるはずもなく、鏡に映っていたのは、真っ白な羽毛に覆われ、オレンジ色の平たいくちばしを持つ、一羽のアヒルだった。

「最悪だ……」

くぐもった声が、くちばしから「グワッ」という情けない音に変換されて漏れ出る。最近、街ではアヒルに変身する人間が急増していた。公園で、駅前で、彼らは集団となり、奇妙な動きを繰り返しているという。僕はあの集団の一員にだけはなりたくなかった。

緊張がじわじわと足元から這い上がってくる。フローリングの床を踏む水かきの感触が妙に生々しい。ふと、体がコンマ数ミリほど浮き上がる錯覚に陥った。僕は慌てて深呼吸を繰り返し、重力変動のスイッチが本格的に入る前に、どうにか平静を取り繕うとするのだった。

第二章 黄色い不協和音

アヒルの姿で満員電車に乗るのは苦行だった。短い足では吊り革に届かず、ぎゅうぎゅう詰めの車内で、僕は他の乗客――今日はやけにウサギやカピバラが多い――の足元をよちよちと進むしかなかった。車窓に流れる景色よりも、車内に充満する獣たちの匂いと湿った空気が、僕の嗅覚を鈍く刺激する。

オフィスに着くと、その異様さはさらに際立った。フロアの三分の一は、僕と同じアヒルだった。彼らはパソコンのキーボードを器用に水かきで叩き、電話の受話器を翼で挟んでいる。しかし、僕が感じたのはその光景の滑稽さではなく、薄気味の悪さだった。

ふと、隣のデスクのアヒル(経理部の佐藤さんだ)が、カクン、と首を真横に九十度傾けた。すると、まるで合図でもあったかのように、向かいの島のアヒルたちが一斉に同じ角度で首を傾ける。それはほんの一瞬の出来事で、彼らはすぐに何事もなかったかのように仕事に戻った。だが、僕の背筋を冷たいものが走り抜けた。あれは偶然ではない。静かなオフィスに響く「クワック」という鳴き声が、まるで秘密の暗号のように聞こえ始めた。

昼休み、僕はたまらずオフィスを飛び出し、近くの公園へと逃げ込んだ。噴水の周りには、案の定、二十羽以上のアヒルが集まっていた。彼らは横一列に並び、まるで訓練された兵士のように、一糸乱れぬ動きで首を振り、翼を広げ、ステップを踏んでいた。シンクロナイズドスイミングと盆踊りを足して二で割ったような、奇妙で、しかしどこか荘厳さすら感じさせるダンスだった。

その光景に釘付けになっていると、僕の視界の隅に、ベンチにぽつんと置かれた黄色いアヒルのおもちゃが映った。ありふれたプラスチックのおもちゃだ。だが、そこから微かに、本当に微かに、電子的な「クワック…クワック…」という音が発せられていることに、僕は気づいてしまった。

第三章 無限クワック発信機

何かに引き寄せられるように、僕はそのおもちゃに近づいた。他のアヒルたちはダンスに夢中で、僕の存在には気づいていない。指先、いや、翼の先でそっと触れると、ひんやりとしたプラスチックの感触と、内部で何かが細かく振動しているのが伝わってきた。

「無限クワック発信機」。おもちゃの底に、小さな文字でそう刻印されている。

僕がそれを手に取った、まさにその瞬間だった。

「グワッ!」

鋭い鳴き声と共に、ダンスの輪から一羽のアヒルが飛び出してきた。そのつぶらな瞳には、明らかに僕への敵意と焦りが浮かんでいる。彼は僕に向かって猛然と突進し、そのおもちゃを渡せ、とでも言うように翼を広げて威嚇した。

まずい。

心臓が大きく跳ねた。周囲のアヒルたちもダンスをやめ、一斉にこちらを向く。何十もの黒い瞳が、僕という一点に集中する。包囲網は狭まり、逃げ場はない。緊張が臨界点に達しようとしていた。体が重くなるのか? それとも軽くなるのか? どちらにせよ、最悪の事態が待っている。

「やめろ、こっちに来るな……!」

僕の悲鳴は、やはり「グワァァァッ!」という間の抜けた絶叫にしか聞こえなかった。

第四章 無重力のワルツ

次の瞬間、僕の足は地面から離れた。

それは落下とも浮上とも違う、奇妙な感覚だった。まるで粘度の高い水の中にゆっくりと沈んでいくように、僕の体は宙へと浮かび上がった。無重力だ。僕だけではない。僕を追い詰めていたアヒルたちも、驚きの声を上げながらふわりと宙に舞う。公園のベンチが、落ち葉が、噴水から飛び散った水滴までもが、スローモーションのように空中で静止し、やがてゆっくりと上昇を始めた。

「グワッ!? グワグワッ!」

アヒルたちの統率された動きは完全に崩壊し、彼らは手足ならぬ翼と水かきをばたつかせ、混乱の極みにあった。彼らのダンスが持っていたはずの荘厳さは消え失せ、そこにはただ、空中に浮かんでパニックに陥る滑稽な鳥たちの姿があるだけだった。

その混乱のさなか、僕が握りしめていた「無限クワック発信機」が、けたたましいノイズを発し始めた。「クワック」という可愛い鳴き声はどこにもなく、耳をつんざくような「ギギギ、ガガガッ!」という断末魔のような悲鳴が鳴り響く。

それはまるで、この異常な無重力空間そのものに、おもちゃが拒絶反応を示しているかのようだった。僕の体質が、この世界の物理法則を歪め、そして彼らの何かを根本から破壊している。その直感が、僕の脳裏を稲妻のように駆け抜けた。

第五章 アヒルたちの告白

数分後、まるで映画のフィルムが逆再生されるかのように、重力は唐突にその支配権を取り戻した。僕も、アヒルたちも、ベンチや落ち葉も、一斉に地面へと落下する。僕は芝生の上に尻餅をつき、しばらく呆然と空を見上げていた。

静寂を破ったのは、一羽のアヒルの歩み寄る音だった。先ほど僕を威嚇したリーダー格のアヒルだ。彼は僕の目の前で立ち止まると、その首からぶら下げていた小さな銀色の円盤をくちばしでつついた。

『…通信…安定。…聞こえるかね、地球人』

機械的な合成音声が、円盤から直接僕の頭の中に響いてきた。

僕は言葉を失った。アヒルが喋った。いや、アヒルではない。

『我々は、惑星ダックストロムから飛来した、知的生命体である』

彼の告白は、衝撃的かつ突飛なものだった。彼らは地球の文化、特に「経済」という概念を研究するためにやってきた調査団なのだという。そして、彼らが最も興味を惹かれたのが、地球における「アヒル経済」だった。アヒルをモチーフにしたキャラクターグッズ、アヒルボート、アヒルの形をしたお菓子。彼らにとって、自分たちに似た存在がこれほど経済活動に貢献している事実は、驚異的な研究対象だったのだ。

『アヒル変身者の増加は、我々の実験だ。地球人のDNAに潜む休眠状態の変身因子に、微弱な信号――我々が「アヒル変身コード」と呼ぶものを埋め込んだ。そして、この「無限クワック発信機」でそれを活性化させ、アヒルに変身する確率を人為的に上昇させていた』

では、あのダンスは?

『あれは我々の星の伝統的な社交ダンスだ。仲間との親睦を深め、情報を交換するための重要な儀式なのだ。まさか地球人から、あれほど奇妙な目で見られているとは……』

リーダーは少しばつが悪そうに、翼で頭をかいた。僕の重力変動は、彼らがこの一帯に展開していた「局所的環境安定化装置」をオーバーロードさせ、発信機と母船との通信を一時的に遮断してしまったのだという。彼らは僕の体質を非難するでもなく、ただ「予測外の変数だった」と淡々と分析した。

第六章 明日の空、アヒルの歌

「計画は中止だ。君という特異点が存在する以上、我々の穏やかな経済観測は不可能と判断した」

リーダーはそう言うと、僕が持っていた「無限クワック発信機」を指した。

「それは君に贈呈しよう。重力異常の影響で主要機能は故障した。もう地球人を変身させる力はない。だが…」

彼は少し間を置いて続けた。

「我々の故郷の星の、ささやかな音楽くらいなら、まだ奏でられるはずだ」

その日の夕方、アヒル型宇宙人たちは、公園の噴水の底に偽装していた小型宇宙船で、静かに地球を去っていった。彼らが去った後の空は、何事もなかったかのように美しい茜色に染まっていた。

次の金曜日がやってきた。僕は小柄なリスに変身していた。街を見渡すと、あれほど溢れていたアヒルの姿は嘘のように消え、代わりに多種多様な動物たちがそれぞれの日常を送っていた。世界は、僕が知っている元の金曜日の姿を取り戻していた。

僕は公園のベンチに座り、ポケットから黄色いアヒルのおもちゃを取り出した。リーダーの言葉を思い出し、そっとボタンを押してみる。

すると、スピーカーから聞こえてきたのは、もはや「クワック」という鳴き声ではなかった。それは、いくつもの電子音が重なり合って生まれる、どこか物悲しく、それでいて透き通るように美しいメロディーだった。星々が瞬く夜空を旅するような、壮大で、孤独な旋律。

僕は空を見上げた。僕のこの厄介な体質は、彼らにとっては「宇宙の揺らぎと共鳴する才能」なのだという。それは慰めだったのかもしれない。だが、胸の中に温かいものが広がっていくのを感じた。

緊張すれば、また僕は重力から解き放たれるだろう。でも、それはもう、ただのコンプレックスではない。孤独な特異体質ではなく、遠い星の歌を知る、ささやかな繋がりなのだ。

僕はリスの小さな手でアヒルのおもちゃを握りしめた。いつかまた緊張で体が浮き上がったら、その時は、あの星の歌を口ずさみながら、少しだけ空の散歩を楽しんでみよう。そんなことを、初めて思うことができた。

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