第一章 忘れられた歌
俺の仕事は、歴史の隙間に落ちた音を拾うことだ。人々は俺を「歴史聴取師」と呼ぶ。もっとも、そう呼ぶ人間はごく僅かな同業者と、俺に仕事を依頼する一握りの研究機関だけだが。俺、響湊(ひびきみなと)は、特殊な増幅集音装置を使い、記録にも記憶にも残らなかった過去の音――忘れ去られた人々の息遣いや、名もなき職人の道具が立てる音、歴史書の一行にも満たない事件の残響を聴き取り、デジタルアーカイブ化している。
東京という都市は、音の地層が幾重にも重なった巨大な遺跡だ。今日、俺が訪れたのは、再開発を間近に控えた月島の一角。かつては広大な干潟で、江戸時代に埋め立てられた土地だ。ヘッドフォンを装着し、指向性マイクを地面すれすれに構える。装置のダイヤルを回すと、現実の喧騒が遠ざかり、代わりに時間の深淵からくぐもった音が浮かび上がってくる。
――ザザァ……ザザァ……。波の音。埋め立てられる前の、静かな江戸の海の音だ。――キィン、キィン……。遠くで鍛冶屋が槌を振るう音。――わっはっは、という屈託のない笑い声。一瞬で消える、過去の幻影。これらはすべて一度きりの音。誰かの記憶から完全に消え去った瞬間に、時間の澱としてこの場所に定着する。それが俺の聴く音だ。
その日も、ありふれた音の採集で終わるはずだった。いくつかの音を記録し、そろそろ引き上げようかと体を起こした瞬間、それまで聴こえていた全ての音が不意に掻き消えた。そして、代わりに一つの旋律が、鼓膜を優しく震わせた。
それは、若い女性の鼻歌だった。どこか懐かしく、それでいて物悲しいメロディ。特定の歌詞はなく、「ふ、ふ、ふん……」という微かなハミングが、まるで絹糸のように俺の意識に絡みついてくる。声は澄んでいるが、諦観のようなものが滲んでいた。陽だまりの中で、独り、世界の終わりを待っているかのような、そんな寂寥感に満ちた歌。
俺は息を呑んだ。こんなにも鮮明で、感情豊かな音を聴いたのは初めてだった。だが、それ以上に奇妙なことがあった。通常、忘れられた音は一度聴こえたら二度と聴こえない。完全に過去の遺物だからだ。しかし、その鼻歌は違った。翌日、同じ場所を訪れると、また同じ時間に、同じ旋律が聴こえてきたのだ。三日目も、四日目も。まるで、その場所に地縛霊のように憑依した音だった。前例のない現象に、俺の胸は得体の知れない期待と不安で満たされていった。この歌は、一体誰が、いつ、何のために歌ったものなんだ? 俺は、この忘れられたはずの歌の謎に、抗いがたく惹きつけられていた。
第二章 記録の空白
繰り返し聴こえる鼻歌の正体を突き止めるため、俺は歴史聴取師としての本分を忘れ、一人の探偵のように動き始めた。まず、国会図書館の書庫に籠り、月島周辺の古地図や土地台帳を片っ端から調べ上げた。鼻歌が聴こえるピンポイントの場所は、江戸後期、とある小藩の下級武士が暮らした屋敷跡地であることが判明した。
「松永藩、江戸詰屋敷……。藩士、倉田惣兵衛」
古びた紙の上にかすれた文字を見つけた時、俺は心の中で快哉を叫んだ。だが、喜びも束の間だった。倉田惣兵衛という人物について深く掘り下げても、彼の家族構成、特に若い女性がいたという記録はどこにも見つからなかった。藩の記録にも、近隣の寺の過去帳にも、彼女の存在を示す痕跡は一切ない。まるで、初めから存在しなかったかのように、歴史から完全に抹消されていた。
調査が行き詰まるほど、俺の執着は増していった。毎日のようにかの地を訪れ、ヘッドフォン越しに彼女の歌を聴いた。雨の日には、歌声は雨音に濡れてさらに悲しげに響いた。風の強い日には、風に掻き消されまいと必死に歌っているように聞こえた。俺はいつしか、顔も名前も知らない音の主に、深い共感を覚えていた。
彼女はなぜ、歴史に爪痕一つ残さず消えなければならなかったのか。この歌に込められた想いは何だったのか。考えているうちに、俺自身の孤独が、彼女の孤独と重なっていくような気がした。歴史の音を聴くという特殊な能力。誰にも理解されず、ただ一人、過去の幻影と向き合う日々。俺もまた、この巨大な都市の中で、誰にも知られず消えていく存在なのではないか。
「君は、誰なんだ……?」
ある日の夕暮れ、茜色に染まる空の下で、俺は無意識に呟いていた。ヘッドフォンからは、いつもの鼻歌が流れている。その旋律は、もはや単なる調査対象ではなかった。それは、時を超えて俺に語りかける、一人の人間の魂の叫びそのものだった。この声を、この存在を、このまま忘却の彼方に葬り去ってはいけない。俺の中で、何かが使命感へと変わっていくのを感じていた。歴史を記録するだけではない。この歌に、意味を与えなければならない。そう強く思った。
第三章 未来からの残響
執着が狂気に変わる寸前だった。俺は寝食を忘れ、あらゆる可能性を模索した。そんな折、俺が使っている歴史聴取装置「クロノ・レシーバー Mark IV」の設計主任だった恩師の言葉が、脳裏に雷のように閃いた。
『湊くん、この装置には理論上、極めて稀に発生しうる“バグ”がある。過去の音響量子だけでなく、未来のそれが現在にエコーバックしてくる現象だ。特に、強く、誰にも知られることなく発せられ、そして“忘れられることが確定している”未来の音を拾ってしまうことがあるらしい。もちろん、プロトタイプ段階で修正されたはずだがね』
――忘れられることが、確定している、未来の音。
全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。俺は震える手で、装置のログデータを再解析した。音響量子が持つ特有の時間的スペクトルを分析すると、信じがたい事実が浮かび上がってきた。俺が聴いていた鼻歌の音源は、過去のものではなかった。それは、マイナスの時間軸……つまり、未来から届いていたものだったのだ。
俺が聴いていたのは、江戸時代の名もなき女性の歌ではなかった。それは、これから先の未来、まさにこの場所で、誰にも知られることなく孤独に死んでいく運命にある、誰かの歌だったのだ。繰り返し聴こえたのは、彼女が死に至るまでの間、毎日同じ場所で、同じように絶望と諦観の中で歌い続けるからだ。そして、彼女の死と存在が誰にも記憶されず、完全に「忘れられた」瞬間に、その音は未来の歴史の澱として確定する。俺の装置は、その確定した未来の「残響」を拾っていたのだ。
頭が真っ白になった。俺が今まで感じていた、過去の女性への憐憫や共感は、すべて見当違いだったことになる。だが、それ以上に恐ろしい事実が俺を打ちのめした。過去は変えられない。それが歴史聴取師としての鉄則であり、世界の摂理だ。しかし、未来は? これから起こる悲劇の予兆を、俺は聴いてしまった。
観察者として、このまま彼女が忘れ去られる運命を見過ごすべきか。それとも、一人の人間として、歴史に介入してでも彼女を救うべきか。装置の電源を切れば、俺は何も知らなかったことになる。だが、耳の奥には、あの物悲しい鼻歌がこびりついて離れない。それはもはや、歴史の記録ではなく、助けを求める生々しい声にしか聞こえなかった。俺は、歴史の観察者としての自分と、一人の人間としての良心の狭間で、身を引き裂かれるような葛藤に苛まれた。
第四章 歴史の共鳴
数日間、俺は仕事場に引きこもり、装置に触れることもできなかった。だが、沈黙は答えにはならなかった。目を閉じれば、あの鼻歌が聴こえる。彼女の孤独が、俺の孤独を苛む。
そして、俺は決めた。歴史聴取師の資格を剥奪されても構わない。俺は、この声を無視できない。
俺は再び月島のあの場所へ向かった。かつて武家屋敷があったその土地には、今、取り壊しを待つ古い木造アパートが建っている。俺は装置の感度を最大にし、音源を特定した。音は、二階の角部屋から聴こえてくる。錆びついた鉄の階段を、一歩一歩、心臓の鼓動を確かめるように上った。
『倉田』
古びた表札には、奇しくも江戸時代の屋敷の主と同じ苗字が書かれていた。運命の皮肉だろうか。俺は深呼吸を一つして、震える手でドアをノックした。
数度のノックの後、ゆっくりとドアが開いた。そこに立っていたのは、青白い顔をした若い女性だった。歳は俺と同じくらいだろうか。その瞳には、俺が鼻歌から感じ取ったのと同じ、深い諦観の色が浮かんでいた。
「……どちら様、ですか?」か細い声が尋ねる。
俺は、用意していた言葉を何も言えなかった。ただ、目の前の、これから忘れられていくはずだった命を見つめていた。喉が渇き、言葉がうまく出てこない。
「あの……」俺はようやく声を絞り出した。「あなたの歌が、聴こえました」
女性は驚きに目を見開いた。訝しむような、信じられないというような表情。彼女は重い病を患い、家族も友人もなく、この部屋で一人、静かに最期の時を待っていたのだ。誰にも助けを求めず、ただ、幼い頃に母親が歌ってくれた鼻歌を口ずさむことだけが、唯一の慰めだった。
「歌……? 私の……?」
「はい。とても、悲しいのに、どこか温かい、不思議な歌でした」
その言葉が、彼女の心の固い殻を破ったのかもしれない。女性の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。それは、絶望の涙ではなかった。初めて自分の存在が誰かに届いたことへの、安堵の涙だった。
その後、俺は彼女を病院へ連れて行き、必要な手続きを手伝った。歴史聴取師としての俺がしたことは、それだけだ。だが、それは、一つの未来を大きく変えるには十分な介入だった。
数週間後、俺は恐る恐る、あのアパートの前で装置のスイッチを入れた。
しん、と静まり返っていた。あれほど執拗に聴こえていた鼻歌は、もうどこにも存在しなかった。彼女が救われたことで、「忘れられる運命」の未来が消滅したのだ。歴史の澱になるはずだった音は、今を生きる誰かの記憶となり、未来へと繋がった。
仕事を失うかもしれない。だが、俺の心は不思議なほど晴れやかだった。空を見上げると、東京の空はどこまでも高く澄み渡っている。
俺はこれからも、歴史の音を聴き続けるだろう。だが、その意味はもう以前とは違う。俺が拾うのは、単なる過去の記録ではない。それは、忘れられた誰かの想いであり、時を超えて届く救いの声なのかもしれない。歴史とは、確定した過去の集積ではなく、無数の声が共鳴し、未来を形作っていく、終わりのない旋律なのだ。俺はヘッドフォンをかけ直し、まだ聴こえぬ誰かの歌を探して、雑踏の中へと歩き出した。孤独だった聴取師の心には今、確かな温もりが響いていた。