家電たちは感情で叫ぶ

家電たちは感情で叫ぶ

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第一章 静寂を喰らうトースター

灰田誠(はいだまこと)、三十二歳、独身。彼の人生のモットーは「平穏是第一」である。感情の起伏は血圧の乱高下を招き、予期せぬ出来事はスケジュールの遅延を意味する。故に、灰田は自らの感情を精巧な金庫にしまい込み、分刻みのスケジュールで制御された日常を送っていた。彼の部屋はミニマリストの手本のように整然とし、全ての物が定められた位置に寸分の狂いなく置かれている。朝六時起床、白湯を飲み、十五分のストレッチ。寸分の狂いもない、はずだった。その日までは。

異変は、キッチンから始まった。愛用のポップアップトースターに、いつも通り八枚切りの食パンをセットした瞬間だった。重要なプレゼンを明日に控え、灰田の胸中は珍しくさざ波立っていた。課長の無茶な要求、後輩の凡ミス、積み重なるストレスが胃のあたりで黒い澱のように渦巻いていた。

「落ち着け、灰田誠。感情はノイズだ」

彼が深呼吸をして平常心を装った、その刹那。

ガシャン!という轟音と共に、トースターから黒焦げの物体が、まるで小型ロケットのように天井に向かって射出された。それは見る影もなくなった食パンの残骸で、天井に黒い染みを作ってから床に落ちた。トースターの投入口からは、不吉な赤い光が明滅し、まるで地獄の釜の蓋が開いたかのような熱気が立ち上っていた。

「……なんだ?」

灰田は呆然と立ち尽くした。十年選手のトースターだが、こんな過激な自己表現は初めてだ。彼はそれを単なる故障と断定し、コンセントを引っこ抜いた。

気を取り直してコーヒーを淹れようと、最新式のコーヒーメーカーのスイッチを入れる。昨夜のうちに豆と水は完璧な分量でセット済みだ。プレゼンの構成を頭の中で反芻し、あるアイデアが閃いた時、彼の心に微かな高揚感が生まれた。その瞬間だった。

ブシュウウウウウウッ!

コーヒーメーカーが、突如として断末魔の叫びのような蒸気を噴き上げた。そして、抽出されるはずのコーヒーが、ノズルからではなく、給水タンクの蓋を突き破って、茶色い間欠泉となって噴き上がったのだ。天井から降り注ぐ熱い雫を浴びながら、灰田はただ、立ち尽くすしかなかった。

「……水漏れ、か?」

彼の整然とした世界に、亀裂が入る音がした。それは、彼の感情の金庫がきしみ始める音でもあった。この時、彼はまだ気づいていなかった。家電たちの反乱が、自らの心の叫びと完全にシンクロしているという、恐ろしくも滑稽な事実に。

第二章 暴走プレゼンと部長の悲劇

翌日、灰田は寝不足の顔で出社した。自宅の惨状を何とか片付けたものの、彼の心は静かな湖面どころか、荒れ狂う日本海と化していた。平穏を保たねばならない。そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、会社の自動ドアは彼が通る瞬間だけ閉まろうとし、エレベーターは各階停まりの鈍行運転を強いた。

「灰田さん、顔色悪いですよ? 昨日の夜、何か燃えるようなことでもありました?」

声をかけてきたのは、企画部の同僚、日向(ひなた)あかりだ。彼女は灰田とは正反対の人間で、感情を太陽光のように周囲に振りまき、よく笑い、よく怒り、よく泣いた。灰田にとって、彼女は理解不能なエネルギーの塊だった。

「……別に。トーストを少し、焦がしただけだ」

嘘ではない。些か表現が控えめすぎるだけで。

問題のプレゼンは午後からだった。灰田は自分のデスクで最終調整に取り掛かる。しかし、緊張が彼の指先を冷たくするにつれて、ノートパソコンの挙動がおかしくなっていった。カーソルは勝手に震えだし、変換ミスが頻発する。「弊社」と打てば「弊社(へいしゃ)」と無駄に読み方が表示され、「企画」は「奇禍」に。しまいには、灰田が思考を巡らせている間に、画面に勝手にポエムが打ち込まれ始めた。

『コンクリートの森、僕は迷子の子猫……癒えない傷を抱いて、明日のプレゼンへと旅立つ……』

「なっ……!」

灰田は慌ててデリートキーを連打する。ウイルスか? そうに違いない。感情のノイズが、ついにデジタル世界にまで侵食してきたのだ。

そして、運命のプレゼンが始まった。会議室の重苦しい空気の中、灰田は極限まで感情を押し殺し、完璧な無表情で話し始めた。しかし、彼の内心のプレッシャーに呼応し、プロジェクターが突如として奇行に走った。映し出されたグラフの背後に、うっすらと別の画像が透けて見え始めたのだ。それは、小学校の運動会で、パンツ一丁で泥んこになって泣いている幼い灰田の写真だった。

「……え?」

クライアントがざわめく。灰田は血の気が引くのを感じた。違う、これは違う! パニックになった彼の心に呼応するように、今度は会議室の天井に埋め込まれたスピーカーから、子供向けアニメの主題歌が大音量で流れ始めた。

事態はさらに悪化する。混乱する会議室のドアがスッと開き、一体の掃除ロボットが猛スピードで侵入してきた。それは一直線に、最前列に座っていた加藤部長の足元へと突き進むと、器用に彼の頭上へとよじ登り、その豊かすぎる髪――長年連れ添ったであろう、見事なまでに不自然な黒髪の塊――を、吸引口にスポン!と吸い込み、猛スピードで廊下の彼方へと走り去ってしまった。

会議室は静まり返った。つるりとした頭頂部を両手で押さえ、わなわなと震える部長。壁に映し出された、泣きじゃくるパンツ一丁の少年。そして、鳴り響くアニメソング。灰田誠の「平穏是第一」な人生は、この瞬間、完璧に、そして盛大に崩壊したのだった。

第三章 発明家と万年筆の遺言

加藤部長への謝罪と始末書の提出、クライアントへの平身低頭の交渉の末、プレゼンは奇跡的に「後日改めて」という猶予をもらえた。しかし、灰田の心は完全に折れていた。もはやこれは故障やウイルスではない。自分自身に原因があるのだ。自分の感情が、周囲の機械を狂わせている。彼は、自分が呪われた存在であるかのように感じていた。

「灰田さん、大丈夫ですか?」

会社の屋上で、缶コーヒーを握りしめてうなだれる灰田に、日向が声をかけた。彼女の目は、いつものからかうような色ではなく、真摯な心配の色を浮かべていた。

「……大丈夫に見えるか」

「うーん、全然? でも、面白かったです。今日のプレゼン」

「面白いわけがあるか! 俺の人生は終わったんだ」

「終わってませんよ。むしろ始まったんじゃないですか? あんな情熱的なプレゼン、初めて見ました。パンツ一丁で泣いてる灰田少年、可愛かったですよ」

「帰ってくれ……」

灰田が彼女を追い払おうとした時、日向は真剣な顔で言った。

「ねえ、灰田さん。それ、もしかして才能じゃないですか?」

「才能? これが? 周囲に迷惑をかけるだけの呪いだ」

「だって、感情が世界に影響を与えるんですよ? すごいじゃないですか。問題は、それをコントロールできていないことだけで。もっと、怒ったり、喜んだり、悔しがったり、素直になればいいんですよ!」

日向の言葉は、灰田の心の奥底に小さな波紋を広げた。だが、長年感情を抑圧してきた彼にとって、それはあまりに高いハードルだった。

再プレゼンの日。相手は業界最大手のワンダー・テック社。社長の古川は、一代で会社を築き上げた伝説的な経営者だ。灰田は禅僧のような精神状態で会議室に入った。無だ。俺は無になる。感情を消せば、機械は動かない。

プレゼンは、恐ろしいほどスムーズに進んだ。灰田は感情を排した無機質な声で、データを淡々と読み上げた。家電が暴走する気配はない。成功だ。そう確信した時、古川社長が静かに口を開いた。

「灰田君。君の祖父君は、灰田宗一郎さんだったかな」

「え……はい。私が幼い頃に亡くなりましたが」

「そうか。奇遇だな。彼は私の恩人であり、最高の友人だった」

古川社長は懐かしむように目を細めた。「彼はとんでもない発明家でね。いつもこう言っていた。『感情こそが、人類最高の発明の源だ。怒りも、喜びも、悲しみも、全てがエネルギーになる』と。……だが、残念だ。君のプレゼンからは、その熱が、感情のかけらも感じられない。データは正しい。だが、心が動かない。この契約は、見送らせてもらう」

絶望が、灰田を叩きのめした。祖父。物心つく前に亡くなった、変わり者の発明家だったと聞いている祖父。その友人に、祖父が最も大切にしていたはずの「感情」がないと断じられた。

その時だった。悔しさと情けなさで胸が張り裂けそうになった瞬間、スーツの内ポケットに入れていたものが、ブルブルと微かに震えだした。それは、祖父が残した唯一の形見である、古びた万年筆だった。

灰田は、雷に打たれたようにある記憶を思い出した。それは、祖父の葬式の日に、祖母から聞かされた言葉だった。

『誠や、おじいちゃんがね、あんたにすごいものをプレゼントしたって言ってたよ。「誠の体には、感情を力に変える、わしの最高傑作が仕込んである。感情を閉じ込めるんじゃないぞ。それはお前だけのエネルギーだ。いつか、すごいことが起きるぞ」ってね』

呪いではなかった。故障でもなかった。これは、祖父からのギフト。常識外れの、とんでもない遺産だったのだ。

灰田は顔を上げた。目の前には、失望した顔の古川社長と、ドアの隙間から心配そうにこちらを覗く日向の姿があった。日向が、声を出さずに口を動かした。

『笑って!』

違う。今、俺の中にあるのは、笑いじゃない。このプロジェクトへの情熱、失敗した悔しさ、祖父への想い、そして、自分自身への怒りだ。

灰田は、決意した。金庫の扉を、自らの手でこじ開けることを。

第四章 情熱のシンフォニー

「……お待ちください、社長」

灰田の声は、震えていた。しかし、それは恐怖からではなかった。抑えきれない感情の奔流による、武者震いだった。彼はパワーポイントのファイルを閉じ、パソコンの電源を落とした。

「データはもう不要です。俺の……私の言葉で、話をさせてください」

古川社長が訝しげに彼を見つめる。灰田は、深く息を吸い込んだ。そして、爆発させた。

「このプロジェクトは! ただ儲かるだけの企画じゃありません! 人々の生活に、ほんの少しの驚きと、温かい笑いを届けたいんです! 私は、ずっと平穏なだけの人生を求めていました。感情はノイズだと思っていました! でも、違った! 悔しい! 嬉しい! 楽しい! そういうものがなければ、世界はただの灰色だ! この企画には、私の……私たちの、そんな想いが詰まっているんです!」

灰田が叫んだ瞬間、奇跡が起きた。

彼の激情に呼応し、会議室の照明がカクテル光線のように明滅を始めた。天井のスピーカーからは、荘厳なオーケストラの音楽が鳴り響く。エアコンは、祝福するかのように心地よい風を送り込んできた。そして、消したはずのプロジェクターのスクリーンに、光の粒子が集まり、一つの映像を結んだ。それは、このプロジェクトが成功した未来の街の姿だった。人々が笑顔で行き交い、灰田が考案した製品が、彼らの生活を豊かに彩っている。それはデータではなく、灰田の情熱が見せた幻燈だった。

会議室にいた全員が、その圧巻の光景に息をのんだ。それはもはやプレゼンではなく、魂を揺さぶるスペクタクルショーだった。

光と音が最高潮に達し、そして、静寂が訪れる。灰田は肩で息をしながら、古川社長をまっすぐに見つめた。

古川は、しばらく呆然としていたが、やがてその顔に満面の笑みを浮かべた。

「は、はは……ははははは! それだ! それが見たかったんだよ、宗一郎の孫! 君の勝ちだ。契約しよう!」

その言葉に、灰田の目から熱いものが溢れ出た。それは、悲しみではない、歓喜の涙だった。

後日。日向と二人、カフェのテラス席に座っていた。あれ以来、灰田の世界は一変した。彼はもう、感情を押し殺すことをやめた。

「それにしても、すごかったですね、あのプレゼン。灰田さん、まるで魔法使いみたいでした」

日向が楽しそうに笑う。

「魔法じゃない。ただの、ちょっとお節介な祖父の遺産だよ」

灰田はそう言って、照れくさそうに笑った。彼が心からの笑顔を見せた、その瞬間。テーブルの上のシュガーポットが、カタカタ、と嬉しそうに小さなダンスを踊り始めた。

灰田はそれを見て、少し困ったように眉を下げ、だが、すぐに幸せそうに目を細めた。

「こいつら、相変わらず騒がしいけど……まあ、悪くない」

彼の新しい日常は、かつて求めた静寂とはほど遠い、賑やかで、予測不能で、そして、どうしようもなく温かいものになっていた。感情という名のエネルギーが奏でるシンフォニーと共に、灰田誠の第二の人生が、今、始まったのだ。

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