砂の記憶、石の未来
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砂の記憶、石の未来

第一章 触れる未来の残響

カイの手が、古い鐘楼の石壁に触れた。指先に伝わるのは、幾世紀もの風雨に耐えた石の冷たさと、ざらついた感触。それは彼の仕事、古物修復師としての日常の一部だった。だが、次の瞬間、世界は悲鳴を上げた。

幻視が奔流となって意識を飲み込む。鐘楼が轟音とともに崩れ落ち、舞い上がる粉塵が空を灰色に染める。石くれと化した瓦礫の下から、絶望に歪んだ人々の顔が覗く。声にならない慟哭が鼓膜を突き破り、誰かの諦めきった最後の吐息が、カイ自身の呼気と重なった。彼は喘ぎながら手を引く。目の前の鐘楼は、何事もなかったかのように夕陽を浴びて静かに佇んでいる。しかし、彼の魂には、まだ存在しない未来の残響が、生々しい傷跡のように刻み込まれていた。

この『力』は、彼にとって祝福ではなかった。触れた遺物が辿る『最後の瞬間』を追体験する呪い。それは常に、喪失と絶望の感情を伴った。だからカイは、誰とも深く関わらず、工房の静寂のなかで、死にゆくモノたちの声なき声に耳を傾けるだけの日々を送っていた。

工房の隅には、祖父が遺したガラス細工の砂時計が置かれている。琥珀色の砂が、音もなく、しかし確実に落ち続けていた。その砂が何時を刻んでいるのか、カイはまだ知らなかった。

第二章 記憶石と消された囁き

街の中央広場には、巨大な『記憶石』が鎮座していた。乳白色の石の表面には、新たな英雄譚や祝祭の記憶が光の文字となって流れ込み、人々はそれを熱狂的に見守っていた。新しい記憶が刻まれるたび、石の深層から最も古い記録が一つ、泡のように弾けて消える。世界の歴史はこうして常に更新され、人々は昨日忘れたことさえ、忘れてしまう。それが、この世界の法則だった。

「また、古い時代の記録が消えたわ」

静かな声に振り返ると、市立図書館の古文書管理者、エラが立っていた。彼女の瞳には、熱狂する群衆とは異なる、憂いの色が浮かんでいる。

「人々は新しい光に夢中で、失われた影には気づかない」

カイは黙って頷いた。その夜、エラがカイの工房を訪れた。彼女が広げたのは、記憶石から消去される直前に写し取られた、古い記録の断片だった。そこに記されていたのは、『大地の鳴動により、旧市街の鐘楼倒壊』という一行。

「あなたが先日、幻視したという鐘楼のことよ」

エラの指が、古文書のインクをなぞる。

「あなたの見る未来は、ただの未来じゃない。それは…この世界から『消された過去』と、あまりに似すぎている」

カイの背筋を、冷たいものが走り抜けた。彼の呪いは、未来を見ているのではなかったのか。それとも、未来と過去が、不気味な円環を描いて繋がっているというのか。工房の隅で、砂時計の砂が、さらさらと微かな音を立てた気がした。

第三章 砂時計のカウントダウン

エラと共に、カイは消された歴史の痕跡を追い始めた。記憶石が忘却した物語は、古文書の染みや、老人の曖昧な昔話の中に、亡霊のように漂っていた。カイが遺物に触れて見る幻視は、その亡霊たちに確かな輪郭を与えた。かつて栄えた港町が津波に飲まれる光景。疫病で廃墟と化した村の最後の静寂。それらは全て、記憶石から意図的に消去された『大災害』の記録と一致した。

奇妙なことに、カイが真実に近づくほど、工房の砂時計の砂が落ちる速度は増していった。幻視の奔流はもはや彼の意思を無視して襲いかかり、現実との境界を曖昧にしていく。彼は眠りの中でも、崩壊する世界の音を聞いていた。

「これは、ただの記憶の消去じゃない」エラは震える声で言った。「まるで、世界が定期的に大掃除をしているみたいだわ。歴史を根こそぎ消し去る、『大浄化』よ」

その言葉が、カイの脳裏に焼き付いた。誰かが、何かを隠している。この世界そのものが、巨大な嘘の上に成り立っているのではないか。砂時計の砂は、もう半分以上が落ちていた。世界の終わりまでのカウントダウンのように、それは冷酷に時を刻んでいた。

第四章 禁忌の真実

カイとエラが辿り着いたのは、記憶石の地下深くに隠された『原初の石室』だった。湿った土の匂いと、時が澱んだような空気が二人を迎える。石室の中央には、工房の砂時計と酷似した、巨大な黒曜石の砂時計がそびえ立っていた。その内部で、光る砂が激しく流れ落ちている。

カイは、何かに引かれるように、その黒曜石の台座に手を伸ばした。

触れた瞬間、これまで経験したことのない、凄まじい幻視が彼を貫いた。それは一つの未来ではなく、無数の過去と未来が混ざり合った、世界の記憶そのものだった。彼は見た。人々が紡ぐ歴史は、喜びや希望だけでなく、おびただしい量の悲しみ、憎悪、後悔を生み出していた。その負の記憶が記憶石に蓄積され、飽和点に達するたび、世界は自重で崩壊する寸前に陥っていたのだ。

『消滅の未来』の正体は、世界の自己防衛本能だった。記憶の重みに耐えきれなくなった世界が、自らを『初期化』し、全てを忘却の彼方へ葬り去ることで、辛うじて存続してきたのだ。カイが見ていたのは、次なる初期化、大浄化の光景だった。そして、この巨大な砂時計こそが、その最終装置だった。

人々を救うためのシステムが、人々の歴史そのものを消し去り続ける。その残酷な真実に、カイは立ち尽くすしかなかった。砂が落ち切れば、また世界は『無』に還る。それは、止められない摂理だった。

第五章 空白を紡ぐ者

黒曜石の砂時計の砂は、もう残り僅かだった。空が不吉な茜色に染まり、大地が低く呻くように震え始める。初期化の兆候だ。だが、広場の人々は何も知らず、穏やかな日常を謳歌している。そのコントラストが、カイの胸を締め付けた。

絶望の淵で、カイは静かに決断した。この摂理を止めることはできない。ならば、受け入れよう。そして、全く新しい道を創り出そう。

彼は隣に立つエラに向き直った。彼女の瞳には、恐怖と、そしてカイへの信頼が映っていた。

「歴史は消えるんじゃない。新しい紙が用意されるだけだ」カイは、努めて穏やかに言った。「そこに何を書くかは、君たち次第だ」

「カイ…?」

「見ていてくれ、エラ。僕が、この世界の新しい『空白』になる」

エラが何かを言う前に、カイは装置の中心、原初の記憶石へと歩み寄った。彼は両の手のひらを、冷たい石の表面にそっと置いた。目を閉じ、全ての意識を集中させる。

「来い」

彼は呼びかけた。彼が幻視してきた全ての『消滅の未来』を。記憶石から消え去った、忘れられた全ての『過去』を。人々の悲しみも、喜びも、憎しみも、愛も、その全てを、この身に。

第六章 砂の記憶、石の未来

カイの身体が、淡い光の粒子となって崩れ始めた。彼の意識は無限に拡散し、原初の記憶石と溶け合っていく。彼は、ただの人間であることをやめ、歴史の全てを内包する、巨大な記憶の器そのものになろうとしていた。苦痛はなかった。ただ、無数の物語が彼を満たし、静かな充足感だけがあった。

世界の初期化が始まった。しかし、それは完全な破壊と忘却ではなかった。蓄積された歴史の重みは、全てカイという新たな器に流れ込み、世界にはただ、純粋な『空白』だけが残された。

黒曜石の砂時計の砂が、最後の一粒まで落ち切った。ガラスが砕け散る代わりに、その動きは永遠に停止し、透明な静寂が訪れた。

世界から、音が消えた。人々はふと空を見上げ、何か途方もなく大切なものを失ったような、それでいてどこか晴れやかな、不思議な喪失感に包まれた。歴史は消えた。だが、その痛みはカイが引き受けた。

エラだけが、全てを覚えていた。彼女は涙を流しながらも、空に向かって微笑んだ。朝日が昇り、新しい世界を照らし出す。彼女は図書館に戻り、真っさらな羊皮紙を広げ、ペンを握った。

カイが遺してくれた、この尊い空白から、真の未来を紡ぎ始めるために。

始まりの言葉は、こうだった。

「かつて、この世界には、触れたモノの痛みを知る、一人の男がいた――」


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