第一章 甘く焦げ付く羊皮紙
時枝航(ときえだ わたる)の指先には、歴史が宿っていた。古書修復師である彼は、生まれつき特異な共感覚を持っていた。傷んだ紙や古びたインクに触れると、その書物が経てきた時代の「匂い」を嗅ぎ取ることができるのだ。鎌倉時代の武骨な鉄の匂い、江戸文化の華やかで甘い白粉の香り、明治維新の混乱期に漂う蒸気と血の匂い。それは航にとって、歴史という名の巨大な樹木から滴る、芳醇な蜜のようなものだった。彼はその匂いを頼りに、単なる物理的な修復ではなく、書物が持つ「魂」を損なわない、本質的な修復を信条としていた。
その日、彼の工房の扉を叩いたのは、時が止まったかのような老女だった。千歳(ちとせ)と名乗る彼女が差し出したのは、黒檀の箱に納められた一冊の古文書。それは、航がこれまで扱ってきたどの歴史的遺物とも異なっていた。しなやかで、わずかに光沢を帯びた羊皮紙は、地球上のどの動植物由来のものとも思えない。そして、何よりも航を困惑させたのは、その「匂い」だった。
指先が触れた瞬間、鼻腔を突き抜けたのは、矛盾した二つの香り。南国の果実が熟れきったようなむせ返る甘さと、物が燃え尽きた後のひどく乾いた焦げ臭さ。甘美と終焉が同時に存在する、ありえない香りだった。
「これは……いつの時代の、どこの国のものですかな?」
航の問いに、千歳は静かに首を振った。深い皺の刻まれた目元が、悲しげに細められる。
「それは、私にも分かりません。ただ、この中に記された歴史を、正しく未来へ繋いでいただきたいのです」
それだけを告げると、彼女は分厚い封筒を置いて工房を去っていった。
航は一人、作業台の上の羊皮紙と向き合った。未知の言語で綴られた文字は、まるで流星の軌跡のように美しい曲線を描いている。ページをめくるたび、甘く焦げ付く香りが濃くなった。それは、航の知るどの歴史の座標軸にも収まらない、孤立した物語の匂いだった。歴史とは、検証可能な事実の連なりであるはずだ。だが、この書物はその大前提を嘲笑うかのように、静かに横たわっている。これは一体、何なのだ? 航の修復師としてのプライドと、歴史への探究心が、強く掻き立てられるのを感じていた。
第二章 名もなき海の航海士
修復作業は困難を極めた。羊皮紙は驚くほど強靭だったが、インクは微細な粒子レベルで剥離しかけていた。航は自ら調合した特殊な定着剤を、息を殺しながら一滴ずつ垂らしていく。集中力が高まるにつれ、あの奇妙な匂いは彼の意識の奥深くまで浸透してきた。
日誌は、「アーク」と名乗る一人の航海士によって書かれていた。彼は仲間と共に「紫電号」と名付けられた船に乗り、存在しないはずの海を渡っていた。日誌に描かれた星図は、地球上のどの地点から観測できるものとも一致しない。空には、大小二つの月が浮かんでいた。
『今宵も双月は美しく、我らを照らす。されど、我らが目指すは、かつて古老が語り聞かせた伝説の星。青く輝く、水の惑星』
航は、これを壮大なスケールの創作物語だろうと結論付けた。どこかの時代、誰かが空想の翼を広げて描いた、壮麗なファンタジー。ならば修復師として、その夢想を可能な限り忠実に保存するのが自分の役目だ。
しかし、修復を進めるうちに、航の確信は揺らぎ始めた。日誌の記述は、単なる空想で片付けるにはあまりに精緻すぎた。潮の満ち引きと双月の関係、未知の海流の動き、生態系の描写。それらは一貫した物理法則と論理に貫かれており、まるで科学論文のようだった。
航は、羊皮紙から立ち上る匂いに、より意識的に耳を澄ませるようになった。仲間と酒を酌み交わすページの匂いは、芳醇な果実酒の甘い香り。嵐に遭遇し、船が大きく損傷したページからは、潮水の塩辛さと恐怖で乾いた喉の焦げ臭さがした。
いつしか航は、自分がアークと共に紫電号の甲板に立っているかのような錯覚に陥っていた。頬を撫でる異星の風、頭上で輝く二つの月、仲間たちの笑い声。彼の共感覚は、これまで経験したことのないほど深く、鋭く、物語の世界へと彼を引きずり込んでいく。
これは、ただの物語ではないのかもしれない。歴史の闇に葬られた、真実の記録なのではないか。もしそうなら、この発見は歴史学の根幹を揺るがす大事件になる。航の胸は、未知の真実を発見するかもしれないという、研究者としての興奮に高鳴っていた。彼の能力が、歴史の空白を埋めるのだ。
第三章 故郷の名は
日誌は、いよいよ終盤に差し掛かっていた。アークたちの航海は、希望に満ちたものから、次第に悲壮感を帯びていく。仲間が一人、また一人と病に倒れ、船は度重なる嵐で満身創痍となっていた。羊皮紙から漂う匂いも、希望に満ちた甘い香りは影を潜め、魂がじりじりと焼け付くような、絶望的な焦げ臭さが支配的になっていた。航は、まるで親しい友の最期を看取るかのように、痛む心で修復作業を続けた。
そして、彼は最後の一枚に辿り着いた。そこには、これまでで最も乱れた、力の抜けた筆跡で、航海の結末が記されていた。
『紫電号、沈む。仲間は、皆、星になった。我、一人なり』
船は砕け、アークは名も知らぬ惑星の岸辺に打ち上げられた。空には、見慣れた双月ではなく、たった一つの黄色い太陽が燃えている。彼は、ついに目的の星系に辿り着いたのだ。しかし、そこには目指していた青い惑星はなかった。ただ、荒涼とした大地が広がるばかり。航海は、完全な失敗に終わった。
航は、アークの途方もない孤独と絶望に、思わず目を閉じた。インクからは、もはや何の匂いもしない。ただ、虚無だけが広がっていた。だが、ページの最下部に、震えるような線で書き加えられた最後の一文があった。航は、そこに定着剤を慎重に落とし、インクの粒子を繋ぎ止めた。そして、その文字を読んだ瞬間、全身の血が凍りついた。
『我、故郷(ふるさと)に帰れず。この物語を、遠き同胞に託す。我らが目指した伝説の星、その名は――地球』
――地球?
頭を殴られたような衝撃だった。これは、過去の記録などではない。未来。遠い未来、人類が宇宙に散らばった後、故郷である地球への帰還を目指した者たちの、悲劇の記録なのだ。彼らが目指した伝説の惑星こそ、今、自分が立っているこの場所だった。
その瞬間、航の中で何かが弾けた。パズルのピースが、恐ろしい形に組み上がる。彼が嗅ぎ取っていた匂いの正体に、気づいてしまったのだ。
あれは、「時代の匂い」などではなかった。甘い香りは、故郷への焦がれるような憧憬と希望。焦げ付く匂いは、仲間を失い、夢破れたアークの、魂が焼け爛れるほどの「絶望」と「孤独」。
彼の能力は、歴史という客観的な事実の匂いを嗅ぎ取るものではなかった。そうではなく、歴史を紡いだ名もなき「個人」の、強烈な感情の残滓を嗅ぎ取る能力だったのだ。
航は工房の床にへたり込んだ。彼の信じてきた全てが、足元から崩れ落ちていく。歴史とは、年表に記される揺るぎない事実の連なりではなかったのか。自分が追い求めてきた真実とは、冷徹なファクトではなかったのか。違う。歴史とは、アークのような名もなき誰かの、血の通った想いそのものだった。甘く、焦げ付くような、愛おしくも悲しい、人間の感情の集積体。それが、歴史の正体だった。
第四章 想いを繋ぐ修復師
羊皮紙の修復を終えた航は、再び千歳の元を訪れた。あの時と同じように静かな佇まいで、彼女は航を迎えた。
「修復は、終わりました」
航が黒檀の箱を差し出すと、千歳は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。これで、アークの想いも、また少し未来へ繋がります」
彼女は、自分たちが、地球に帰れなかったアークの物語を、世代を超えて語り継いできた一族の末裔であることを静かに明かした。そして、航に問いかけた。
「あなたにとって、歴史とは事実のことですか? それとも、誰かの想いのことですか?」
その問いに、航は迷わず答えた。彼の目には、以前の理知的な探究心とは違う、温かな光が宿っていた。
「以前の僕なら、事実だと答えたでしょう。でも、今は分かります。歴史とは、事実という骨格に、人々の想いという血肉がまとわりついたものだ。そして……僕たちが本当に受け継ぎ、未来へ繋いでいくべきなのは、その熱い血肉の方なのかもしれません」
彼の内面は、アークの旅路を経て、確かに変容していた。彼はもう、歴史を冷たい分析対象として見てはいなかった。
工房に戻った航は、一つの決意を固めていた。依頼は完了したが、彼の仕事はまだ終わっていない。彼はアークの日誌の複製を作ることにした。だが、それは単なる文字の複写ではなかった。彼は、自らの能力を使い、アークの「想い」そのものを再現しようと試みたのだ。
様々な樹脂や香料を調合し、紙に染み込ませていく。希望の甘い香りを再現するために、希少な花の蜜を煮詰めた。絶望の焦げ臭さを表現するために、特定の木炭を微粉末にして混ぜ込んだ。それは、古書修復というよりは、むしろ新しい芸術の創造に近い行為だった。事実を伝えるのではなく、感情を伝えるための「記録」。
作業台の上には、新しい羊皮紙が広げられている。航はそっと目を閉じ、紙に指を触れた。鼻腔をくすぐるのは、インクの匂いでも、紙の匂いでもない。遥かな未来から時を超えて届いた、たった一人の男の、故郷を想う切ないまでの残り香だった。歴史の匂いを嗅ぎ取っていた青年は、今、人の心の匂いを未来へ繋ぐ、唯一無二の修復師として、その第一歩を踏み出した。彼の工房から、また新しい歴史が、静かに生まれようとしていた。