第一章 空白の辞書
私の通う私立言ノ葉(ことのは)学園には、一つの絶対的な掟がある。卒業までに、世界にまだ存在しない「自分だけの言葉」を一つ、創造しなければならない。それは『創言(そうげん)』と呼ばれ、私たちの存在証明そのものだった。
放課後の教室は、創造の熱気に満ちていた。夕陽が差し込む窓辺で、親友の彩葉(あやは)が誇らしげに自分の創言を発表する。
「私の創言は、『陽だまりの瞬き(ひだまりのまたたき)』。冬の晴れた日に、窓辺で猫がうたた寝をしている時のような、小さくて、でも確かな幸福感のこと」
その言葉が紡がれた瞬間、教室の空気がふわりと温かくなったような気がした。クラスメイトたちから感嘆のため息が漏れる。彩葉の周りには、いつもそんな陽光のような輝きがあった。彼女の創言は、まさに彼女自身を写す鏡だった。
学園では、優れた創言は賞賛され、その生徒の将来の指標とさえなる。『空を泳ぐ魚の寂寥(せきりょう)』、『雨上がりのアスファルトに残る虹の欠片(かけら)』、『真夜中に開いた本の最初のインクの匂い』。同級生たちの辞書は、瑞々しい感性で編まれた美しい言葉で、次々と埋まっていく。
それに比べて、私の辞書は空白だった。水無瀬 響(みなせ ひびき)、十七歳。私の内面は、静まり返った湖のようで、どんなに石を投げ込んでも、波紋一つ立たない。感情がないわけではない。ただ、それを掬い上げるための適切な網、つまり言葉が見つからないのだ。美しいものを見ても、悲しい出来事に触れても、胸の内で渦巻く名付けようのない感覚は、唇に届く前に霧散してしまう。
「響は、どんな創言になりそう?」
帰り道、彩葉が無邪気に尋ねる。私は曖昧に微笑んで、首を横に振ることしかできない。
「まだ、探し中」
嘘だった。探しているのではない、途方に暮れているのだ。言葉を創れない人間は、この学園では存在しないのと同じだ。卒業式の日、全校生徒の前で自分の創言を発表できない者は、卒業証書すら手にできない。それは、社会への扉が固く閉ざされることを意味した。
私の心は、ページが破り取られた古い辞書のように、がらんどうだった。夕焼けが街を茜色に染める中、私は自分の輪郭さえも、その濃い影の中に溶けて消えてしまいそうな不安に苛まれていた。
第二章 静寂の書庫
焦燥感に駆られた私が唯一安らぎを見出せる場所は、学園の最も古い西棟の奥にある図書館、通称『静寂の書庫』だった。そこは、最新の電子書籍が並ぶ中央図書館とは違い、忘れ去られた紙の本だけが眠る場所。黴と古いインクの匂いが混じり合い、時間の流れが止まったかのような空間だった。
私は創言のヒントを探すという名目で、毎日のようにそこへ通い詰めた。埃をかぶった背表紙を指でなぞり、黄ばんだページをめくる。そこに記された、今はもう使われることのない死語たちの響きに、なぜか心を慰められた。
書庫の主は、白髪の物静かな司書、守屋(もりや)先生だった。彼は私の存在に気づいても、何も言わずにただ静かに頷くだけだったが、ある日、私が分厚い古語辞典と格闘していると、そっと声をかけてきた。
「言葉は、生まれるだけではない。忘れられ、死んでいくものでもある。そして時には、再び目覚めるのを待っているものもある」
先生の深い声は、書庫の静寂によく馴染んだ。
「目覚めるのを、待っている?」
「そう。誰かの心に再び見出されるのを、じっと待っている言葉がね」
その言葉は、私の心の湖に落ちた小石のように、静かな波紋を広げた。
そんな日々が続くある雨の日、私は書庫の最奥、これまで足を踏み入れたことのない一角で、奇妙な本を見つけた。革の表紙はひび割れ、題名すらも判読できない。ページを開くと、そこには文字と呼べるものはなかった。それは、植物の蔓や、水の流れ、風の軌跡を写し取ったような、有機的で流麗な記号の連続だった。意味は全く分からない。けれど、その記号の一つ一つが、まるで呼吸しているかのように、私の目に訴えかけてくる。
私はその本に魅入られた。毎日、その不思議な記号をノートに書き写し、意味を解き明かそうと試みた。それはまるで、自分自身の心の中に存在する、まだ名前のない感情の形を探す作業に似ていた。彩葉たちが華やかな言葉を紡ぐ外の世界とは隔絶された、私だけの静かな儀式だった。卒業の日が刻一刻と迫っていることさえ、その本に向き合っている間は忘れられた。
第三章 失われた共鳴
卒業式を一週間後に控えた最終発表会の日。生徒たちが次々と壇上に上がり、一年間かけて磨き上げた創言を披露していく。誰もが自信に満ち、輝いて見えた。私の番が、刻一刻と迫ってくる。私の辞書は、まだ空白のままだった。
パニックに陥った私の頭の中で、あの書庫の不思議な記号が明滅する。私は無意識に、ノートの隅に何度も書き写した、ある一つの記号を指でなぞっていた。それは、木々の間から漏れる光と、風に揺れる葉のざわめきを同時に表したかのような、優美な形をしていた。
「――水無瀬 響」
名前を呼ばれ、足が震えた。逃げ出したい衝動を抑え、ふらつく足で壇上へ向かう。マイクの前に立ち、クラスメイトたちの期待と憐憫が入り混じった視線を一身に浴びる。頭が真っ白になった。
何か、何か言わなくては。その一心で口を開いた時、あの記号の形が、一つの音となって喉から滑り出た。
「……Komore(コモレ)」
それは、創言ではなかった。ただの音の響きだ。意味もない。けれど、私がずっと表現したかった、切なくて、温かくて、懐かしい、あの名付けようのない感覚の全てが、その響きには込められていた。
静まり返る講堂。嘲笑が聞こえるかと思った。しかし、次の瞬間、誰もが予期しない出来事が起こった。
講堂の床が、ごく微かに、しかし確かに振動したのだ。窓ガラスがカタカタと微かな音を立て、壁にかかった歴代の創言を記した額が、一斉に揺れた。そして、遥か西棟の方角から、地の底から響くような、無数の本のページが一斉にめくれるような音が聞こえてきた。
呆然とする生徒たちの中をかき分けるようにして、守屋先生が血相を変えて壇上に駆け寄ってきた。彼は私の肩を掴み、信じられないものを見る目で私を見つめた。
「君は……今、何と言った?」
「こもれ、と……」
「まさか……。それは『創言』ではない!」先生の声は、驚愕と、そして微かな畏怖に震えていた。「それは、『古言(こげん)』だ。失われたはずの、共感の言葉だ!」
守屋先生が語り始めた真実は、私たちの価値観を根底から覆すものだった。
遥か昔、人々は『古言』と呼ばれる言葉で、感情や感覚を直接分かち合っていたという。『Komore』もその一つで、木漏れ日を浴びた時の安らぎや生命の息吹を、言葉を介して誰もが同じように体感できる、共鳴の力を持っていた。
しかし、個人の思考や感情が完全に共有されることを恐れた時の権力者たちが、その力を危険視し、『古言』を歴史から抹消した。そして、人々が二度と共感で繋がることがないように、新たな教育システムを構築した。
それが、この言ノ葉学園の『創言』だったのだ。
自分だけの、他者とは決して交わらない、孤立した言葉を創らせることで、私たちの創造性を管理し、共感の力を封じ込める。それが、この学園の真の目的だった。私たちは、個性を尊重されていると信じ込まされ、実は巨大な鳥籠の中で、分断されるための言葉を必死に紡がされていたに過ぎなかった。
私の『Komore』は、その鳥籠に、初めて響いた綻びの音だった。
第四章 はじまりの言葉
講堂は、静寂よりも深い沈黙に支配されていた。守屋先生の言葉は、私たち一人一人の胸に重く突き刺さった。自分たちが誇りにしてきた創言が、実は分断のための道具だったという事実は、あまりにも衝撃的だった。
その沈黙を破ったのは、彩葉だった。彼女はゆっくりと立ち上がると、私のそばへ歩み寄った。その瞳は揺れていたが、やがて決意の色を宿した。
「私の、『陽だまりの瞬き』は……」
彼女は震える声で、自分の創言を口にした。それは、今まで聞いていたはずの言葉なのに、どこか違って聞こえた。孤立した美しい宝石ではなく、誰かに手渡されるのを待っている、温かい光のように。
「響の『Komore』に触れたら、私の言葉も、誰かと分かち合いたくなった」
その言葉を合図にしたかのように、他の生徒たちも、ぽつり、ぽつりと自分たちの創言を口にし始めた。それはもはや、優劣を競うための発表ではなかった。それぞれの言葉が、それぞれの孤独な世界が、互いに響き合い、繋がりを求め始めているかのようだった。誰かの寂寥が、誰かの虹の欠片に寄り添い、新しい意味の色を帯びていく。
私は、自分が空っぽだと思っていた。言葉を創れない、価値のない存在だと。でも、違ったのだ。私の内側には、誰よりも深く、誰もが忘れてしまった共感の言葉が眠っていた。新しい言葉を創ることだけが創造性ではない。失われたものを見つけ出し、再び世界に響かせること。それもまた、尊い創造なのだと、ようやく気づくことができた。
卒業式の日。私は、学園の代表として壇上に立った。本来であれば、最も優れた創言を生み出した生徒が立つ場所だ。しかし、学園のシステムが根底から揺らいだ今、その役目は私に託された。
私はマイクに向かい、静かに語りかける。
「私の言葉は、私だけのものではありません。それは、忘れられた誰かの想いであり、これから出会う誰かとの架け橋です。私たちは、自分だけの言葉を創るためにここにいたのではありません。言葉を通じて、世界と、そして隣にいる誰かと、もう一度繋がるためにいたのです」
私の言葉が、静かに講堂に染み渡っていく。窓から差し込む春の光が、まるで無数の『Komore』となって、私たちの頭上に降り注いでいるようだった。その光の中で、同級生たちの顔が、昨日までとは違う、晴れやかな、そして少しだけ優しい表情で輝いているのが見えた。
私たちは、言葉の揺りかごから、今、旅立とうとしている。空白だった私の辞書の最初のページには、たった一つだけ、けれど無限の広がりを持つ言葉が、確かに刻まれていた。