第一章 硝子の歓喜
相馬旬(そうま しゅん)の指先は、歴史そのものに触れることを許されていた。彼が所属するのは、歴史記録編纂局の第七資料室。通称「残響(エコー)分析室」。ここで働く編纂官は、発掘された遺物に触れ、そこに宿る微かな記憶の断片――「残響」――を読み取り、公式の歴史記録を補完する稀有な能力者たちだ。
旬の仕事は、客観的で、冷静で、感情を排したものでなければならなかった。彼は、歴史という巨大なタペストリーの、解れた糸を一本一本紡ぎ直す職人のようなものだ。個人的な感傷は、記録の純度を汚す不純物にすぎない。彼はそう信じ、誰よりも精密な報告書を提出することで評価を得ていた。
その日、彼のデスクに置かれたのは、西暦二世紀、ローマ帝国時代のものとされる、緑色がかったガラスの破片だった。何の変哲もない、ワイン瓶の底だったかもしれない一片。記録によれば、ポンペイ近郊の、名もなき奴隷たちが暮らした居住区跡から出土したという。
旬は白い手袋を外し、深呼吸一つで精神を集中させた。冷たく、ざらついた感触が指先に伝わった瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
――陽光が、痛いほど目に染みた。むせ返るような埃と、焼けたパンの香ばしい匂い。ざわめき。耳をつんざくような喧騒。そして、目の前に広がるのは、目も眩むような闘技場の熱狂。しかし、旬の意識は観客席にはない。彼は、闘技場の砂を蹴立てて駆ける、小さな少女の視界を追体験していた。
(奴隷の少女か……過酷な記憶だろう)
旬は身構えた。残響から伝わるのは、恐怖、苦痛、絶望がほとんどだ。しかし、彼の予想は根底から覆された。少女の心を満たしていたのは、純度百パーセントの、一点の曇りもない「歓喜」だったのだ。
翼を持つ獅子を俊敏な動きでかわし、銀色に輝く槍を投げる。その軌跡は空を切り裂き、獅子の心臓を見事に貫いた。天から降り注ぐ金貨の雨、割れんばかりの喝采。少女は天を仰ぎ、胸いっぱいに勝利の空気を吸い込む。やった。私が、世界を救ったのだ。
「……ありえない」
旬は思わず声を漏らし、ガラス片から指を離した。額には玉の汗が浮かんでいる。残響分析には慣れているが、これほど鮮烈で、そして矛盾した記憶は初めてだった。奴隷居住区跡から出土したガラス片。持ち主は、おそらく名もなき奴隷の少女。それなのに、なぜ英雄のような、輝かしい歓喜の記憶が宿っているのか。
公式記録には、彼女の存在を示す記述などどこにもない。歴史のタペストリーに、彼女の糸は一本たりとも織り込まれていなかった。だが、指先に残るあの歓喜の熱は、あまりにも生々しく、旬の心を掴んで離さなかった。それは、彼の編纂官としての冷静な日常を覆す、最初の不協和音だった。
第二章 矛盾の欠片
旬は、あの硝子の少女に取り憑かれていた。報告書には「闘技場での勝利を夢想した際の、強い感情の残滓と推察」と、あくまで客観的な分析を記した。だが、彼の心は納得していなかった。あれは単なる夢想ではない。もっと確かな、魂の叫びのような何かだった。
彼は上司の制止を振り切り、同じ遺跡から出土した他の遺物――「矛盾の欠片」たち――の分析に没頭し始めた。編纂官にとって、特定の対象に固執することは、記録の客観性を損なう最大の禁忌だった。
最初に触れたのは、赤茶けた陶器の欠片。指を乗せた瞬間、世界は冷たい闇に閉ざされた。
――雨が頬を打つ。泥濘に足を取られ、膝をつく少女。目の前で、屈強な仲間が敵の刃に倒れる。伸ばした手は空を掴み、喉から迸ったのは悲鳴にならない慟哭。守れなかった。また、失ってしまった。深い、深い「絶望」が、旬自身の心をも蝕んでいく。
次に、一本の錆びた鉄釘に触れた。
――燃え盛る炎。煙が喉を焼く。少女は小さな拳を握りしめ、憎悪に満ちた目で、巨大な影を睨みつけていた。その影は、豪奢な鎧をまとった将軍のようだった。許さない。お前だけは、絶対に。骨の髄まで焼き尽くすような、純粋な「怒り」。
歓喜、絶望、怒り。あまりにも振れ幅の大きい感情の断片が、旬の中で渦を巻いた。彼女はいったい何者なのだ。英雄なのか、悲劇のヒロインなのか、復讐者なのか。まるで、一つの人格とは思えなかった。
「相馬君。君は歴史を編纂しているのか、それとも物語を創作しているのかね」
上司である初老の室長が、静かに彼の背後から声をかけた。その声には、失望と警告の色が滲んでいた。
「歴史とは、事実の積み重ねだ。個人の感情の揺れ動きは、記録のノイズでしかない。一人の名もなき奴隷の少女に、そこまで固執する意味がどこにある?」
「ですが、室長。この感情の断片は、あまりにも鮮烈すぎる。記録に残らない何か、重要な何かが隠されている気がしてならないんです」
「その『気がする』という主観こそが、我々の仕事の敵なのだよ。もうその案件からは手を引きなさい。これは命令だ」
旬は唇を噛み締めた。室長の言うことは正しい。それがプロフェッショナルなのだ。だが、指先に残る少女の感情の熱は、冷たい理屈を溶かしていく。歴史とは、本当に、年号と事件と、権力者の名前だけで構成された無味乾燥なものなのだろうか。そこに生きた人々の、声にならない叫びや、名もなき喜びは、すべてノイズとして切り捨てられていいものなのだろうか。
旬の心に、編纂官としての矜持と、一人の人間としての好奇心が、大きな亀裂を生み始めていた。
第三章 青銅の英雄譚
命令に背くことになると分かっていながら、旬の足は収蔵庫の最深部へと向かっていた。彼が探し求めていたのは、同じ遺跡から出土した遺物リストの最後に記されていた、一つの装飾品。植物の蔦を模した、簡素な作りの青銅の腕輪。奴隷が身につけるには、不釣り合いなほど繊細な品だった。これに触れれば、何かが分かるかもしれない。最後の、そして最大の断片が見つかるかもしれない。
冷たい金属の感触が、彼の指先を包んだ。その瞬間、これまでの断片的な残響とは比較にならない、巨大な奔流が彼の意識を飲み込んだ。それは、一人の少女が生きた、もう一つの「歴史」のすべてだった。
――彼女の名はリリア。奴隷ではなかった。ポンペイの街で、詩を愛する裕福な貴族の娘として生を受けた。父親は彼女に、文字と、そして物語を創る素晴らしさを教えた。「いいかい、リリア。現実は一つでも、物語は無限に創れる。物語は、魂の翼なのだよ」
幸せな日々は、突然終わりを告げる。政争に巻き込まれた父は処刑され、家は焼き払われ、リリアはすべてを失い、奴隷として売り飛ばされた。絶望の淵。しかし、彼女は壊れなかった。父の言葉が、彼女の中で蘇ったからだ。
「物語は、魂の翼」
彼女は、自分の過酷な現実を、壮大な冒険物語に書き換えることを決意した。
灼熱の太陽の下、石を運ぶ重労働は、「炎の巨人が守る魔の山から、聖なる石を持ち帰る試練」。粗末な食事は、「森の賢者から与えられた、力を得るための魔法の果実」。理不尽な鞭打ちは、「闇の魔王の手先との熾烈な戦いで負った名誉の負傷」。
彼女は、自分を主人公――王国を追われた王女『リリアナ』――とし、同じ境遇の奴隷たちを、物語の中では「忠実な騎士」や「魔法使いの弟子」に見立てた。彼らはリリアの語る物語に目を輝かせ、辛い現実を束の間忘れることができた。
旬が見た「歓喜」の記憶。あれは、リリアが空想の物語の中で、翼を持つ獅子(グリフォン)の姿をした「看守長」の圧政を打ち破り、仲間たちに特別な食事を分け与えることに成功した日の記憶だった。ガラス片は、その日に振る舞われた葡萄酒の瓶の欠片だったのだ。
「絶望」は、病で死んだ仲間を、「物語の中で闇の刃に倒れた騎士」として看取った時の記憶。「怒り」は、仲間を虐げる新たな主人を、「物語の最終ボスである邪悪な皇帝」に見立てて、立ち向かう決意を固めた瞬間の記憶だった。
彼女は、現実から逃避したのではない。現実と戦い、生き抜くために、自分だけの壮大な英雄譚を紡ぎ続けていたのだ。公的な歴史は、彼女を「没落貴族の娘、後に奴隷」としか記録しないだろう。だが、彼女の内面では、誰にも知られることなく、ローマのどんな英雄にも劣らない、壮絶で、気高い歴史が刻まれていた。
旬は、腕輪から指を離し、その場に崩れ落ちた。涙が溢れて止まらなかった。自分がこれまで編纂してきた「歴史」とは、何だったのか。人の魂の輝きを無視した、ただの抜け殻の記録ではなかったのか。
歴史とは、起こった出来事の羅列ではない。人がどう生き、何を感じ、何を信じたかという、無数の「物語」の集合体なのだ。その真実に打ちのめされ、旬の価値観は音を立てて崩れ去った。
第四章 記録されない歴史
自分のデスクに戻った旬は、長い時間、真っ白な報告書を前にして動けなかった。どう記せばいい? 事実だけを記すなら、「対象の少女は、過酷な現実を空想の物語に置き換えることで精神的均衡を保っていたと推察される」の一文で終わる。それは、室長が求める、客観的で、正確な報告書だろう。
だが、そんな言葉で、リリアが生きた壮大な物語を要約してしまっていいのだろうか。彼女の気高さ、魂の輝きを、「精神的均衡」などという無味乾燥な言葉で片付けてしまっていいのだろうか。
旬は、ペンを握りしめた。彼の中で、何かが変わった。もはや彼は、歴史というタペストリーの解れを直すだけの職人ではなかった。彼は、織り込まれることのなかった、名もなき糸の美しさと尊さを知ってしまったのだ。
彼は、定められたフォーマットに従い、淡々と分析結果を記述していった。出土場所、年代、残響から読み取れた断片的な感情のリスト。そして、腕輪から得られた彼女の境遇の変転。すべてを、規則に則って書き連ねた。
しかし、報告書の最後の欄外に、彼はインクの色を変え、私的な追記として、ただ一文を書き加えた。
『追記:記録番号B-774、名もなき少女。彼女はローマの片隅で、誰よりも壮大な歴史を生きた英雄だった』
それは、編纂官としての越権行為であり、査問にかけられるかもしれない愚行だった。だが、旬に後悔はなかった。これは、彼がリリアという一人の人間の「物語」に触れ、歴史編纂官として、そして一人の人間として、生まれ変わった証だった。
数日後、報告書は黙って受理された。室長が何を思ったのかは分からない。
旬は、新たな遺物を手に取った。それは、戦国時代のものとされる、ひび割れた茶碗だった。以前の彼なら、その所有者がどんな武将で、どんな戦で使われたのかという「事実」にしか興味を持たなかっただろう。
だが今の彼は違った。彼はそっと目を閉じ、指先に意識を集中させた。
この茶碗の向こうにいる、名もなき誰か。あなたがその生涯で紡いだ、ささやかで、しかし尊い「物語」を、どうか私に教えてほしい。
その手つきは、単なる分析者のものではなかった。歴史という大河の底に沈んだ、無数の魂の物語に耳を澄ます、敬虔な聴き手のものだった。世界から忘れ去られた声なき声が、彼の指先を通して、再びこの世に響き始める。その小さな残響こそが、記録されることのない、しかし決して失われてはならない、真の歴史なのかもしれない。