忘れられたエコー
第一章 歪んだ時計の針
雨の匂いがした。19世紀のロンドン特有の、石炭の煙と湿った土が混じり合う、重たい空気。俺は傘もささずに、歴史の分岐点に佇んでいた。目の前で暴走する馬車が、ひとりの物理学者に迫っている。この男がここで死ねば、未来のエネルギー理論は百年遅れる。それが、今回修正すべき「歪み」だ。
俺は時の流れにそっと干渉し、物理学者の足元に転がっていた空き缶を、馬の蹄の前に滑り込ませた。けたたましい嘶きと共に馬車は軌道を変え、男は九死に一生を得る。これでいい。
任務を終えた瞬間、俺の頭を鈍い痛みが襲う。彼の名前、功績、その人生に関わる全ての「記憶」が、まるで乾いた砂のように指の間からこぼれ落ちていく。そして、空になったその場所へ、「正しく修正された歴史」――彼が事故を回避し、偉大な発見を成し遂げたという、誰もが知る物語――が冷たい水のように流れ込んでくる。またひとつ、俺の過去が世界に溶けて消えた。
現代に戻り、古びた図書館の地下書庫へ向かうと、リナが心配そうな顔で待っていた。「カイ、おかえりなさい。顔色が悪いわ」。彼女は俺の唯一の協力者であり、この孤独な宿命の、唯一の理解者だ。
「ああ、少し疲れただけだ」
「また、何か失くしたの?」
リナの問いは、いつも静かで、刃物のように鋭い。俺は答えずに、最近頻発している奇妙な現象について話した。「歴史の修正点に、不自然な空白や矛盾が多すぎる。まるで誰かが、僕の修正を上書きしようとしているみたいだ」。そう言うと、リナは息を呑み、その瞳に一瞬、深い哀しみの色が宿った。まるで、俺の知らない未来を憂うかのような、そんな目をしていた。
第二章 記憶の結晶
調査の末、俺は次の「歪み」の中心で、それを見つけた。本来、そこにあるはずのない、淡い光を放つ琥珀色の結晶。まるで、誰かの涙が凍りついたかのような、悲しいほどに美しいオブジェだった。
「記憶の結晶…忘れ去られた真実が形になったものだ」
リナから聞いた知識が蘇る。触れるな、と理性が警告していた。だが、結晶から微かに聞こえる声に、俺は抗えなかった。指が触れた瞬間、脳を灼くような閃光が走る。
――陽光が降り注ぐカフェテラス。向かい合って笑うリナ。「カイのそういうところ、好きよ」と、彼女は俺の知らない表情で囁いた。温かく、満たされた時間。俺が、決して経験したはずのない記憶。
「うっ…!」
鮮烈なビジョンは一瞬で消え去り、代わりに俺の中から大切な何かがごっそりと抜け落ちた。リナと初めてこの図書館で出会った日の記憶が、完全に消えていた。俺はいつから彼女を知っている?なぜ彼女を信頼している?足元が崩れ落ちるような感覚に、俺は壁に手をついた。
図書館に戻り、リナを問いただす。「あの結晶はなんだ!僕が失った記憶の中に、何があるんだ!」。俺の荒い声に、彼女はただ俯くだけだった。その時、俺は見てしまった。彼女がいつも胸に下げている小さなペンダントが、あの結晶と同じ、淡い光を放っているのを。
第三章 愛という名の改ざん
全ての答えは、最大の「歴史の空白」――記録上、何一つ出来事が存在しない、時空の特異点――にあると確信した。俺がそこに跳んだ時、待っていたのは、やはりリナだった。彼女は、まるでこの時をずっと待っていたかのように、静かに佇んでいた。
「どうして…」
「あなたを、救いたかったから」
リナの声は震えていた。彼女の頬を涙が伝う。
「あなたをこんな宿命に縛り付けているのは誰!?僕の記憶を奪い、歴史を弄んでいるのは誰なんだ!」
俺の叫びに、彼女は首を横に振った。そして、堰を切ったように感情を迸らせた。
「違う!あなたを救おうとしていたのよ!私が!あなたが歴史を正し続けるたびに、あなたの記憶が失われ、存在そのものが世界から希薄になっていく…!いずれ、誰もあなたのことを憶えていない世界が来る!そんな未来、私には耐えられない!」
彼女こそが、歴史の「改ざん者」だった。俺の修正を妨害し、不自然な空白を生み出していた張本人。その目的は、俺を歴史の守り手という呪いから解放し、「カイが存在しない、けれど誰もが平和に暮らせる偽りの歴史」を創り上げること。俺を、救うためだけに。
その時、俺たちの背後に、巨大な「記憶の結晶」が出現した。それは、俺という存在を生み出した、未来の人類の集合意識そのもの。真の歴史を守ろうとする、冷徹で、絶対的な意志の塊だった。これに触れれば、俺は全てを思い出す。そして、最後の選択を迫られるのだ。自身の消滅か、それとも、リナの愛を受け入れ、偽りの歴史に身を委ねるか。
第四章 君だけが憶えている世界で
俺は、迷わず結晶に手を伸ばした。
奔流のように、失われた記憶の全てが流れ込んでくる。守り手として生まれた意味。リナと過ごした、修正によって消え去った数多の幸せな日々。そして、俺がこのまま宿命を全うすれば、やがて完全に消滅するという絶対的な未来。
リナが泣きながら俺の腕に縋りつく。「行かないで!お願いだから、ここにいて…!あなたのいない世界なんて、私には意味がない!」
俺は、全てを思い出したこの腕で、初めてリナを抱きしめた。温かくて、壊れそうだ。
「君の幸せが、僕にとっての唯一の真実だ」
俺は選択する。リナが創ろうとした「偽りの歴史」ではない。彼女が、俺のいない世界で、それでも笑って生きていける「正しい歴史」を。その代償が、俺の完全な消滅だとしても。
「愛してる、リナ」
俺の身体が、足元から光の粒子となって崩れていく。リナの悲鳴が、遠ざかる意識の中で木霊する。
消えゆく瞬間、リナが握りしめていたペンダント――俺との偽りの記憶が結晶化した、最後の破片――が砕け散り、柔らかな光が彼女を包んだ。
………。
柔らかな西日が差し込む図書館で、リナはふと顔を上げた。なぜだろう、読んでいた本の文字が滲んで見える。理由もなく涙が頬を伝い、机の上にぽつりと染みを作った。窓の外の夕焼け空を見つめながら、彼女は、まるで遠い夢で聞いたことのある名前を、無意識に呟いていた。
「カイ……」
それは、歴史のどこにも記録されていない名前。世界中の誰もが忘れてしまった存在。
けれど、失われたはずの温かい記憶が、愛した人の優しい笑顔が、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。彼らの愛だけが、全ての歴史を超えた唯一の真実として、彼女の魂に、永遠に刻まれた。