幸福スコア73.4の男

幸福スコア73.4の男

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第一章 幸福の番人

柏木聡の手首で、生体デバイスが青白い光を放った。ディスプレイに表示された数字は『73.4』。安定している。この国では、それが何よりも重要だった。

聡は厚生最適化局に勤めるエリート職員だ。彼の仕事は、全国民の「幸福度スコア」を監視し、基準値を下回る“不幸”な市民を特定、適切な「幸福化プログラム」へと誘導すること。政府が開発したこのシステムは、脳内化学物質のバランスから心拍数、微細な表情筋の動きまでをリアルタイムで分析し、個人の幸福を0から100までの数値で可視化する。高スコア者は社会的な信用を得て、豊かな生活を享受できる。一方、低スコア者は「社会不適合予備軍」と見なされ、就職や住居の選択において厳しい制約を課せられる。

聡は、このシステムこそが人類を争いや嫉妬といった原始的な感情から解放し、効率的で安定した社会を築いたと信じて疑わなかった。彼の日常は、規則正しく、感情の起伏も少ない。毎朝同じ時間に起き、栄養バランスが最適化された食事を摂り、仕事に没頭する。彼のスコアが常に70点台で安定しているのは、この徹底した自己管理の賜物だった。感情の波は、スコアの乱高下を招くノイズでしかない。聡はそう考えていた。

月曜の朝、彼の端末に一件の要注意ファイルが転送されてきた。

『対象者: 水野莉奈 年齢: 28歳 居住区: 第七管区 スコア: 9.8 (過去半年間平均)』

9.8。聡は思わず眉をひそめた。システムの導入以来、これほど持続的に低いスコアを記録する人間は稀だ。通常、スコアが30を割り込むと自動的にカウンセリングが義務付けられ、20以下が続けば強制的な薬物治療や環境矯正を含む「幸福化プログラム」が適用される。だが、この水野莉奈という女は、あらゆる介入を拒絶し続けているという。

「柏木君、この案件、君に担当してもらう」上司の冷たい声がオフィスに響いた。「第七管区の古い居住区で古書店を営んでいるらしい。我々のシステムの正当性に対する、生きた反証になりかねん。君の論理的なアプローチで、彼女を“正常”な状態に戻してくれたまえ」

聡は無表情に頷いた。彼の胸には、システムの秩序を乱す異物に対する、冷たい使命感が燃えていた。感情ではなく、あくまで論理的な義務感だ。彼は自身のスコアが73.5に微増したのを確認し、水野莉奈のファイルを深く読み込み始めた。彼女の写真を見ると、色素の薄い瞳をした、どこか儚げな女性が写っていた。その表情からは、幸福も不幸も読み取れなかった。まるで、システムの測定範囲外に存在する何かを、その瞳の奥に秘めているかのように。

第二章 スコア10.0の女

第七管区は、高層ビルが立ち並ぶ都心から忘れ去られたように、古い木造家屋が密集するエリアだった。空気には、湿った土と古紙の匂いが混じり合っている。聡が幸福スコアの低い人間が集まるこの地区に足を踏み入れるのは、初めてのことだった。彼のデバイスが、不快な環境を検知してか、72.9へとわずかに数値を下げた。

目的の古書店『時の葉』は、蔦の絡まる小さな建物の1階にあった。聡が軋むドアを開けると、カラン、と乾いたベルの音が鳴った。店内は、インクと埃と、そして意外にも芳しい珈琲の香りで満たされていた。壁一面に並んだ本棚は、天井に届くほど高く、その背表紙は長い年月を経て色褪せている。

カウンターの奥から、写真で見た通りの女性が顔を上げた。水野莉奈だった。彼女は聡の腕にあるデバイスを一瞥すると、静かな声で言った。

「厚生最適化局の方ですね。お話は伺っています」

彼女のスコアは、この瞬間も10.2を示しているはずだ。しかし、その佇まいは落ち着き払っており、不幸に打ちひしがれているようには到底見えなかった。

「水野さん。あなたのスコアは、社会生活を営む上で極めて危険な水準にあります」聡は用意してきた台詞を、感情を排して口にした。「我々はあなたを救いたい。幸福化プログラムを受け入れれば、すぐにでも安定したスコアを取り戻せます」

莉奈は答えず、ゆっくりとサイフォンに湯を注いだ。コポコポという心地よい音と共に、珈琲の香りが一層濃くなる。

「珈琲、いかがですか」

「結構です。私は仕事で来ています」

「そうですか」彼女は少し寂しそうに微笑むと、自分のためのカップに琥珀色の液体を注いだ。「私が不幸に見えますか?」

「見えません。ですが、数字がそう示している。システムは絶対です。あなたの主観的な感覚は、判断基準になり得ません」

「システムが測っているのは、本当に『幸福』なのでしょうか」莉奈はカップを両手で包み込み、その湯気を見つめながら呟いた。「嬉しい、楽しい、心地よい。そういう感情を高めることで、スコアは上がるのでしょう。でも、人間にはもっと別の感情もあるはずです。悲しい、寂しい、切ない……そういう、スコアには反映されない、けれど、とても大切な感情が」

聡は反論しようとしたが、言葉に詰まった。彼女の言葉は非論理的だ。だが、その静かな声と、店内に満ちる穏やかな空気、古書の持つ独特の存在感が、聡の鉄壁の理性を少しずつ侵食していくようだった。彼は初めて、自分のスコアがなぜか71.8まで下がっていることに気づき、微かな動揺を覚えた。

それから聡は、週に二度、莉奈の元へ通うようになった。彼女を説得するためだ。しかし、対話を重ねるほど、彼の心は揺らぎ始めた。莉奈は、亡くなった祖父から受け継いだこの店で、一冊一冊の本を慈しむようにして生きていた。彼女は、物語の中にある喜びも悲しみも、すべてを等価なものとして受け入れていた。

「悲しい物語を読むと、私のスコアはもっと下がるんです。でもね、心が豊かになる気がするんです。誰かの痛みに寄り添うことで、初めて見える景色があるから」

ある日、彼女がそう言った時、聡は自分のデバイスが計測する数字と、自分が今感じている奇妙な安らぎとの間に、埋めがたい乖離があることを認めざるを得なかった。

第三章 偽りのアルゴリズム

莉奈を理解するため、聡は職権を濫用し、彼女の過去の個人データにアクセスした。そして、彼は信じがたい事実を発見する。

水野莉奈は、かつて幸福スコア98.6を記録した、超エリートだったのだ。

彼女は著名な建築家の両親のもとで何不自由なく育ち、将来を嘱望されたバイオリニストだった。しかし、五年前に全てが変わった。両親が乗った自動運転車が、システムの誤作動による事故で崖から転落。二人とも即死だった。

その日を境に、彼女のスコアは奈落の底へと落ちていった。凄惨な事故の記憶、耐えがたい喪失感。システムは彼女の深い悲しみを「異常」と判断し、幸福化プログラムを推奨した。だが、彼女はそれを拒絶した。両親を失った悲しみを、薬やプログラムで消し去ることは、彼らの死そのものを無かったことにする行為だと感じたからだ。彼女はバイオリンを置き、祖父の古書店に引きこもり、自ら「幸福」から遠ざかることを選んだのだ。

聡は愕然とした。システムが絶対だと信じてきた彼の世界が、ガラガラと音を立てて崩れ始める。悲しみは、克服すべき異常な状態(バグ)などではない。それは、愛する者を失った人間にとって、あまりにも自然で、尊厳ある感情ではないか。

衝撃はそれだけでは終わらなかった。莉奈のデータをさらに深く掘り下げていくうち、聡はシステムの根幹に関わる、決して開けてはならない扉を開けてしまった。彼は、幸福度スコアを算出するアルゴリズムのソースコードの一部を発見したのだ。そこに記されていたのは、おぞましい真実だった。

スコアの評価基準は、ドーパミンやセロトニンといった単純な脳内物質の量だけではなかった。そこには、複雑なバイアスがかけられていたのだ。

『推奨される消費活動を行った場合、スコアに+0.5ポイントの補正』

『政府広報コンテンツの視聴に対し、+0.3ポイントの補正』

『反体制的なキーワードを含む書籍の閲覧に対し、-1.2ポイントの補正』

人々が感じている「幸福」は、自然な感情の発露ではなかった。それは、社会にとって都合の良い、従順な市民を生産するために、システムによって巧妙にデザインされた「快楽」のパッケージだったのだ。人々は知らず知らずのうちに、管理された幸福のレールの上を歩かされ、消費と従順さの対価として、スコアという名の麻薬を与えられていただけだった。

聡は全身から血の気が引くのを感じた。自分の安定したスコア『73.4』もまた、システムに最適化された、空虚な数字に過ぎなかったのだ。莉奈が低いスコアに甘んじていたのは、不幸だったからではない。彼女は、この巨大な欺瞞に、たった一人で抗っていたのだ。悲しみという人間だけが持つ聖域を守ることで、システムの支配から自由であろうとしていた。聡は自分の手首で青白く光るデバイスを、まるで呪いの刻印のように見つめた。

第四章 測定不能の心

翌日、聡は厚生最適化局に辞表を提出した。上司は彼を狂人を見るような目で見たが、聡は何も答えなかった。彼の心は、もうシステムの数字には縛られていなかった。

足は自然と、第七管区の古書店『時の葉』へと向かっていた。軋むドアを開けると、昨日と同じ、珈琲と古書の匂いが彼を迎えた。カウンターの向こうで、莉奈が静かに本を読んでいたが、顔を上げると、聡の様子に全てを察したかのように、小さく息を呑んだ。

聡は無言でカウンターに近づき、おもむろに自分の左腕を差し出した。そして、長年、自分の身体の一部であった生体デバイスを、強い力で引き剥がした。肌に軽い痛みが走り、解放感が全身を駆け巡る。彼はそのデバイスを、カツン、と乾いた音を立ててカウンターの上に置いた。もう、青白い光はどこにもない。

「僕も……」聡は、少し掠れた声で言った。「あなたと同じ珈琲が、飲みたい」

それは、システムの番人としてではなく、一人の人間としての、初めての渇望だった。莉奈の瞳が、わずかに潤んだように見えた。彼女は何も言わず、ただ静かに頷くと、ゆっくりと立ち上がり、もう一つカップを用意し始めた。

聡は、窓から差し込む午後の光に照らされた埃が、きらきらと舞うのを眺めていた。彼の幸福度は、今や測定不能だ。これから先、社会的な地位も、安定した生活も失うだろう。低スコア者どころか、スコアを持たない「存在しない人間」として扱われるかもしれない。不安がなかったと言えば嘘になる。

だが、彼の胸には、これまでの人生で一度も感じたことのない、温かく、そして確かな感情が満ちていた。それは喜びとも悲しみとも違う、もっと深く、複雑で、名付けようのない感覚だった。サイフォンから立ち上る湯気と、芳しい珈琲の香りの中で、聡は、数字では決して測ることのできない、人間性の尊厳を、確かに取り戻していた。

莉奈が、二つのカップにそっと珈琲を注ぐ。その琥珀色の液体は、まるで新しい人生の始まりを告げているかのようだった。管理された幸福の終わり。それは、不確かで、時に痛みさえ伴うかもしれない、本物の人生の幕開けだった。

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