質量なき世界の剪定者
第一章 軽すぎる街
俺、朔(さく)の世界は、常に揺れている。視界に映るすべてのものには『真実の質量』があり、俺はそれを肌で感じ取ってしまう。愛想笑いを浮かべる店員の言葉は風船のように軽く、虚飾で塗り固められたショーウィンドウの宝飾品は、まるで発泡スチロールのようだ。アスファルトを踏みしめても、その下にある無数の人々の無関心を感じ取り、足元がスポンジのように沈み込む錯覚に陥る。人々が嘘をつくたび、世界は浮力と重力を失い、俺は絶えず船酔いにも似た眩暈の中で生きていた。
その日も、街は異常なまでに軽かった。行き交う人々が吐き出す言葉は、どれも中身のないシャボン玉のように宙を舞い、弾けては消える。うんざりして裏路地へ逃げ込むと、空気が奇妙に凪いでいることに気づいた。音が吸い込まれるような静寂。そして、質量が完全に消失した一点があった。
そこは、古いアパートの一室だった。扉は開け放たれ、警察官が数人、困惑した表情で立ち尽くしている。彼らの存在すら、その一点の前では紙のように薄っぺらく感じられた。俺は人垣をすり抜け、部屋の中を覗き込む。
何もない。
家具も、壁紙も、生活の痕跡も、そこに住んでいたはずの人間も、すべてが綺麗に消え失せていた。ただ、床の中央に、ほんのわずかな空気の揺らめき――『虚無の澱』が残っているだけ。俺の目には、そこだけが宇宙に開いた穴のように、絶対的な『無』として映っていた。質量ゼロ。いや、マイナスに近いほどの、途方もない空虚。
「またか……」
背後で刑事が呟く声は、ひどく軽く、現実味なく響いた。これが、世界を蝕む連続消失事件。人々はそれを神隠しと呼び、あるいは集団失踪だと噂した。だが、俺だけが知っている。これは、存在そのものが『削り取られる』現象なのだと。
第二章 昇る砂
消失事件の現場に残された『虚無の澱』は、孤独死した者が残す澱と酷似していた。誰にも看取られず、最も大切だった想いすら澱んで生まれた、存在を希薄化させる呪い。だが、これほど大規模な消失を引き起こすには、計り知れないほどの澱が必要なはずだ。これが単なる偶然の連鎖とは、どうしても思えなかった。
事件の調査に行き詰まった俺は、無意識に街の古物商が軒を連ねる地区へ足を運んでいた。ガラクタの山。その一つ一つが、持ち主の想いを吸い込み、固有の重さを持っている。その中で、ふと、異質な感覚に足を止めた。
店の片隅に置かれた、小さな砂時計。フレームは鈍い光を放つ黒曜石でできており、ガラスの中には砂の代わりに、星屑を砕いたような微細な光の粒子が封じ込められていた。手に取った瞬間、奇妙な感覚が全身を貫く。極限まで軽く、まるで質量が存在しないかのようなのに、その奥には銀河を丸ごと飲み込んだような、底知れない重さが渦巻いていた。矛盾した感覚に、眩暈がした。
驚くべきことに、中の光の粒子は下へ落ちるのではなく、重力に逆らうように、ゆっくりと上へ、上へと昇っていく。まるで失われた何かを悼むように。
「面白いだろう、それ」店の老人が皺くちゃの顔で笑う。「『喪失の時計』だ。何を入れたって、その重さを忘れて上へ昇っちまう」
俺は代金を払い、その黒曜石の砂時計を手に入れた。それが何なのかは分からない。だが、これだけは確信できた。この奇妙な時計は、消失した人々の『真実の質量』の残滓を、その内に宿している。
第三章 想い石の墓場
砂時計を懐に、俺はかつて『想い石の墓場』と呼ばれた廃墟区画を訪れた。ここは、身寄りのない老人たちが次々と孤独な死を遂げた場所だ。残された想い石は澱み、今では濃密な『虚無の澱』が霧のように立ち込めている。一歩足を踏み入れると、世界の輪郭が曖昧になるような感覚に襲われた。自分の身体さえ、その存在が不確かになっていく。
澱の中で、懐の砂時計が微かに熱を帯びた。ガラスの中を昇る光の粒子が、普段より少しだけ速度を増している。まるで、周囲の澱に共鳴しているかのようだ。
俺は区画の中心へと進んだ。そこには、澱んで黒ずんだ無数の想い石が、墓石のように転がっていた。それは人の想いの残骸であり、忘却の象徴だった。かつては誰かの人生で最も輝いていたはずの記憶が、今は世界の存在を希薄化させる毒となっている。この光景を前に、俺は連続消失事件の正体がおぼろげに見えた気がした。
これは、孤独の連鎖が生んだ悲劇だ。澱が澱を呼び、希薄になった場所に新たな澱が生まれ、やがて臨界点を超えた時、存在そのものを虚無へと引きずり込む。
だが、本当にそれだけなのだろうか? このあまりに効率的で、正確すぎる消失の連鎖は、まるで巨大な意志のもとで管理されているような、不気味な秩序を感じさせた。
第四章 澱に沈む陽菜
俺には、陽菜(ひな)という友人がいた。俺の能力のことは知らないが、いつも世界との間に壁を作る俺に、屈託のない笑顔を向けてくれる唯一の存在だった。彼女の言葉、彼女の笑顔、その一つ一つが、この軽い世界で俺を繋ぎとめる、唯一の『確かな重み』を持っていた。
その日、陽菜から連絡があった。「朔、助けて。部屋から出られないの。なんだか、身体が……透けていくみたい」
電話の向こうから聞こえる声は、羽のように軽かった。嫌な予感が全身を駆け巡る。俺は全力で彼女のアパートへ走った。ドアノブに手をかけると、まるで存在しないかのように、何の抵抗もなく手がすり抜ける。部屋はすでに『虚無の澱』に侵食され始めていた。
「陽菜!」
部屋の中心で、陽菜が膝を抱えて座っていた。彼女の輪郭は揺らぎ、半透明になった指先がゆっくりと霧散していく。澱が彼女の存在を内側から喰らっていた。
「さく……くん……」
彼女が俺に向けた微笑みは、ひどく軽くて、儚かった。俺は手を伸ばすが、その指は陽菜の身体を掴むことなく、虚しく空を切る。彼女は、俺の目の前で、まるで陽炎のように揺らめき、そして、完全に消えた。
絶望が俺の心を叩き潰す。その瞬間、懐で燃えるように熱くなった砂時計が、漆黒のフレームから眩い光を放った。ガラスの中の粒子が激しく舞い上がり、部屋中に星空のような光景を映し出す。それは、消失した人々の断片的な記憶。そして、巨大な歯車が噛み合うような、この世界の設計図にも似た、冷徹な幾何学模様だった。
第五章 世界の囁き
砂時計が示したビジョンは、この都市の地下深くに存在する巨大な空洞を指し示していた。陽菜を失った俺に、もはや迷いはなかった。光の導きだけを頼りに、俺は地下へと続く古びた遺跡の入り口を見つけ出し、その暗闇へと身を投じた。
最深部にたどり着くと、そこは巨大な鍾乳洞のような空間だった。天井からは、成長しきった巨大な『想い石』が無数に垂れ下がり、地底湖の静かな水面に淡い光を投げかけている。世界中の人々が遺した、清らかな想いの結晶体。そのあまりの質量に、空間そのものが軋みを上げていた。
『よく来た、選別者よ』
声が響いた。男でも女でもない、老いてもいなければ若くもない、思考に直接語りかけてくるような声。声の主を探して周囲を見回すが、誰もいない。
『我は、この世界そのもの。その秩序を維持する意識体だ』
世界の『意識』は語った。この世界は、人々が遺す想い石の重みによって、飽和し、崩壊する寸前なのだと。想い石は人々の美しい記憶だが、増えすぎれば存在の重圧となって世界を押し潰す。
『虚無の澱は、そのための調整弁。世界の質量を相殺し、バランスを保つためのシステム。そして消失は、澱を効率的に拡散させるための『剪定』にすぎない』
連続消失事件は、孤独死を利用した、意図的な計画だった。そして、俺の能力もまた、この『剪定』システムの一部だったのだ。真実の質量を感じ取る力は、世界にとって価値のある『重い』存在と、剪定すべき『軽い』存在を選別するために、与えられたものだった。
『前の剪定者の任期は終わった。お前が、次の役割を継ぐのだ』
第六章 選択の質量
世界の意識は、俺に選択を迫る。次の『剪定者』となり、陽菜のような犠牲を出し続けながらも、世界の寿命を延ばすのか。それとも、システムに抗い、想い石の重みに世界が押し潰される、緩やかな崩壊を受け入れるのか。
俺は黒曜石の砂時計を握りしめた。その内側では、陽菜の残滓であろう一際優しい光が、ゆっくりと昇っていく。
剪定者になれば、俺はこの世界の神になれるのかもしれない。誰を生かし、誰を消すかを選ぶ、孤独な管理者だ。しかし、それは陽菜が大切にしてくれた、人の想いの重みを、自らの手で切り捨てることに他ならない。
かといって、何もしなければ、この美しい想い石の輝きも、いつかはすべてが崩壊の渦に飲み込まれる。
どちらが正しい選択なのか。どちらが、より『重い』決断なのか。俺には分からない。
俺はゆっくりと立ち上がり、地底湖の水面に映る自分の顔を見つめた。その瞳は、これまで感じたことのない、途方もない決意の『重さ』を宿していた。
俺は砂時計を高く掲げる。光の粒子が、俺の選択に応えるように、一斉に輝きを増した。それは昇ることをやめ、静かに、ガラスの中で一つの塊となっていく。新しい法則を生み出すように。
世界を救うのでもない。世界を滅ぼすのでもない。ただ、陽菜が信じた人の想いの重さを、俺はもう二度と見捨てないと決めただけだ。その決意が、この飽和した世界にどんな未来をもたらすのか。それは、まだ誰にも分からない。